文成帝の人物データ
- 生年
- 440年7月
- 在位
- 452年10月31日〜465年6月20日
- 没年
- 465年6月20日26歳(数え年)長生き順同率205位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓拓跋諱濬廟号高宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 帝紀第五章(高宗紀)
- 死因
- 魏書 巻5 高宗紀
- 即位経路
- 魏書 巻40 陸俟傳(附陸麗傳)
生涯
どんな皇帝か
魏書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、征戦と内乱で疲れた国を静かに鎮めて徳を布いたと評する。
即位まで
景穆太子の長子で、440年に東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人で生まれ、祖父の太武帝に愛されて常に側に置かれた。幼いころ北巡に従い、罰せられる奴を許してやれと言って、祖父に天子として振る舞おうとしていると驚かれた。452年、宗愛が南安王余を殺すと、劉尼・源賀・陸麗らが謀り、劉尼と陸麗が苑中から迎えて、陸麗が馬上に抱いて京城に入り、即位した。宗愛らは三族罪人とともに罰せられる近い身内の範囲とともに誅された。即位すると乳母の常氏を保太后皇帝の乳母に与えた、太后に準じる称号とし、まもなく皇太后とした。
史料について
迎えた者を、魏書の世祖紀は長孫渇侯と陸麗とだけ書く。宋書は、燕王が呉王博真と宗愛を殺して拓跋濬を立てたとする。
治世と最期
即位した年に仏法を復し、州郡に寺を建てることと、州ごとに人数を限って良家の者が出家することを認め、廃仏の間も道を守った師賢らの髪を自ら下ろした。白楼から見初めた李氏が弘を生んだ。456年、弘を皇太子に立て、馮氏を皇后とした。李氏は兄弟のことを書き残すよう命じられ、別れに臨んで没した。
宮室の大造営を勧められたときは、急がず徐々にという高允の諫めを容れた。面と向かって過ちを言う高允を真の忠臣と称えて中書令皇帝の命令の文書を作る役所の長官とし、家が貧しいと聞くとその日に訪ねて嘆き、帛と粟を賜った。458年には酒を禁じて、醸造・売買・飲酒をみな斬罪とし、吉凶の集まりだけ日を限って許した。候官役人を探り見張る役人を増やして百官朝廷のすべての役人を探らせ、取り調べでは互いに誣いて巻き込む者が多かった。同じ年、自ら漠を渡ると、柔然は遠く逃れた。
460年には、崔浩の誅殺以来廃されていた史官朝廷の出来事を記録し歴史を書く役人を復置した。師賢のあとを継いで沙門統国中の僧をとりまとめる役の長となった曇曜の願いで、都の西の武州塞の山壁に五つの窟が開かれ、仏像が刻まれた。465年に太華殿で没した。皇后の馮氏は、遺品を焼く火に身を投げて救われた。
史料について
李氏の死を、魏書の李氏伝は太后が故事昔からのしきたりや、昔あった出来事によらせたとし、資治通鑑は立太子跡継ぎの皇子を正式に皇太子と定めることの際に拓跋濬が故事によって死を賜ったとする。魏書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は李氏の死に触れない。本紀は死因を書かない。
文成帝とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
452–465年の地図に、文成帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・親征1・皇后1・改元4・大赦6
- 改元452年10月31日元号を「興安」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。452年10月31日永安前殿にて即位。
- 反乱452年12月隴西屠各王景文の乱
- 改元454年元号を「興光」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。454年
- 改元455年元号を「太安」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。456年
- 皇后456年皇后を立てる
- 反乱456年丁零の乱(井陘山)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。458年
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。458年蠕蠕(柔然)
- 改元460年元号を「和平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。460年
- 反乱460年河西胡族の反乱
- 反乱461年博陵深沢・
章武束州の反乱(県令殺害) - 反乱462年雍州氐族仇傉檀等の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。465年2月13日
北魏の歴代皇帝
歴代12人の一覧年表
南北朝の時代を年表で見る
北魏が