蕭荘の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 558年4月〜560年3月26日
- 没年
- 577年年齢不詳
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓蕭諱荘別称永嘉王呼び名の見方
出典
- 在位
- 北齊書 卷三十三 補列傳第二十五(蕭明傳附蕭莊)/陳書 卷二 高祖本紀下・
卷三 世祖本紀(永定二年三月・ 天嘉元年二月丙申)/南史 卷十 陳本紀上 - 死因
- 北齊書 卷33
- 即位経路
- 北齊書 卷33
生涯
どんな皇帝か
梁書・陳書・北斉書・南史・北史・資治通鑑には本人の言葉も性格を述べる記述も見当たらず、事績は一族の伝に附された短い記事と本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分の条、王琳や袁泌らの伝に残る。陳書の袁泌伝は、その即位を僭立資格がないのに勝手に位につくことと呼ぶ。
即位まで
元帝の長子の蕭方等の子で、552年に元帝が即位すると永嘉王に封ぜられた。西魏が江陵を陥とすと、幼い蕭荘は民家に匿われて逃れ、のち王琳に迎えられた。555年の末、陳霸先が石頭城の北斉軍と和を結ぶ際、甥の陳曇朗とともに蕭荘を人質として差し出した。陳霸先と対抗する王琳は、蕭荘を梁の主として送り返すよう北斉に請うた。558年、北斉の兵に送られて郢州で帝位に即き、王琳に大将軍将軍の中でも特に高い位・中書監皇帝の命令の文書を作る役所の長官の一つなどを授け、王琳が軍国を総べた。
史料について
人質の件は資治通鑑にある。即位の時期を、北斉書の文宣帝紀は北斉が蕭荘を梁主とする詔を、陳書が即位を置く時期より後に置く。資治通鑑の考異は、この帝紀を採らず陳書と典略に従ったと述べる。
治世と最期
北斉の文宣帝が北に長城を築き、南に蕭荘を助けたため、兵と馬の死者が数十万に及んだ。王琳は蕭荘を奉じて濡須口に出た。
560年、陳の侯瑱が梁山で王琳を破り、王琳と蕭荘は北斉へ逃れた。軍が散ると、蕭荘は劉仲威に伴われて北斉に入った。劉仲威はそのまま鄴で生涯を終えた。
北斉は蕭荘を侯に封じ、のちに梁王として梁の再興を許したが、果たされなかった。577年に北斉が亡ぶと、蕭荘は鄴で憤りのあまり死んだ。
史料について
濡須口に出た時を、北斉書の王琳伝は陳霸先の即位のとき、南史の王琳伝は陳の文帝が立ったとき、資治通鑑は陳霸先の死を聞いたときとする。北へ逃れた経緯を、陳書の袁泌伝は袁泌が軽舟で北の境まで送って劉仲威に託したとし、南史と北斉書の王琳伝は袁泌は陳に降り、劉仲威が連れ出したとする。北斉書の廃帝紀は、蕭荘が自ら脱け出したと書く。
蕭荘とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・親征1・改元1
- 改元558年4月元号を「天啓」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。558年4月〜560年3月陳(陳霸先・
陳蒨政権。梁の正統帝位継承を主張して対抗) - 反乱558年4月〜560年3月陳による王琳・
蕭庄政権の討伐(梁山・ 博望・ 柵口の戦い)
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