中国皇帝統計

献文帝

北魏(南北朝)|在位 465–471年

諱(本名)
拓跋弘
廟号
顕祖
在位
465–471年
在位期間
6年92日365名中168位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
23歳(数え年)269名中・長寿順219位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
5267名中82位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
5225名中88位タイ
被反乱
5289名中97位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:献文帝

即位の経緯

文成帝の長子。和平6年(465年)5月甲辰、父崩御に伴い即位。

出典: 魏書 巻6 顯祖紀

死因の経緯

皇興5年(471年)に子(孝文帝)へ譲位し太上皇帝となった後、承明元年(476年)6月、23歳で崩御。顯祖紀本文は死因を明記しないが、『魏書』天象志三に「至六月暴崩、實有酖毒之禍焉」、『北史』后妃伝・『資治通鑑』にも馮太后による鴆殺が明記される(李奕処刑への恨みが動機とされる)。本紀は婉曲だが複数の関連史料が一致して毒殺を示す。

出典: 魏書 巻6 顯祖紀/魏書 天象志三/北史 巻13 后妃傳/資治通鑑

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

皇帝在位期間(465-06-21即位~471-09-20譲位)中の改元は「天安」(466年)「皇興」(467年)の2回。譲位後の「承明」改元(476年)は太上皇帝期間・かつ孝文帝の治世下の出来事のため対象外。

大赦回数

「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみ5件を計上。「曲赦京師」(3件:天安元年9月庚子、天安元年3月辛亥、皇興二年6月庚辰)は部分的・地域限定の恩赦のため対象外とした。日付は原文の干支・月まで特定できるがグレゴリオ暦への厳密な換算は行っていないため年精度で記載(即位時の1件のみ既存データの日精度日付と一致させた)。譲位(皇興5年8月己酉=471-09-20)以降の出来事は含まない。

立后回数

顯祖紀本文中に献文帝自身が皇后を冊立したとする記述は見当たらない。「尊皇后曰皇太后」(和平六年即位時)は先代・文成帝の皇后を皇太后に尊んだ記事であり、献文帝自身の立后ではないため対象外。献文帝には正史上、正式に冊立された皇后の記録がない。

皇太子廃立回数

顯祖紀(皇帝在位期間465-06-21~471-09-20)中に皇太子(元弘=拓跋弘自身が太安2年に文成帝の下で立てられた件は先代の出来事)を廃したとする記述はない。皇興3年6月辛未に皇子宏(孝文帝)を皇太子に立てた記事はあるが、これは冊立であり廃立ではないため対象外。廃太子・廃太弟等の記述は本紀中に見当たらない。

親征回数

魏書巻六 顯祖紀を通読した限り、皇帝本人の出陣を示す「舆驾」「车驾」等の記述はこの女水(対蠕蠕)遠征1件のみ。対宋(劉彧)の彭城・懸瓠・青斉方面の一連の軍事行動は尉元・慕容白曜・長孫観ら将軍への派遣によるもので、皇帝本人の出陣を示す記述はないため親征に含めていない。

反乱鎮圧回数

乙渾事件(1件目)は朝廷内権力闘争としての性格が強く、太后・宗室主導での鎮圧である点で通常の反乱鎮圧と性格が異なる可能性があり、この1件のみ判断に迷うためconfidenceをmediumとした。他4件(道符・司馬休符・彭城群盗・西部敕勒)は服属する宗室・地方・部族による武装蜂起とその鎮圧行動として比較的明確。なお、皇興元年(467)に青州・冀州の刺史沈文秀・崔道固が一旦北魏に内属を申し出た後「復叛歸劉彧」(劉宋へ戻った)事例は、いまだ北魏の実効統治が確立していない係争地における南北戦争(劉宋との統一戦争)の一環と判断し、反乱としては計上していない。また皇興四年(470)冬、済南王慕容白曜・高平王李敷の誅殺は「云谋反叛,时论冤之」(謀反の嫌疑をかけられたが当時から冤罪とされた)とあり、実際の挙兵を伴わない政治的粛清と判断し除外した。

被反乱回数

rebellionSuppressionCountと完全に対称(同一の5件、うち乙渾事件のみ性格判断にやや迷いがありmedium)。なお太上皇期の476年(承明元年)に文明太后によって毒殺されたとされる事件(魏書巻六「承明元年,年二十三,崩于永安殿」、通説では鴆殺)は、471年8月の譲位(太上皇へ)後の出来事であり、本設問が対象とする「在位期間(皇帝としての在位465年5月〜471年8月)」の外で発生しているため、被反乱には計上していない。また毒殺は密殺であり武装蜂起・挙兵を伴わないため、仮に在位中であったとしても本基準(兵力を伴う弑逆・クーデター)には該当しにくい。

