道武帝
北魏(南北朝)|在位 398–409年
- 諱(本名)
- 拓跋珪
- 廟号
- 太祖
- 在位
- 398–409年
- 在位期間
- 10年342日365名中122位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 39歳(数え年)269名中・長寿順137位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:道武帝
即位の経緯
登国元年(386年)正月に代王として自立、同年4月に魏王と改称。皇始元年(396年)に群臣の勧進を受け、天興元年(398年)12月に正式に皇帝を称した。先行政権からの禅譲・世襲ではなく、代国再興〜魏王〜皇帝への自己昇格による建国。
出典: 魏書 巻2 太祖紀
死因の経緯
天賜六年(409年)冬十月、子の清河王拓跋紹によるクーデターで殺害された。太祖紀本文は「帝崩於天安殿」とのみ記すが、次代太宗紀冒頭に「天賜六年冬十月、清河王紹作逆、太祖崩」と明記され、太宗が即位後「入誅紹」したことも記録されている。
出典: 魏書 巻2 太祖紀/巻3 太宗紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
道武帝の皇帝在位期間(398年12月2日~409年11月6日)中の改元は天興(即位に伴う建国改元)・天賜の2回。それ以前の登国(代王即位時建元)・皇始(皇帝即位前の魏王期の改元)は皇帝在位期間外のため対象外。天賜六年(409年)に道武帝崩御まで天賜が続き、以降の改元なし。
大赦回数
本紀中「大赦」の語が用いられるのは即位時(天興改元時)と天賜改元時の2回のみ。天興二年正月の「曲赦京師」は都のみの部分赦のため対象外とした(大赦天下ではない)。太祖の出生時(建国三十四年)の大赦は昭成帝在位下の出来事であり道武帝在位期間外のため除外。
立后回数
本紀中「立皇后」の記述は天興三年の慕容氏立后1回のみで、廃后・再冊立の記述はない。
皇太子廃立回数
巻二太祖紀本文中に「皇太子」「太子」の語は一切登場せず、道武帝が皇太子を立てた記述自体が見当たらない(天興六年冬十月に皇子嗣を斉王、紹を清河王等に封じた記事はあるが立太子ではない)。皇太子廃立の事実なし。
親征回数
在位期間(皇帝号使用開始の天興元年十二月己丑=0398-12-02〜天賜六年十月=0409年死没)に絞り、『帝』『車駕』が自ら軍を率いたと明記される軍事行動のみを親征とした。即位前(登国元年〜皇始年間)の劉顕討伐・参合陂の戦い(対後燕)等は在位期間外のため対象外。天賜三年(406)夏四月の『蠕蠕寇邊、夜召兵、将旦、賊走、乃罷』は交戦に至らず親征として不計上。天賜六年(403)夏五月『大簡輿徒、將略江淮、平荊揚之亂』は準備の記述のみで実際の出征・交戦の記載がないため不計上。
反乱鎮圧回数
在位期間(398-12-02〜409)中に発生した、既に北魏の統治下・服属下にあった地域(中山・清河・范陽など後燕旧領で北魏が接収済みの地域)の官吏・民衆による蜂起のみを反乱鎮圧として計上した。対等政権(後燕・後秦・柔然・高車等)との戦争は除外。即位前(天興元年内、398年12月2日以前)に発生した尹国の謀反(信都襲撃未遂、討伐され斬)・広平太守辽西公元意烈の謀反(賜死)は在位期間外のため不計上。天賜六年(409)の『慕容支属百余家、謀欲外奔、發覺、伏誅』(外国への逃亡計画の摘発で挙兵に至らず)および同年八月の『衛王儀謀叛、賜死』(魏書・北史とも挙兵の記述なく『謀叛、賜死』のみで、討伐・戦闘の記載がない)は、実際の武装蜂起の証拠がないため『未然に発覚した謀反計画』として不計上とした(衛王儀の件はconfidence低めの判断のため要再検証の可能性あり)。
被反乱回数
反乱鎮圧回数(4件、既服属地域の官吏・民衆による蜂起)は対称基準の原則通り被反乱にも計上した(マージ時に機械修正:初回調査ではこれら4件が被反乱側から漏れていたため、対称基準に従い鎮圧側と同一の4件を追加)。加えて天賜六年(409)冬十月、次子清河王拓跋紹による宮廷クーデターで太祖が弑殺された事件を、朝廷内部の宗室による兵力を伴う弑逆(例外4)として被反乱に計上した(deathCauseフィールドと内容が重複するが別軸のため重複計上)。同年八月の『衛王儀謀叛、賜死』は原文に挙兵・戦闘の記述がなく『謀叛、賜死』のみのため、未然に発覚した謀反計画として不計上(rebellionSuppressionCount側と対称)。
