北魏(南北朝)第10代分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。
節閔帝元恭
在位 531–532年(1年66日)531年4月1日 〜 532年6月6日
日本は古墳時代
北魏の皇族元恭は、531年に爾朱世隆らに擁立されたが、翌年高歓に廃され、まもなく没した。
節閔帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 531年4月1日〜532年6月6日
- 没年
- 532年35歳(数え年)長生き順同率162位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 東海王元曄北魏節閔帝は東海王元曄の同族(遠縁)
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓元諱恭字修業別称前廃帝呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 巻十一 前廢帝紀
- 死因
- 魏書 巻十一 前廢帝紀
- 即位経路
- 魏書 巻十一 前廢帝紀
生涯
どんな皇帝か
魏書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人はその治世に雅やかな道が多かったとし、北斉書の魏蘭根伝はもともと徳業があったと書く。
即位まで
広陵恵王羽の子で、祖母と嫡母父の正妻。実母でない子から見た呼び方への孝行で知られた。元叉の専権を嫌って出仕せず、やがて口がきけないふりをして寺に住み、12年近く口をきかなかった。天子の気があるとの噂が立つと上洛へ逃れたが、捕らえられ、証拠が無く放たれた。孝荘帝の死後、廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを図った爾朱世隆らが口がきけないか確かめさせると、元恭は天何をか言わんやと答えた。531年、元曄から禅りを受けて即位した。孝荘帝が爾朱栄を殺したさまを責める赦文罪人を許すことを告げる皇帝の文書を見ると、強臣を自ら除いたのは失徳君主にふさわしくない行いや過ちではないと言い、自ら赦文を作った。長く閉ざした口をここで開いた帝を、内外は明主と喜んだ。
史料について
赦文の話は資治通鑑にあり、魏書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分が載せる即位の詔は別の文面である。口を閉ざした年数を、魏書は12年近くとし、資治通鑑は8年とする。
治世と最期
龍の足跡が出たとして群臣が祝うと、国が亡びるときは神に聴くと言い、慶事とするに足りないとした。芸人が愚か者を演じる演し物を雅でないとして取りやめさせ、自ら冤罪の訴えを裁いた。献じられた獅子を国へ返させ、途中で獅子を殺した使者も、獣のために人を罪してよいものかと赦した。爾朱世隆が楊椿の一家を謀反と誣告すると、帝は初め許さなかったが、強く求められてやむなく調べさせる詔を下した。世隆は夜に兵で邸を囲み、爾朱天光も同じ日に楊椿を捕らえて、両家は老若なく殺された。帝は長く悔やんだが何も言わなかった。
532年、人となりを見に遣わされた魏蘭根が帝の雅徳を忌んで讒言した。帝を賢明と推す声に高歓は一度は賛同したが、逆胡に立てられた者は天子でいられないという崔㥄の反論に従い、帝は崇訓仏寺に廃された。位を失った帝は、一年に三たび易わると詠む詩を作った。同じ年、門下外省皇帝の側近の役所のうち、宮中の外にあった庁舎で殺された。
史料について
死を、魏書の本紀は死因を書かずに殂したとし、北史は弑されたとし、資治通鑑は孝武帝が毒殺したとする。
節閔帝とつながる皇帝

勢力図
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531–532年の地図に、節閔帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・改元1・大赦1
- 反乱531年3月〜531年6月崔祖螭の反乱(青州七郡の蜂起)
- 反乱531年3月〜531年4月劉靈助の反乱(幽州刺史、薊での挙兵)
- 改元531年4月1日元号を「普泰」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。531年4月1日
- 反乱531年7月〜532年6月高歓の挙兵(信都義兵)~韓陵の戦い~節閔帝廃位
- 反乱日付不詳宿勤明達の乱(隴西・
秦州方面) - 反乱日付不詳趙修延の乱(南陽太守による荊州刺史拘束)
北魏の歴代皇帝
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