北斉擁立政権・天啓
梁・南北朝|在位 558–560年
- 諱(本名)
- 蕭荘
- 在位
- 558–560年
- 在位期間
- 2年365名中265位タイ
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
「顯祖遣兵納梁永嘉王蕭莊主梁祀…三月,卽帝位於郢州,年號天啟」(北齊書卷33)。北斉文宣帝が軍を派遣し擁立、実権は王琳が握った。
出典: 北齊書 卷33補記: zh.wikisource.org 北齊書/卷33
死因の経緯
「後主亡之日,莊在鄴飲氣而死」(北齊書卷33、577年北斉滅亡と同時期)。「飲氣而死」は憤懣・失意を呑み込んで死ぬという慣用句で、直接的な病名・他殺を示す記述ではないため不詳に分類。
出典: 北齊書 卷33補記: zh.wikisource.org 北齊書/卷33
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
『南史』巻五十五「二月、即帝位於郢州、年号天啓、置百官」、『北斉書』巻三十二「三月、即帝位於郢州、年号天啓」(月に1ヶ月の差異あり)と、複数の正史で即位と建元「天啓」が明記されている。在位中に他の改元の記載はなく、天啓のみで終始したと判断した。
大赦回数
『南史』巻五十五(元帝諸子伝)・『北斉書』巻三十二(陸法和王琳伝、北史より補訂)・『陳書』高祖紀・世祖紀等、萧庄(蕭荘)関連の現存記事を確認したが、蕭荘自身の政権による「大赦」「大赦天下」等の記載は見当たらない。在位期間(558-560年)はほぼ全てを郢州・湓城など戦線での攻防に費やしており、独自の恩赦記事が伝わっていない可能性が高い。史料の残存状況から確実に0回と断定はできないため信頼度は中とした。
立后回数
現存史料(『南史』巻五十五、『北斉書』巻三十二王琳伝、『陳書』関連紀伝)に蕭荘の皇后冊立に関する記載は見当たらない。北斉に擁立された傀儡政権であり在位期間も短く、皇后冊立の記録自体が伝わっていない可能性がある。
皇太子廃立回数
現存史料に蕭荘による皇太子冊立自体の記載がなく、当然ながら廃立の記載も見当たらない。「王琳総其軍国」(軍国のことは王琳が総攬した)とあるように、実権は擁立者の王琳が握っており、独自に皇太子を立てた形跡は確認できない。
親征回数
萧庄本人が戦場で直接指揮した明文(帝自将等)はなく、実質的な軍事指揮は王琳・北斉軍が担った。しかし本件は彼自身の帝位主張・対立政権樹立に直結する軍事行動であるため、既存の対立政権首謀者(蕭正徳等)の扱いに準じて親征1回として計上した。
反乱鎮圧回数
萧庄は在位2年弱(558年3月〜560年2月)の短期間、事実上北斉と王琳の後援下にあった対陳の対立政権であり、彼自身の政権に対して内部から離反・蜂起した勢力が鎮圧を試みた記事は北斉書卷33・陳書本紀・南史・北史の該当箇所に見当たらない。彼が陳に敗れた事件は彼自身が鎮圧の主体ではなく、逆に鎮圧される側(rebellionSufferedCount側)に該当するため、鎮圧回数には計上しない。該当記事なしとして count:0 とした。
被反乱回数
萧庄は敗れて滅亡・処刑されたのではなく北斉へ亡命したため、通常の『鎮圧された反乱』とは性格がやや異なる(王朝の消滅ではなく政権の瓦解・亡命)。また北斉という対等な独立政権が擁立の当事者であるため、対陳戦争全体を『反乱』と呼ぶべきか『南北朝間の対外戦争』と呼ぶべきかは史家によって評価が分かれ得る。ただし本件の対象人物である萧庄自身が『梁の正統帝位継承者』を自称し陳の帝位簒奪者としての立場を取っていたこと、陳側の記録(陳書・南史文帝紀)でも王琳・萧庄を終始討伐対象の反乱勢力として扱っていることから、彼自身の記録上はrebellionSufferedCountに1件計上するのが妥当と判断した(confidence: medium)。
遷都回数
梁書本紀・南史を通読。建康定都(建国時の定都)から侯景の乱期を含め遷都の記録なし(承聖元年の江陵遷都は元帝の代の出来事として計上済み)。
即位時年齢・没年齢
