道武帝の人物データ
- 生年
- 371年8月4日
- 在位
- 代王386年〜398年
- 皇帝399年1月24日〜409年11月6日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 398年12月2日から
- 没年
- 409年11月6日39歳(数え年)長生き順同率135位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 明元帝北魏明元帝は道武帝の子
- 呼び名
- 姓拓跋諱珪廟号太祖呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 帝紀第二章(太祖紀)
- 死因
- 魏書 巻2 太祖紀/巻3 太宗紀
- 即位経路
- 魏書 巻2 太祖紀
生涯
どんな皇帝か
魏書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、中原を開いて制度を後世に残したことを不世出の神武と称え、思いがけない禍いを嘆く。
即位まで
代王昭成帝の嫡孫本家を継ぐ立場にある孫で、371年に生まれた。幼くして祖父が没し、苻堅の軍が侵入して引き揚げたあと、国の衆は散り散りになった。劉顕に命を狙われて賀蘭部へ逃れ、386年に牛川で代王の位に即き、まもなく魏王と改めた。同じ年、背いた部族を諸将が追おうとすると、人心がまだ一つでないとして追わせず、側近の謀反でも首謀者だけを誅した。395年には参合陂で後燕の慕容宝の軍を大破した。才ある者を除く捕虜は衣食を与えて帰すつもりだったが、王建が言い張って穴埋めにされ、道武帝は後でこれを悔いた。396年、四十余万の兵で後燕を討ちに南下し、并州を平定すると初めて百官朝廷のすべての役人を置き、訪れた士大夫学問を身につけて役人となった知識人の層をみな引見して、わずかな能力でも登用した。397年、柏肆の陣営を夜襲されたときは、裸足で出て太鼓を打ち、集まった兵で慕容宝の軍を大破した。甲子の日の出陣を紂の滅んだ日だと止められると、周の武王はその日に勝ったと返した。398年に国号を魏と定めて平城に都を移し、群臣の上書君主に意見を書いて差し出すことに三度辞退したのち、同じ年の暮れに皇帝となった。
史料について
捕虜の処置と後悔は魏書の王建伝にあり、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は書かない。資治通鑑は王建の進言でことごとく穴埋めにしたとし、後悔には触れない。
治世と最期
李先の言を容れて天下に経籍を捜させ、書物がしだいに集まった。崔逞らが返書で東晋の主を貴主と呼ぶと、怒って崔逞に死を賜ったが、そのため司馬休之らが来なかったと知ると深く悔い、以後、過ちのある士人の多くは寛大に扱われた。皇后には金人の鋳造に成功した慕容宝の娘を立て、成功しなかった劉氏は后位に就けなかった。子の嗣を後継ぎに定めるにあたっては、母の劉貴人に死を賜り、漢の武帝にならい外戚皇帝の母や皇后の実家の一族の乱を防ぐのだと嗣に告げた。
晩年は寒食散鉱物を混ぜた強い薬。飲むと体が熱をもったの発作がひどくなり、災異天の戒めとされた天災や怪しい出来事も続いて憂いに沈み、喜怒が定まらず、朝臣の顔色や息づかいを疑っては自ら殴りつけ、死んだ者はみな天安殿の前に並べられた。409年、役人の怠慢と盗賊の横行を聞くと、自分の放任のせいだ、災いの年が過ぎたら取り締まると言った。同じ年、母を幽閉されて殺されかけた子の紹が、夜に宮中へ押し入り、道武帝は弓刀を求めても得られないまま天安殿で死んだ。
史料について
魏書の皇后伝の史臣は、母を殺すこの措置が魏の常制となったのを行き過ぎと批判する。魏書の太祖紀は天安殿で崩じたとだけ書き、殺害を書かない。紹の押し入りは清河王紹伝にあり、資治通鑑は紹が弑したと明記する。
道武帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
398–409年の地図に、道武帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・親征2・皇后1・改元2・大赦2
- 改元399年1月24日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 398年12月2日)元号を「天興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。399年1月24日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 398年12月2日)帝が天文殿に臨み太尉・
司徒より璽綬を受け皇帝に即位。 - 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。399年3月〜399年5月高車(諸部落)
- 反乱399年5月趙準の乱(仇儒・
趙準) - 反乱399年6月〜399年7月傅世の乱
- 反乱399年9月〜400年2月盧溥の乱
- 皇后400年皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。402–403年後秦(姚興)
- 反乱402年張翹の乱
- 改元404年元号を「天賜」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。404年
- 反乱409年11月6日清河王紹の変
北魏の歴代皇帝
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