中国皇帝統計

明元帝

北魏(南北朝)|在位 409–423年

諱(本名)
拓跋嗣
廟号
太宗
在位
409–423年
在位期間
14年47日365名中94位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
32歳(数え年)269名中・長寿順180位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
7225名中58位タイ
被反乱
8289名中59位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:明元帝

即位の経緯

太祖(道武帝)の長子。父生前より後継者と目されており、清河王紹のクーデター(父弑殺)後「入誅紹」して即位した。

出典: 魏書 巻3 太宗紀

死因の経緯

泰常八年(423年)11月己巳、西宮で崩御(享年32)。直接の死因記述はないが、前年に「帝素服寒食散、頻年動發、不堪萬機」とあり、丹薬(寒食散)の服用による発作を頻発していたことが健康悪化の背景と見られる。暗殺を示唆する記述はない。

出典: 魏書 巻3 太宗紀

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位中の年号は永興(409-413)・神瑞(414-415)・泰常(416-423)の3つで、即位時の建元を含め改元は3回。

大赦回数

「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦を4件確認。冒頭の「太祖晩有子、聞而大悦、乃大赦天下」(登国七年、明元帝誕生時)は父・太祖(道武帝)在位中の出来事であり明元帝本人の治世下の行為ではないため除外。泰常七年(422年)冬十有一月丙午「曲赦司州殊死已下」は司州限定の部分的恩赦(曲赦)であり全国規模の大赦ではないため除外。

立后回数

即位直後の永興元年(409年)に「追尊皇妣為宣穆皇后」とあるが、これは既に死去していた生母・劉貴人への追尊(諡号追贈)であり、存命の皇后を正式に冊立する立后儀礼ではない。本紀中に他の立后・廃后記事は見当たらず、明元帝自身による立后は確認できないため0回。

皇太子廃立回数

泰常七年(422年)夏五月「初、帝素服寒食散、頻年動発、不堪萬機、五月、詔皇太子臨朝聽政」とあり、皇太子(後の太武帝拓跋燾)が摂政を開始した記事はあるが、この皇太子がいつ立てられたかを示す立太子の記事自体が本紀中に見当たらず(別紀・別伝の可能性あり)、また廃立に関する記述も一切ない。

親征回数

魏書巻三太宗紀の全文を確認したが、明元帝が自ら軍を率いた記録は「壬申、帝北伐」(永興二年五月、対蠕蠕)、「丙申、帝北伐蠕蠕」(神瑞元年十二月、対蠕蠕)、および泰常七年冬〜八年の対劉宋(劉義符)戦での「議親南討」「車駕南巡」「幸成皋城、観虎牢…帝令連艦上施賁轀、絶其汲路、又穿地道以奪其井」(虎牢包囲戦への親臨・指揮)の3系統のみ。いずれも対外戦争(柔然・劉宋)であり、指示に基づき除外対象。国内反乱に対して皇帝自身が出陣した記述は見当たらなかった(章武民劉牙・上党民・濩澤劉逸・西河張外・吐京叛胡・白亜栗斯/劉虎・霍秀・司馬順之の反乱はいずれも奚斤・元屈・劉潔・魏勤・公孫表・叔孙建等の将軍が鎮圧を担当し、帝本人の出陣記述なし)。

反乱鎮圧回数

魏書巻三太宗紀に基づく。なお「朱提王悦謀反、賜死」(永興元年閏十月)、「昌黎王慕容伯兒謀反、伏誅」(永興三年五月)、「淮南侯司馬国璠・池陽侯司馬道賜等謀反伏誅」(泰常五年五月)の3件は、原文が「謀反」+処刑のみの簡潔な記述で、実際の挙兵・軍事行動を示す記述(聚衆・攻撃等)が見当たらないため、密告・摘発のみで終わった謀反計画とみなし鎮圧・被反乱いずれからも除外した。西河張外の件と濩澤劉逸の件を別事件として2件に分けた判断、および白亜栗斯/劉虎/司馬順宰の乱を1件の継続事件として扱った判断は解釈の余地があるため confidence を medium とする。

被反乱回数

鎮圧回数8件中7件と同一事件が対応し、上党民劉聡・士臻の乱のみ鎮圧記録がないため被反乱側のみに計上(正当な相違理由2)。除外理由・解釈上の注意点は鎮圧回数側のnoteを参照。なお即位直前の永興元年(天賜六年)冬十月に弟の清河王紹が父道武帝を弑殺した事件については、明元帝自身がまだ即位前(誅紹の直後に「壬申、即皇帝位」)であるため在位期間外の出来事とみなし、被反乱回数には計上していない。

