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北魏(南北朝)第2代

明元帝拓跋嗣

在位 409–423年(14年44日)409年11月10日 〜 423年12月24日

日本は古墳時代

清河王紹の変で父の道武帝が死んだのち即位した北魏の皇帝で、崔浩を重用し、晩年には劉宋を攻めた。

明元帝の人物データ

生年
392年
在位
  • 409年11月10日〜423年12月24日
14年44日長い順93位/365人即位の年齢は不詳
没年
423年12月24日32歳(数え年)長生き順同率178位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
次代
呼び名
姓拓跋諱嗣廟号太宗呼び名の見方

出典

在位
魏書 帝紀第三章(太宗紀)
死因
魏書 巻3 太宗紀
即位経路
魏書 巻3 太宗紀

生涯

どんな皇帝か

魏書のは、純孝の心で父殺しの禍に遭い、で危うきを安んじたと評する。

即位まで

道武帝がようやく得た長子で、父は大いに喜んだ。聡明で寛大かつ毅然とし、礼に外れたことをしなかった。道武帝はの乱を防ぐとして母の劉貴人に死を賜り、泣き止まない明元帝に怒り、明元帝は宮外へ逃れた。409年、母を殺されかけた清河王紹が夜に宮中へ押し入り、道武帝は死んだ。明元帝は戻って人々を味方に付け、紹母子に死を賜った。同じ年に即位して、永興とした。

史料について

魏書のは紹の逆とだけ書き、押し入りの様子は清河王紹伝にある。宋書の索虜伝は、道武帝の愛妾が清河王と通じて内応したとし、明元帝は泣いて責めて自殺させたとする。

治世と最期

儒生を礼遇し、新集30篇を自ら撰した。も好み、崔浩に吉凶を占わせて信頼した。姚興の娘を皇后の礼で迎えたが、金人の鋳造が成らず夫人に留まった。それでも寵愛し、没後に悔やんで皇后のを贈った。

415年、凶作で鄴への遷都が勧められたが、崔浩らの反対に従った。劉裕の北伐では崔浩の策を退けて長孫嵩に阻ませたが、畔城で敗れて悔やんだ。418年の彗星を畏れた際、劉裕の簒奪の兆しと答えた崔浩に同意し、のちに劉裕の自立を聞いて今日初めて天道を信じると言った。

病が続いて後継を相談し、拓跋燾を皇太子とした。422年、の発作で政務に堪えず皇太子に朝政を見させ、ひそかに決断を聞いて喜び、群臣の疑問にはお前たちのが決めよと答えた。劉裕の死を聞くと、喪に乗じるなと諫める崔浩に怒って南を攻めさせ、奚斤が滑台を落とせないと自ら南へ出た。大軍で虎牢に至り、自ら攻城を指揮したが落とせず洛陽へ向かった。虎牢は423年に陥ちたが、魏の兵に大疫が起きた。同じ年に西宮で没した。

史料について

後継の相談相手を、魏書の崔浩伝は崔浩、長孫嵩伝は長孫嵩とし、資治通鑑は両方とする。虎牢で自ら攻城を指揮したのは宋書の索虜伝による。魏書の本紀は死因を記さない。

明元帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(409年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

409–423年の地図に、明元帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱8・親征3・改元3・大赦4
  1. 改元409年11月10日元号を「永興」とする
  2. 409年11月10日清河王拓跋紹の弑逆により太祖崩御後、太宗(明元帝)が入って紹を誅し即位。
  3. 410年蠕蠕(柔然)
  4. 反乱410年章武民劉牙の乱
  5. 反乱413年上党民劉聡・士臻の乱
  6. 反乱413年濩澤劉逸(三巴王僭称)・建興王紹の乱
  7. 反乱413年西河張外の乱
  8. 反乱413年吐京叛胡
  9. 改元414年元号を「神瑞」とする
  10. 反乱414–416年白亜栗斯(司馬順宰擁立)・劉虎の乱
  11. 415年蠕蠕(柔然)
  12. 改元416年元号を「泰常」とする
  13. 反乱416年常山民霍秀の乱
  14. 反乱417年司馬順之(封龍山蜂起)
  15. 422年11月〜423年7月劉宋(劉義符)
  16. 日付不詳
  17. 日付不詳
  18. 日付不詳

北魏の歴代皇帝

歴代12人の一覧

年表

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北魏が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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