遷都回数

魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。

即位時年齢・没年齢

没年齢23歳は本紀に「年二十三」と直接記載(承明元年、476年)。ただしこの崩御は471年の孝文帝への譲位(太上皇帝就任)後の出来事であり、皇帝在位期間そのものの終了時点ではない点に留意。生年月(興光元年七月、454年)も直接記載。即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(18件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦465年6月21日即位に伴う大赦天下。

即位に伴う大赦天下。原文:「和平六年夏五月甲辰,即皇帝位,大赦天下」。

出典: 魏書 巻六 顯祖紀

改元466年和平から天安への改元。

和平から天安への改元。原文:「天安元年春正月乙丑朔,大赦,改年」。なお和平6年5月の即位時(「即皇帝位,大赦天下」)には改元・建元を伴う記述はなく、先代(文成帝)の和平年号がそのまま継続しているため、即位自体は改元としてカウントしない。

出典: 魏書 巻六 顯祖紀

大赦466年改元「天安」に伴う大赦。

改元「天安」に伴う大赦。原文:「天安元年春正月乙丑朔,大赦,改年」。

出典: 魏書 巻六 顯祖紀

反乱鎮圧466年2月乙渾専権・誅殺事件

首謀者: 乙渾

結果: 鎮圧成功。文明太后が主導し拓跋丕らに命じて乙渾を捕殺

魏書巻六:即位直後(465年5月)車騎大将軍乙渾が矯詔で尚書楊保年・賈愛仁・張天度・司徒陸麗ら重臣を禁中で殺害し、丞相・太尉として専権(「事无大小,皆决于浑」)。天安元年(466)二月庚申「丞相、太原王乙渾謀反伏誅」。魏書列伝(馮太后伝・長孫丕伝等)によれば、献文帝は当時12歳で諒闇中のため実権を持たず、文明太后が密かに大策を定め、拓跋丕に元賀・牛益得らを率いて乙渾を捕らえ誅殺させた。乙渾自身は開戦・挙兵はせず武力での官僚殺害と専権のみで、最終的に奇襲的に捕縛・処刑された形。皇帝本人ではなく太后・宗室が鎮圧主体である点、また皇帝弑逆・廃位を狙ったとまでは明記されない点で、朝廷内クーデター(例外4)とも通常の臣下反乱とも取れる境界的事例のためconfidenceはmediumとした。

被反乱466年2月乙渾専権・誅殺事件

首謀者: 乙渾

結果: 文明太后・拓跋丕らにより乙渾は捕殺され鎮圧された

rebellionSuppressionCountの1件目と同一事件。即位直後(465年5月)に乙渾が矯詔で複数の重臣を殺害し専権を握った事態そのものは献文帝の政権にとっての被害(反乱・クーデター的行為)であり、その後466年2月に誅殺され収束。皇帝本人は幼少(12歳)で当事者としての行動はなく太后が対処したため、朝廷内クーデター(例外4に近い性格)とも解釈しうる境界事例でconfidence medium。

改元467年天安から皇興への改元。

天安から皇興への改元。原文:「戊申,皇子宏生,大赦,改年」(皇興元年秋八月)。なお本紀の紀年表記上「皇興元年」は同年正月から遡って用いられているが、実際の改元詔は秋八月戊申に発せられている。

出典: 魏書 巻六 顯祖紀

大赦467年皇子宏(後の孝文帝)誕生・改元「皇興」に伴う大赦。

皇子宏(後の孝文帝)誕生・改元「皇興」に伴う大赦。原文:「戊申,皇子宏生,大赦,改年」。

出典: 魏書 巻六 顯祖紀

反乱鎮圧467年1月東平王道符の乱(長安)

