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西夏第10代

末主李睍

在位 1226–1227年(334日)1226年8月 〜 1227年7月

日本は鎌倉時代

モンゴルが攻め寄せるなかで位を継ぎ、中興府で籠城したのちに降って殺された、西夏最後の皇帝である。

末主の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1226年8月〜1227年7月
334日長い順297位/365人即位の年齢は不詳
没年
1227年8月年齢不詳
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
先代
  • 献宗西夏末主は献宗の甥
次代
—
呼び名
姓李諱睍呼び名の見方

出典

在位
西夏書事 巻四十二/元史 本紀一 太祖
死因
西夏書事 巻42/新元史 太祖本紀・脱欒伝
即位経路
西夏書事 巻42

生涯

即位まで

献宗の死後、国人に立てられた南平王である。国勢が危うかったため、即位してもせず、乾定の年号を称し続けた。

史料について

続柄を、西夏書事は献宗の弟の清平郡王の子とし、続資治通鑑は献宗の弟とする。

治世と最期

1226年、モンゴルが霊州を攻めると、大将の嵬名令公に十万の兵で救わせたが敗れた。モンゴルは阿魯朮に諸軍を督させて中興府へ向かわせ、李睍は合剌合察児に兵を置いて拒んだが、阿魯朮は長い包囲で中興府を困らせた。1227年、モンゴル軍に疫病が出たと聞いて襲うことを謀ったが、果たさなかった。の高良恵が没すると三たび哭し、城中は意気をくじかれた。

チンギス・カンは察罕を城に入れて禍福を諭させた。やがて城中の食が尽き、李睍は図籍を奉じて降った。チンギス・カンが没すると、諸将は李睍を捕らえて殺した。

史料について

霊州の救援を、新元史のは李睍自身が五十営を率いて来援したとする。察罕の説得に、西夏書事は李睍が聞かなかったとし、元史と新元史の察罕伝は、城内が降伏を議した、あるいは夏主が降伏を請うたとする。元史は太祖紀で降伏だけを記し、懐都伝は合剌合察児の戦いで夏主を捕らえたとする。新元史は、チンギス・カンが西夏主が来たらすぐ殺せと密かに告げ、来朝した李睍が三日後にどおり殺されたとし、脱欒伝は脱欒が自ら手に掛けたとする。西夏書事の編者は、城を背に一戦すべきところを屈して生を求めたと李睍を批判する。

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宋・遼・金・西夏の勢力図(1226年)

勢力図

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1226年の地図に、末主が治めた国が描かれています。

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