遷都回数
在位中に遷都1回(0398年 盛楽→平城)。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢39歳は本紀に「時年三十九」と直接記載。生年は「建国三十四年七月七日」との記載があるが(建国紀年、西暦371年頃と推定)西暦換算未実施のためbirthDateは保留。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(17件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
遷都398年7月盛楽 → 平城
太祖道武帝(拓跋珪)天興元年(398年)秋七月「迁都平城,始营宫室,建宗庙,立社稷。」(魏書卷二・太祖紀)。同年六月に国号を「魏」と定め、七月に平城へ遷都、十二月に皇帝に即位(大赦、改元)。盛楽は登国元年(386年)二月「幸定襄之盛乐。息众课农」以来、拓跋珪の代・魏国の都として12年間機能していた既存の都であり(『後金→清』瀋陽→北京と同型の「自王朝がすでに持っていた前の都からの移転」)、建国時の最初の定都(例外規定)には該当しないと判断した。(出典: 魏書 巻二 太祖紀(天興元年))
改元398年12月2日天興元年十二月己丑、帝臨天文殿,太尉・司徒進璽綬,百官咸稱萬歳。
天興元年十二月己丑、帝臨天文殿,太尉・司徒進璽綬,百官咸稱萬歳。「大赦,改年」と明記。皇帝号使用開始(北魏建国)に伴う建国改元として1回とカウント(ユーザー指示に基づく)。天興の年号自体は同年正月から遡及的に紀年されているが、実際の改元宣言はこの即位儀礼の日と判断。
出典: 魏書 巻2 太祖紀
大赦398年12月2日天興元年十二月己丑、帝が天文殿に臨み太尉・司徒より璽綬を受け皇帝に即位。
天興元年十二月己丑、帝が天文殿に臨み太尉・司徒より璽綬を受け皇帝に即位。「大赦,改年」と明記(皇帝即位に伴う全国規模の大赦)。
出典: 魏書 巻2 太祖紀
親征399年1月〜399年3月高車(諸部落)
対象: 高車(諸部落)
結果: 勝利。高車雑種三十余部を破り、七万余口・馬三十余万匹・牛羊百四十余万を獲得。
魏書巻二太祖紀 天興二年正月庚午「車駕北巡、分命諸將大襲高車…車駕親勒六軍從中道自駮髯水西北」、三月己未「車駕至自北伐」。皇帝自ら六軍中道を率いた親征として1回とカウント。
反乱鎮圧399年3月趙準の乱(仇儒・趙準)
首謀者: 趙準(首謀者は前中山太守仇儒)
結果: 鎮圧成功
魏書巻二太祖紀 天興二年三月「中山太守仇儒亡匿趙郡、推群盗趙準為主、號使持節・征西大將軍・冀青二州牧・鉅鹿公、仇儒為準長史、聚黨煽惑。詔中領軍長孫肥討平之。」旧後燕領内で北魏が任命した官吏の逃亡者が偽称政権を立てた蜂起。
被反乱399年3月趙準の乱(仇儒・趙準)
首謀者: 趙準(首謀者は前中山太守仇儒)
結果: 鎮圧成功
魏書巻二太祖紀 天興二年三月「中山太守仇儒亡匿趙郡、推群盗趙準為主、號使持節・征西大將軍・冀青二州牧・鉅鹿公、仇儒為準長史、聚黨煽惑。詔中領軍長孫肥討平之。」旧後燕領内で北魏が任命した官吏の逃亡者が偽称政権を立てた蜂起。(対称基準に基づき鎮圧回数と同一事象として被反乱にも計上。既服属地域の官吏・民衆による武装蜂起であり、政権側が鎮圧の対象とした反乱のため対称基準の原則通り両方に計上する。)
反乱鎮圧399年4月〜399年5月傅世の乱
首謀者: 傅世(前清河太守)
結果: 鎮圧成功
魏書巻二太祖紀 天興二年夏四月「前清河太守傅世聚黨千餘家、自號撫軍將軍。」五月癸亥「征虜將軍庾岳討破之。」北魏が任命していた前官吏による蜂起。
被反乱399年4月〜399年5月傅世の乱
首謀者: 傅世(前清河太守)
結果: 鎮圧成功
魏書巻二太祖紀 天興二年夏四月「前清河太守傅世聚黨千餘家、自號撫軍將軍。」五月癸亥「征虜將軍庾岳討破之。」北魏が任命していた前官吏による蜂起。(対称基準に基づき鎮圧回数と同一事象として被反乱にも計上。既服属地域の官吏・民衆による武装蜂起であり、政権側が鎮圧の対象とした反乱のため対称基準の原則通り両方に計上する。)