jq出力(reigns/deathCause/accessionRoute/eraChangeCount等の全note)および_corpus_cache/liang-xiaozhuang.txt(北斉書卷33該当箇所の抜粋、全文『梁将王琳在江上与霸先相抗、顕祖遣兵納梁永嘉王萧庄主梁祀。九年二月、自湓城済江、三月、即帝位于郢州、年号天啓、王琳総其軍国、追謚明曰閔皇帝。明年庄為陳人所敗、遂入朝、封為侯。朝廷許以興復、竟不果。後主亡之日、庄在鄴飲気而死。』)を確認したが、生年・即位時年齢・享年の直接記載は見当たらなかった。没年についてはdeathCause.note記載の通り、北斉滅亡(577年)と同時期に鄴で憂憤死したことがわかっており、月日精度は不明のためdeathDateは年精度(0577)で計上した。蕭荘は梁元帝蕭繹の孫(武烈世子蕭方等の子)であり永嘉王として即位前から存命していたことは分かるが、生年を特定できる史料記述が原典(北齊書卷33、南史卷54武烈世子蕭方等伝)に見当たらないため、accessionAge・deathAgeともにnullとし、birthDateもnullとした。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元558年2月王琳の要請により北斉(顕祖文宣帝)が梁の永嘉王蕭荘(武烈世子蕭方等の子、元帝の孫)を擁立。
王琳の要請により北斉(顕祖文宣帝)が梁の永嘉王蕭荘(武烈世子蕭方等の子、元帝の孫)を擁立。558年2月、湓城より長江を渡り郢州にて即位、年号を「天啓」と建元した。これが蕭荘政権における唯一の建元(即位に伴う最初の元号制定)であり、以後在位終了(560年、陳軍に敗れて逃亡)まで改元の記録はない。
出典: 南史巻五十五 列伝第四十五(元帝諸子伝)/北斉書巻三十二 陸法和王琳伝(北史より補訂)
親征558年3月〜560年2月陳(陳霸先・陳蒨政権。梁の正統帝位継承を主張して対抗)
対象: 陳(陳霸先・陳蒨政権。梁の正統帝位継承を主張して対抗)
結果: 敗北・北斉へ亡命
北斉書卷33(萧明伝末尾の萧庄記事): 「梁将王琳在江上与霸先相抗、显祖遣兵纳梁永嘉王萧庄主梁祀。九年二月、自湓城济江、三月、即帝位于郢州、年号天启、王琳总其军国」。陳書本紀・南史陳本紀(永定二年三月条)にも「是月、王琳立梁永嘉王萧庄于郢州」と対応記事あり。萧庄自身が湓城から長江を渡り郢州で即位した記述はあるが、軍事指揮の実権は「王琳总其军国」とあるように王琳(北斉の後援を受けた梁の旧将)が握っており、萧庄本人が「帝自将」等の形で戦闘を直接指揮した記述は原典に見当たらない。それでも本件は対立政権(梁の帝位継承を主張する政権)の首謀者自身による帝位主張の軍事行動であり、既存データセットの運用方針(蕭正徳=侯景政権等、対立政権の首謀者は「自らの帝位簒奪の軍事行動」を親征に計上する扱い)に準じ1回とカウントした。558年3月の即位から560年2月の敗走(梁山・博望・栅口での連戦に敗れ、北斉へ亡命)までを同一目的(対陳・梁復興戦争)の継続として1回にまとめた。confidenceはmedium(皇帝本人の直接指揮を示す明文記述がないため)。
被反乱558年3月〜560年2月陳による王琳・萧庄政権の討伐(梁山・博望・栅口の戦い)
首謀者: 陳(文帝陳蒨、将軍侯瑱)
結果: 560年2月(北斉乾明元年二月/陳天嘉元年二月丙戌)、陳の司空侯瑱が梁山で王琳軍を、博望で来援の斉将劉伯球の軍を大破し、萧庄・王琳は栅口を経て北斉へ亡命した(北斉書卷33「明年庄为陈人所败、遂入朝」、南史・陳書「王琳及其主萧庄奔于齐」)。萧庄自身は殺されず、封侯され北斉の庇護下で余生を送った(後に陳滅亡=589年の日に鄴で自ら息を止めて死んだとされる=北斉書卷33「后主亡之日、庄在邺饮气而死」)。
王琳は既に陳の成立(557年)当初から陳霸先に不服従の姿勢を取っており(陳書永定元年条「湘州刺史王琳拥兵不应命」)、558年に北斉の後援で萧庄を擁立して以降、陳から見ればこれは梁の旧勢力(自国からの離反者)による帝位継承の主張=反乱・簒奪継続として扱われた可能性が高い一方、北斉という独立政権が軍事的に深く関与しているため対外戦争的性格も強い。この二面性のためconfidenceはmediumとした。またcountに関して、王琳・萧庄側は陳にとって一貫して単一の反乱勢力として扱われており、鎮圧側の記事(陳書・南史文帝紀の永定二年〜天嘉元年条)でも一連の軍事行動として記述されているため、萧庄の在位期間全体(558年3月即位〜560年2月敗走)を通じた1件の被反乱としてまとめた。