後廃帝・安定王元朗
北魏(南北朝)|在位 531–532年
- 諱(本名)
- 元朗
- 在位
- 531–532年
- 在位期間
- 1年58日365名中288位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 20歳(数え年)269名中・長寿順237位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
景穆帝の玄孫、章武王元融の子。爾朱氏討伐の兵を挙げた高歓が勃海太守であった元朗を擁立し、531年10月、信都で皇帝に即位させた。
出典: 魏書 巻十一 後廢帝紀
死因の経緯
太昌元年(532年)11月甲辰、東海王元曄と同日に門下外省で殺害された。『魏書』後廃帝紀自身が末尾で「後以罪殂於門下外省」と記す。判定理由は元曄と同一(同日・同地・同一事件):死亡場所が公開処刑場でない点、『魏書』の婉曲表現、532年時点で東魏未成立で実行者が同一政権内部の権力者にすぎない点から暗殺と判定する。
出典: 魏書 巻十一 後廢帝紀/北史 巻五/資治通鑑 巻155
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元1回のみ。中興二年(532年)に入っても改元の記載はなく、四月に孝武帝(出帝)へ廃位されるまで「中興」年号が継続。
大赦回数
在位期間(中興元年十月~中興二年四月の廃位まで)を通読。大赦の記載は即位時の1回のみ。廃位後(安定王として)の出来事は出帝の在位に帰属するため本カウントに含めない。
立后回数
在位期間中に立后(皇后冊立)に関する記載は原文に見当たらない。
皇太子廃立回数
在位期間は約半年と短く、皇太子(皇太弟・皇太孫等含む)の冊立・廃立に関する記載は原文に見当たらない。
親征回数
『魏書』巻十一 後廢帝紀・『北史』巻五(廃帝朗)とも、中興元年十月壬寅の信都即位から中興二年四月辛巳の河陽での逊位に至るまで、対尔朱氏戦(広阿の戦い・邺城攻略・韓陵の戦い等)はすべて「斉献武王(高歓)」または麾下の諸将(斛斯椿・賀抜勝ら)が主体として記述され、「帝自将」「帝親征」等、元朗本人が軍を率いて出陣したことを示す記述は原文に一切見当たらない。元朗は擁立された名目上の皇帝(高歓の傀儡)であり、軍事行動の主体は終始高歓側にあったため0回と判定した。
反乱鎮圧回数
在位中(531年10月即位~532年4月逊位)、高歓が尔朱兆・尔朱天光・尔朱度律・尔朱仲远らを広阿・韓陵で撃破し勝利した経緯が記されるが、(1)これらの軍事行動はすべて高歓が単独の主体として行っており、元朗自身が鎮圧を指揮・命令した形跡はない、(2)尔朱氏勢力はそもそも元朗の信都政権に服属していた臣下ではなく、洛陽で並立していた前廃帝(節閔帝元恭、本データセットでは『正統』側として扱われる)を擁立していた対抗勢力であり、元朗自身はむしろ高歓が擁立した対立皇帝(データセット上『正統(反乱・自称)』)という位置づけである。既存ルールの「対立政権の首謀者」パターン(正統側が鎮圧に成功した場合に鎮圧回数へ計上)は、対立政権の首謀者自身には鎮圧回数を計上しない設計になっており、元朗はまさにその対立政権側にあたる。以上より、高歓の対尔朱氏軍事行動は元朗個人の『反乱鎮圧』としては計上しないと判断した。ただし高歓政権と尟朱氏政権の関係整理・前廃帝(節閔帝)側の記録内容次第では再検討の余地があるため確信度はmediumとした。
被反乱回数
在位期間中、元朗自身の信都政権の配下・部将が武力蜂起した記録は見当たらない(『前廃帝安東将軍辛永、右将軍建州大都督張悦挙城降』等はいずれも敵対勢力側の武将が元朗側へ降伏してきた記事であり、元朗への反乱ではない)。また中興二年四月の退位(逊位)は『帝自以疏遠、未允四海之心、請遜大位』『斉献武王与百僚会議』とあるとおり、元朗自身が申し出て高歓・百官の合議で決定された政権交代であり、兵力を用いたクーデター・弑逆(例外4)を示す記述はない。したがって在位中に元朗が被った反乱・クーデターは確認できず0回とした。なお退位後の太昌元年(永熙元年)十一月甲辰、東海王元曄と共に殺害された事件は、既に皇帝の地位を離れた後の出来事であり(deathCauseで別途計上済み)、在位期間外のため本カウントには含めない。確信度は、高歓による退位圧力をどこまで『実質的な強制』とみなすかの解釈に幅がありうるためmediumとした。
遷都回数
魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。
即位時年齢・没年齢
没年齢20歳は本紀に「時年二十」と直接記載(廃位後に死去)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元531年10月30日即位当日に建元し「中興元年」と称する。
即位当日に建元し「中興元年」と称する。「冬十月壬寅,即皇帝位於信都城西。昇壇焚燎,大赦,稱中興元年」。在位中(中興二年四月の廃位まで)にこれ以外の改元記事はなし。
出典: 魏書帝紀第十一 後廢帝紀
大赦531年10月30日即位当日、信都城西で「昇壇焚燎,大赦,稱中興元年」と大赦を実施。
即位当日、信都城西で「昇壇焚燎,大赦,稱中興元年」と大赦を実施。在位中(531年10月即位~532年4月中興二年逊位)にこれ以外の全国規模の大赦記事は見当たらない。
出典: 魏書帝紀第十一 後廢帝紀