首謀者: 東平王拓跋道符

結果: 鎮圧成功(数日内)。道符の司馬段太陽が道符を攻めて斬り、首を京師に伝える。道符の兄弟も皆伏誅

魏書巻六 皇興元年(467)正月:「东平王道符谋反于长安,杀副将驸马都尉万古真、钜鹿公李恢、雍州刺史鱼玄明。丙午,诏司空、平昌公和其奴、东阳公元丕等讨道符。丁未,道符司马段太阳攻道符,斩之,传首京师。道符兄弟皆伏诛。」宗室(東平王)による長安での武装蜂起・官吏殺害。討伐の詔が出た翌日には配下に討たれており、実際に武力鎮圧に及ぶ前に内部崩壊した形だが、朝廷側は討伐軍を差し向けており鎮圧行動として計上。

被反乱467年1月東平王道符の乱(長安)

首謀者: 東平王拓跋道符

結果: 討伐軍差遣直後、道符配下によって道符自身が討たれ乱は収束

rebellionSuppressionCountの2件目と同一事件。宗室(東平王)による武装蜂起・官吏殺害であり、被反乱として計上。

反乱鎮圧468年2月徐州群盗司馬休符の乱(自称晋王)

首謀者: 司馬休符

結果: 鎮圧成功。将軍尉元が討平

魏書巻六 皇興二年(468)二月:「是月,徐州群盗司马休符自称晋王,将军尉元讨平之。」徐州(466〜467年に劉宋から接収した新領土)における群盗の蜂起・僭称王号を、皇帝直属ではなく将軍尉元が鎮圧。

被反乱468年2月徐州群盗司馬休符の乱(自称晋王)

首謀者: 司馬休符

結果: 尉元により鎮圧

rebellionSuppressionCountの3件目と同一事件。

大赦469年皇子宏に名を賜ったことに伴う大赦天下(皇興三年)。

皇子宏に名を賜ったことに伴う大赦天下(皇興三年)。原文:「丙申,名皇子曰宏,大赦天下」。

出典: 魏書 巻六 顯祖紀

大赦470年原文:「夏四月辛丑,大赦天下」(皇興四年)。

出典: 魏書 巻六 顯祖紀

反乱鎮圧470年8月彭城群盗の蜂起

首謀者: 不詳(彭城の群盗)

結果: 鎮圧成功。長史が兵を率いて殲滅

魏書巻六 皇興四年(470)秋八月:「群盗入彭城,杀镇将元解愁,长史勒兵灭之。」彭城は既に北魏の統治下(466〜467年に接収)にあり、鎮将(守備司令官)が殺害される事態となったが、長史が兵を動かして鎮圧に成功。

被反乱470年8月彭城群盗の蜂起

首謀者: 不詳(彭城の群盗)

結果: 長史により鎮圧

rebellionSuppressionCountの4件目と同一事件。鎮将元解愁が殺害される被害を受けた。

親征470年9月蠕蠕(柔然)

対象: 蠕蠕(柔然)

結果: 勝利。女水で蠕蠕を大破し帰還

魏書巻六 顯祖紀 皇興四年(470):「蠕蠕犯塞。九月丙寅,舆驾北伐,诸将俱会于女水,大破虏众。事具《蠕蠕传》。……壬申,车驾至自北伐,饮至策勋,告于宗庙。」〈舆驾〉〈车驾〉の語で献文帝本人が親征したことが明示されている。蠕蠕(柔然)は北魏に服属しない独立の遊牧国家であり、対外戦争として親征1回に計上した(反乱鎮圧には含めない)。

反乱鎮圧471年4月西部敕勒の反乱

首謀者: 不詳(西部敕勒諸部)

結果: 鎮圧未完了・討伐軍が敗北。「诏汝阴王天赐、给事中罗云讨之。云为敕勒所袭杀,死者十五六。」討伐にあたった罗云は敕勒の奇襲を受けて戦死し、部隊の5〜6割が死亡する大敗を喫した。この後どうなったかは巻六には続報なし

魏書巻六 皇興五年(471)夏四月:「西部敕勒叛,诏汝阴王天赐、给事中罗云讨之。云为敕勒所袭杀,死者十五六。」敕勒は北魏に服属する遊牧部族集団(六鎮に類する服属軍団)であり、その離反・武装蜂起は服属民の反乱に該当する。鎮圧は成功したか不明(記録なし、討伐軍が大敗した記述のみ)だが、鎮圧を試みた事実として計上(基準上、成功可否は問わない)。

被反乱471年4月西部敕勒の反乱

首謀者: 不詳(西部敕勒諸部)

結果: 討伐軍(罗云)が敕勒の奇襲を受け戦死、大敗

rebellionSuppressionCountの5件目と同一事件。服属部族の離反により討伐軍が大敗した被害。

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