末主
西夏|在位 1226–1227年
- 諱(本名)
- 李睍
- 在位
- 1226–1227年
- 在位期間
- 1年30日365名中291位タイ
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
献宗徳旺の急死を受け、群臣・国人が清平郡王(遵頊の子で徳旺の弟)の子である南平王・見を擁立。
出典: 西夏書事 巻42
死因の経緯
半年余の包囲戦の末に降伏。モンゴル軍に連行される途中、成吉思汗が病没していたことが判明し、諸将が遺命に従い秘密裏に処刑、一族もろとも滅ぼした。新元史「密諭左右:我死,勿發喪,俟西夏主來,即殺之」「脱欒奉遺詔,手刃西夏主睍,盡殺其族人」。成吉思汗の遺命による征服者側の公的処断のため処刑。
出典: 西夏書事 巻42/新元史 太祖本紀・脱欒伝
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
【重要:既存データとの相違】data/emperors.jsonの現行記述および本タスク冒頭の背景説明では「乾定4年7月、即位し『宝義』に改元」とされているが、原典を確認した結果これは裏付けが取れず、むしろ明確に否定される。西夏書事 巻42は末主即位の記事で『宝慶三年、夏乾定四年』の項に続けて『見以国勢瀕危、即位不改元、仍称乾定』(見=李睍は国勢が危ういため、即位しても改元せず、なお乾定を称した)と明記している。さらに宋史 巻245(夏国下)は歴代の夏主について毎回『改元○○』を明記する体裁を取っているが(例:遵頊『嘉定四年七月三日立…改元光定』、徳旺『改元乾定』)、末主については『清平郡王之子南平王睍立、二年丁亥秋、為大元所取、国遂亡』とのみ記し、改元の語が一切ない。続資治通鑑・新元史(太祖本紀・脱欒伝)にも『宝義』の年号名は一度も現れない。以上、原典(西夏書事・宋史)が明示的に『改元せず前代の乾定を継続使用した』と述べているため、eraChangeCountルール『前代の元号をそのまま継続使用した場合はカウントしない』に従い0とする。『宝義』はおそらく後代の地方志・年表類(あるいは中文Wikipedia等の二次資料)に由来する誤伝または異説と考えられ、原典による確認が取れない限り採用しない。データ側(data/emperors.jsonのreigns[0].note及びverification.notes、他の年号一覧等)の『宝義』表記について、原典に基づく再検証が必要である旨をプロジェクト側に申し送る。
大赦回数
西夏書事は乾定4年(末主即位年)〜宝慶3年/紹定4年(滅亡)の間の事跡を月単位で詳細に記す編年体史料だが、この短い治世(約1年強、モンゴル軍による半年の中興府包囲下)の記述中に「大赦」の語は一切見当たらない。宋史夏国伝下も末主については「清平郡王之子南平王睍立、二年丁亥秋、為大元所取、国遂亡」のみで大赦の記載なし。史料の性質上(滅亡直前の籠城戦のみが記録の中心)大赦の実施自体が想定しにくい状況。
立后回数
西夏書事・宋史夏国伝下いずれにも末主李睍の皇后冊立に関する記載なし。在位期間が1年強で、即位当初からモンゴル軍の侵攻・包囲に晒され続けていたため、立后の余裕がなかった可能性が高い。
皇太子廃立回数
duplicate placeholder
親征回数
西夏書事巻四十二を精査したが、見(末主)自身が軍を率いて出征した記録は無い。霊州救援(嵬名令公派遣)・合剌合察儿での防戦(見駐兵とあるが自ら出陣した記述なし)はいずれも将軍への委任または首都籠城戦であり、皇帝自身の親征には該当しない。
反乱鎮圧回数
在位約1年強の期間、原文に国内の部族反乱・民衆蜂起の記載は見当たらない。モンゴル軍との交戦(霊州・合剌合察儿・積石州・沙州・中興府包囲等)は全て対等勢力/外国との対外戦争として本カウントの対象外(ブロック共通ルールに基づきモンゴルは西夏に対しても外国勢力として扱う)。
被反乱回数
モンゴルによる西夏征服戦争(中興府包囲・降伏・成吉思汗遺命による処刑)は対外戦争であり、朝廷内部のクーデター・弑逆でもないためrebellionSufferedCountには計上しない(死因はdeathCauseフィールドで別途扱済み)。原文に国内反乱による被害の記載も無い。
遷都回数
西夏書事を通読。興慶府(後の中興府)が景宗の建国当初から一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
西夏書事巻四十二の末主(見)本紀原文を精査したが、生年・即位時年齢・没年齢に関する直接記載(「時年」等)は見当たらなかった。崩御日(1227-08-28、乾定5年7月15日)自体は既存reignsデータで確定済みだが、年齢情報とは独立のため accessionAge/deathAge は不明のまま確定する。調査済みだが不明。