中国皇帝統計

拓跋余・南安王

北魏(南北朝)|在位 452年

諱(本名)
拓跋余
在位
452年
在位期間
232日365名中315位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

太武帝弑殺後、皇太孫(後の文成帝)擁立派(蘭延・和疋ら)と対立した宗愛が、先手を打って蘭延らを殺害し秦王翰も殺害、素より親密だった南安王余を擁立した。宦官によるクーデター擁立であることが原典で明確に確認できる。

出典: 魏書 巻94 閹官・宗愛傳

死因の経緯

擁立者である宗愛自身に殺害された。「愛既立余、位居元輔…權恣日甚。余疑之、遂謀奪其權。愛憤怒、使小黃門賈周等夜殺余」と、余が宗愛の権力を奪おうとしたため、宗愛が配下に命じ夜襲で殺害したと明記される。

出典: 魏書 巻94 閹官・宗愛傳

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位期間(正平二年三月~十月)中に他の改元記事はなし。冬十月丙午朔、宗爱に弑逆され在位終了(「余为宗爱所贼」)。

大赦回数

在位半年余りの間、記録される大赦はこの即位時の1回のみ。本紀・列伝とも同一の記事内容で確認。

立后回数

拓跋余の在位中に皇后冊立の記事なし。即位時に「尊皇后赫连氏为皇太后」とあるのは先帝太武帝の皇后を皇太后に尊んだもので、余自身の立后ではない。

皇太子廃立回数

拓跋余の在位中(452年3月-10月)に皇太子が立てられた記録はなく、廃立の記事も見られない。

親征回数

魏書帝紀(卷四)・魏書列傳(南安王余傳、宗愛傳)のいずれにも余自身が親征した記述はない。在位中の記事は「厚賞群下」「為長夜之飲,聲樂不絶」「尤好弋樂,出入無度」等、宴楽・遊興に終始したとする内容のみで、軍事行動への出陣は一切見えない。この間、劉義隆(宋文帝)配下の檀和之らが済州・弘農方面に侵攻した記事があるが、迎撃したのは征南将軍・安定公韓元興ら諸将であり、余本人の親征ではない(また南朝との戦争のため対外戦争に該当し親征回数の対象にもならない)。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

在位中(452年3月~10月)の記事に、政権配下の者による挙兵・反乱を鎮圧した事実は確認できない。夏六月、劉義隆将檀和之が済州を、龐萌・薛安都が弘農を攻めた事件があるが、これは南朝(劉宋)との対外戦争であり、南北朝は互いに服属しない対等な独立政権のためルール上反乱には該当せず除外する。「邊方告難,餘不恤之」との記述もあるが、具体的な首謀者・蜂起地点が特定できず、実際に鎮圧行動をとった記録もないため計上しない。該当記事なし。

被反乱回数

太武帝暴崩後の宗愛による第1のクーデター(蘭延・和疋・薛提・秦王翰殺害、閹豎30人持仗)は余がまだ即位する前(擁立の過程そのもの)の出来事であり、余自身の在位期間中に余が被った反乱には当たらないため計上していない。在位中に余自身が被った実質的な軍事的クーデターは、宗愛による最終的な弑殺の1件のみ。

遷都回数

魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。

即位時年齢・没年齢

調査したが原典(魏書帝紀・魏書列伝諸王上・宗愛伝、資治通鑑)に拓跋余の生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。魏書皇子伝(巻17)に「太武皇帝十一男…閭左昭儀生南安王余」とあり、真君三年(442)に呉王に封じられ後に南安王に改封との記載はあるが、これは在位(452年)の10年前の時点で既に封王されていたことを示すのみで、正確な生年・即位時年齢・没年齢を算出できる記載ではない。deathDateは魏書帝紀「冬十月丙午朔、余為宗愛所賊」に基づき月精度のみ判明(reignsのendDateと同一)。生年不明のためaccessionAge/deathAgeともnullとする。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元452年3月太武帝崩御後、宗爱が南安王余を擁立し即位させた際、年号を「永平」に改元。

太武帝崩御後、宗爱が南安王余を擁立し即位させた際、年号を「永平」に改元。「迎南安王余入而立之,大赦,改元为永平」(本紀)「大赦,改年为永平」(南安王余伝)。即位に伴う最初の建元として1回とカウント。

出典: 魏书帝纪第四下・魏书列传南安王余伝

大赦452年3月宗爱が矫皇太后令で南安王余を迎立した際、即位に伴い大赦を実施。

宗爱が矫皇太后令で南安王余を迎立した際、即位に伴い大赦を実施。「迎南安王余入而立之,大赦,改元为永平」(本紀)「大赦,改年为永平」(南安王余伝)。三月甲寅(太武帝崩御)直後の擁立時、日付は月までしか特定できない。

出典: 魏书帝纪第四下・魏书列传南安王余伝

被反乱452年10月宗愛による南安王余弑殺(2度目のクーデター)

首謀者: 宗愛(中常侍)

結果: 余、廟に祭る際に宗愛の命じた小黄門賈周らに夜襲され殺害された。在位半年足らずで崩御し、その後源賀・陸麗・長孫渇侯・劉尼らが皇孫(後の文成帝)を擁立して宗愛一派を誅殺した。

魏書帝紀卷四「冬十月丙午朔,余為宗愛所賊」、魏書列傳・南安王余傳「愛怒,因余祭廟,夜殺余」、宗愛傳「愛既立餘…羣情咸以為愛必有趙高、閻樂之禍,餘疑之,遂謀奪其權。愛憤怒,使小黃門賈周等夜殺餘」に基づく。宗愛は太師・都督中外諸軍事の要職にあり実質的な軍事権を握っていた権臣で、先の太武帝弑殺・南安王余擁立の際にも「閹豎三十人持仗於宮內」を用いて蘭延ら反対派を殺害しており、実力(兵力)を伴う宮廷クーデターの一環と評価できる。ルール例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当すると判断し被反乱に計上。ただし鎮圧の主体は余(皇帝側)ではなく宗愛側であるため反乱鎮圧回数には計上しない。日付は「冬十月丙午朔」(10月の朔日)とのみ判明し西暦日換算は行っていないため月精度とした。confidenceは、実際の武力行使が大規模な挙兵ではなく夜間の少人数による暗殺という形態のため、例外4への該当性についてはmediumとする。

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