遷都回数

魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢32歳は本紀に「時年三十二」と直接記載。生年は「登国七年」(392年)との記載があるが月日不明のためbirthDateは年精度でも未記入とした。即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(22件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元409年11月10日天賜六年冬十月壬申、即位に伴い建元。

天賜六年冬十月壬申、即位に伴い建元。「壬申、即皇帝位、大赦、改年為永興元年」。

出典: 魏書 巻三 太宗紀

大赦409年11月10日天賜六年冬十月壬申、清河王拓跋紹の弑逆により太祖崩御後、太宗(明元帝)が入って紹を誅し即位。

天賜六年冬十月壬申、清河王拓跋紹の弑逆により太祖崩御後、太宗(明元帝)が入って紹を誅し即位。「壬申、即皇帝位、大赦、改年為永興元年」。即位に伴う大赦。

出典: 魏書 巻三 太宗紀

反乱鎮圧410年8月章武民劉牙の乱

首謀者: 劉牙

結果: 鎮圧成功

永興二年八月、章武の民劉牙が衆を集めて反した。山陽侯奚斤がこれを討ち平らげた(「章武民劉牙聚衆反。山陽侯奚斤討平之。」)。既に魏の支配下にある郡県民の蜂起であり服属民の反乱に該当。

被反乱410年8月章武民劉牙の乱

首謀者: 劉牙

結果: 鎮圧された

鎮圧回数と同一事件。

被反乱413年4月上党民劉聡・士臻の乱

首謀者: 劉聡・士臻

結果: 鎮圧記録なし(首謀者は太守・県令を殺害後、境外へ逃亡)

永興五年四月乙巳、上党の民劉聡・士臻が群れをなして盗となり、太守・県令を殺害し、相率いて境外へ逃走した(「相率外奔」)。その後の追討・鎮圧の記述が見当たらず、在位終了までに鎮圧が着手・完了しなかったケースとして鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上した(基準の正当な相違理由2に該当)。

反乱鎮圧413年5月〜413年8月西河張外の乱

首謀者: 張外

結果: 鎮圧成功(河西胡曹龍が投降し張外を捕縛して差し出し、斬首)

永興五年五月「西河張外・建興王紹、自以所犯罪重、不敢解散」とあり、張外は建興王紹と共に既に重罪を犯し軍を解散できずにいた勢力の首魁。その後河西胡曹龍らに研子塁で迫られ、最終的に曹龍が魏に投降して張外を捕らえ差し出し、八月に斬られた。建興王紹側は劉逸の乱に合流して鎮圧されたのに対し、張外側は別途曹龍の投降・引渡しという形で決着しており、独立した首謀者の蜂起として劉逸の件とは別カウントとした(原典の記述が錯綜しており、劉逸の乱と一体の事件とみなす解釈もあり得るため confidence medium とする一因)。

被反乱413年5月〜413年8月西河張外の乱

首謀者: 張外

結果: 鎮圧された(曹龍の投降・引渡しにより捕縛・斬首)

鎮圧回数と同一事件。

反乱鎮圧413年6月濩澤劉逸(三巴王僭称)・建興王紹の乱

首謀者: 劉逸・建興王紹

結果: 鎮圧成功

永興五年六月、濩澤の劉逸が自ら征東将軍・三巴王を号し、(既に反乱を起こしていた)建興王紹をその官属として建興郡を攻逼した。元屈らがこれを討ち平らげた(「元屈等討平之」)。

被反乱413年6月濩澤劉逸(三巴王僭称)・建興王紹の乱

首謀者: 劉逸・建興王紹

結果: 鎮圧された

鎮圧回数と同一事件。

反乱鎮圧413年10月吐京叛胡

首謀者: 不詳(吐京の叛胡集団)

結果: 鎮圧失敗(永安侯魏勤戦死、会稽公劉潔負傷)

永興五年冬十月丁巳、将軍元屈・会稽公劉潔・永安侯魏勤らが吐京の叛胡を撃ったが失利し、劉潔は負傷、魏勤は戦死した。鎮圧を試みて失敗した事例(基準上、成否を問わずカウント対象)。吐京は魏がその前年に「西河護軍」等を置いて統治を及ぼしていた地域であり服属民の反乱と判断。

