拓跋余の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 452年3月11日〜452年10月29日
- 没年
- 452年10月年齢不詳
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
- 先代
- 太武帝北魏拓跋余は太武帝の子
- 次代
- 文成帝北魏文成帝は拓跋余の甥
- 呼び名
- 姓拓跋諱余諡号隠別称南安王呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 帝紀第四章(世祖紀下)
- 死因
- 魏書 巻94 閹官・
宗愛傳 - 即位経路
- 魏書 巻94 閹官・
宗愛傳
生涯
どんな皇帝か
宋書の索虜伝は余を可博真と書き、懦弱で国人がなつかなかったと評して、燕王が余と宗愛を殺したとする。
即位まで
太武帝の子で、母は閭左昭儀である。呉王に封じられ、のち南安王となった。452年に太武帝が急死すると、景穆太子に罪を負っていた宦官の宗愛は、もとから通じていた拓跋余をひそかに宮中に入れ、皇孫を推す者や東平王翰を殺して、余を立てた。即位して永平と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
史料について
太武帝の死を、宗愛伝・北史・資治通鑑は宗愛の仕業とし、宋書は病死とし、魏書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は死因を書かない。翰を殺したのを、魏書の翰の伝は余を立てた後に置く。年号を、宋書・南史・資治通鑑は承平とする。
治世と最期
順序に当たらないのに立ったと自覚して臣下に厚く賞を与え、宗愛を大司馬軍事をつかさどる、最高位の大臣の一つ・太師君主の師とされる、最高位の位の一つとし、馮翊王に封じた。夜通し酒宴と音楽を続けてひと月ほどで国庫を空にし、狩猟を好んで辺境の急報にも構わなかった。
宗愛が三省と禁軍宮中や都を守る、皇帝直属の軍を握って専横を強め、内外が恐れると、余も宗愛を疑ってその権を奪おうとした。その年、東廟を祭った夜に、宗愛の命を受けた小黄門宮中の奥で雑用をした、去勢された男の賈周らに殺された。宗愛はこれを伏せたが、劉尼と陸麗が皇孫を迎え、劉尼は、宗愛が南安王を殺したのは大逆不道だと叫んだ。
皇孫の文成帝が即位すると、余は王の礼で葬られ、隠と諡された。
史料について
人々が宗愛に趙高・閻楽のような禍を恐れたとするのは宗愛伝で、余の伝は余が宗愛の変を疑ったとだけ書く。宋書は、燕王が余と宗愛を殺したとする。確かめた魏書と北史の本紀や伝には生年や年齢が見えず、余の伝は妃や子のことを書かない。
拓跋余とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・改元1・大赦1
- 改元452年3月元号を「永平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。452年4月宗愛が矯皇太后令で南安王余を迎立した際、即位に伴い大赦を実施。
- 反乱452年11月宗愛による南安王余弑殺(2度目のクーデター)
北魏の歴代皇帝
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