反乱鎮圧399年7月〜400年1月盧溥の乱
首謀者: 盧溥
結果: 鎮圧成功(盧溥・子の煥を捕らえ京師で轘刑)
魏書巻二太祖紀 天興二年秋七月「范陽人盧溥、聚衆海濱、稱使持節・征北大將軍・幽州刺史、攻掠郡縣、殺幽州刺史封沓干。」北魏統治下の幽州刺史を殺害した蜂起。十二月に材官將軍和突へ討伐を命じ、三年正月戊午「和突破盧溥於遼西、生獲溥及其子煥、傳送京師、轘之。」
被反乱399年7月〜400年1月盧溥の乱
首謀者: 盧溥
結果: 鎮圧成功(盧溥・子の煥を捕らえ京師で轘刑)
魏書巻二太祖紀 天興二年秋七月「范陽人盧溥、聚衆海濱、稱使持節・征北大將軍・幽州刺史、攻掠郡縣、殺幽州刺史封沓干。」北魏統治下の幽州刺史を殺害した蜂起。十二月に材官將軍和突へ討伐を命じ、三年正月戊午「和突破盧溥於遼西、生獲溥及其子煥、傳送京師、轘之。」(対称基準に基づき鎮圧回数と同一事象として被反乱にも計上。既服属地域の官吏・民衆による武装蜂起であり、政権側が鎮圧の対象とした反乱のため対称基準の原則通り両方に計上する。)
親征402年7月〜402年12月後秦(姚興)
対象: 後秦(姚興)
結果: 柴壁の戦いで大勝(後秦将軍の義陽公平を撃破し水死させ、三万余人を捕虜とした)。姚興の追撃・蒲坂進攻は柔然の脅威を懸念して見送り、十二月に班師。
魏書巻二太祖紀 天興五年秋七月戊辰朔「車駕西討」、八月「至於柴壁…帝渡蒙坑、逆撃興軍、大破之」、十二月辛亥「至自西征」。後秦は北魏と対等な独立政権だが、皇帝自身が軍を率いて出征した事実(親征の定義)に基づきカウント。対等勢力との戦争であることは反乱鎮圧・被反乱の集計とは無関係(親征の定義に敵の性質による除外規定はないため)。
被反乱409年11月6日清河王紹の変
首謀者: 清河王拓跋紹(太祖の次子)
結果: 太祖崩御(弑殺)。紹は挙兵直後に一時政権を掌握しようとしたが、翌年(実質は直後)太宗明元帝(拓跋嗣)により誅殺された。
魏書巻二太祖紀「冬十月戊辰、帝崩於天安殿」。詳細は巻三太宗紀・巻十六列伝(清河王紹伝)に記載:『(貺母夫人賀氏が幽閉され殺されそうになったため)紹乃夜與帳下及宦者數人、逾宮犯禁。左右侍御呼曰「賊至!」太祖驚起、求弓刀不獲、遂暴崩。』夜間に従者・宦官数名を率いて武装し宮中に不法侵入したという記述があり、兵力(武装した従者集団)を伴う宗室によるクーデター・弑逆に該当(例外4)。事件後『肥如侯賀護舉烽於安陽城北、故賀蘭部人皆往赴之』など更なる動揺が生じたが、これは太宗(次代)の治世下の混乱であり道武帝自身の被反乱カウントには含めていない。startDate/endDateは既存データセットのreigns[0].endDate(0409-11-06)と整合させた。
改元日付不詳天賜元年冬十月辛巳、「大赦,改元」と明記。
天賜元年冬十月辛巳、「大赦,改元」と明記。天興から天賜への改元(天興は元年~六年の6年間使用)。
出典: 魏書 巻2 太祖紀
大赦日付不詳天賜元年冬十月辛巳、「大赦,改元」と明記(天賜改元と同時の全国規模の大赦)。
出典: 魏書 巻2 太祖紀
立后日付不詳天興三年三月戊午、「立皇后慕容氏」と明記。
天興三年三月戊午、「立皇后慕容氏」と明記。道武帝在位中に確認できる立后はこの1回のみ。
出典: 魏書 巻2 太祖紀
反乱鎮圧日付不詳張翹の乱
首謀者: 張翹(沙門)・鮮于次保(丁零)
結果: 鎮圧成功
魏書巻二太祖紀 天興五年(原文中の記載は二月癸丑の後、夏四月の前で開始月は不明記)「沙門張翹自號無上王、與丁零鮮于次保聚黨常山之行唐。夏四月、太守楼伏連討斬之。」北魏の郡太守が討伐した、統治下地域での蜂起。
被反乱日付不詳張翹の乱
首謀者: 張翹(沙門)・鮮于次保(丁零)
結果: 鎮圧成功
魏書巻二太祖紀 天興五年(原文中の記載は二月癸丑の後、夏四月の前で開始月は不明記)「沙門張翹自號無上王、與丁零鮮于次保聚黨常山之行唐。夏四月、太守楼伏連討斬之。」北魏の郡太守が討伐した、統治下地域での蜂起。(対称基準に基づき鎮圧回数と同一事象として被反乱にも計上。既服属地域の官吏・民衆による武装蜂起であり、政権側が鎮圧の対象とした反乱のため対称基準の原則通り両方に計上する。)