被反乱413年10月吐京叛胡

首謀者: 不詳(吐京の叛胡集団)

結果: 鎮圧失敗(永安侯魏勤戦死、会稽公劉潔負傷)

鎮圧回数と同一事件(鎮圧側は失敗したがカウント対象)。

反乱鎮圧414年12月〜416年9月白亜栗斯(司馬順宰擁立)・劉虎の乱

首謀者: 白亜栗斯(後に劉虎)/謀主・司馬順宰

結果: 最終的に鎮圧成功(劉虎・司馬順宰ら誅殺)

神瑞元年十二月に河内人司馬順宰が晋王を自称するも太守は捕らえられず。神瑞二年三月、河西の飢えた胡が上党に屯聚し白亜栗斯を盟主に推し大将軍・単于を号し建平と改元、司馬順宰がその謀主となった。夏四月、公孫表ら五将が討伐、まもなく白亜栗斯は廃されて劉虎が立てられ率善王を号した。泰常元年九月、前并州刺史叔孙建らが山胡を大破し、劉虎は陳留で殺され、司馬順宰らも皆死んだ。司馬順宰が謀主として一貫して関与しているため、神瑞元年十二月の自立から泰常元年九月の最終鎮圧までを一連の反乱として1件に集計した(首謀者が白亜栗斯→劉虎と交代しているが同一の蜂起の継続と判断)。

被反乱414年12月〜416年9月白亜栗斯(司馬順宰擁立)・劉虎の乱

首謀者: 白亜栗斯(後に劉虎)/謀主・司馬順宰

結果: 最終的に鎮圧された(劉虎・司馬順宰ら誅殺)

鎮圧回数と同一事件。

反乱鎮圧416年3月常山民霍秀の乱

首謀者: 霍秀

結果: 鎮圧成功(州郡が捕らえて斬首)

泰常元年三月、常山の民霍秀が図讖に名が載っていると自称し黒石を天賜の玉印と偽って人々を惑わし党を集め、山に入って盗となった。州郡がこれを捕らえて斬った。

被反乱416年3月常山民霍秀の乱

首謀者: 霍秀

結果: 鎮圧された

鎮圧回数と同一事件。

反乱鎮圧417年7月司馬順之(封龍山蜂起)

首謀者: 司馬順之

結果: 鎮圧成功(趙郡の大盗賊趙徳が捕らえて京師に送り斬首)

泰常二年秋七月、司馬順之が常山に入り、天帝の命を受け二十五歳で人君となるべしと流言して惑わし、封龍山に党を集めた。趙郡の大盗賊趙徳がこれを捕らえて京師に送り、斬られた。政権側が直接鎮圧したのではなく地方の盗賊頭が捕縛した点はやや特殊だが、最終的に朝廷に引き渡され処刑されており服属民(在地勢力)による鎮圧・処断として計上した。

被反乱417年7月司馬順之(封龍山蜂起)

首謀者: 司馬順之

結果: 鎮圧された

鎮圧回数と同一事件。

改元日付不詳神瑞元年(414年)正月辛酉、「以禎瑞頻集、大赦、改元」により永興から神瑞へ改元。

出典: 魏書 巻三 太宗紀

改元日付不詳泰常元年(416年)夏四月壬子、「大赦、改元」により神瑞から泰常へ改元(紀年上は同年正月から泰常元年と呼称されているが、改元の実際の記事は四月壬子)。

出典: 魏書 巻三 太宗紀

大赦日付不詳永興五年(413年)夏五月丙子、「行幸雲中舊宮之大室。

永興五年(413年)夏五月丙子、「行幸雲中舊宮之大室。丙子、大赦天下」。雲中旧宮行幸に伴う独立の大赦(改元は伴わない)。

出典: 魏書 巻三 太宗紀

大赦日付不詳神瑞元年(414年)正月辛酉、「以禎瑞頻集、大赦、改元」。

神瑞元年(414年)正月辛酉、「以禎瑞頻集、大赦、改元」。改元と同時の大赦。

出典: 魏書 巻三 太宗紀

大赦日付不詳泰常元年(416年)夏四月壬子、「大赦、改元」。

泰常元年(416年)夏四月壬子、「大赦、改元」。改元と同時の大赦。

出典: 魏書 巻三 太宗紀

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