孝文帝の人物データ
- 生年
- 467年10月13日
- 在位
- 471年9月20日〜499年4月26日
- 没年
- 499年4月26日33歳(数え年)長生き順同率173位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓元諱宏廟号高祖呼び名の見方
- 目立つ記録
- 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 魏書 巻七上・
下(帝紀第七上・ 下、高祖紀上・ 下) - 死因
- 魏書 巻7下 高祖紀下
- 即位経路
- 魏書 巻6 顯祖紀/巻7上 高祖紀上
生涯
どんな皇帝か
魏書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、武威を業とした北魏で、孝文帝が制度や朝野の規範を取捨し文化を輝かせたと評する。
即位まで
献文帝の長子で、467年に平城の紫宮で生まれた。幼いころ父が癰を患うと自ら膿を吸い、位を譲られたときは、親に代わる思いが胸に迫ると泣き止まなかった。父ははじめ叔父の京兆王子推に譲ろうとしたが群臣に止められ、471年に孝文帝が即位した。
治世と最期
476年に父が急死すると、祖母の馮太后が臨朝皇太后などが朝廷に出て政治を執ることした。帝は何事も太后に従った。太后は聡明な帝を馮氏に不利と見て廃そうとし、寒中に単衣で閉じ込めて食を絶ったが、元丕らの諫めで止み、帝は恨まなかった。宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の讒言で怒った太后に杖で打たれても弁明せず、熱い羹で手をやけどさせた者も笑って許した。寵愛した林氏は、子の恂が跡継ぎになるので483年に旧制で亡くなった。帝は望まなかったが、太后の意向で止められなかった。
読書を好み、486年から詔や冊文位などを授けるときに出す君主の文書を自ら書いた。490年に太后が没した。493年、百余万の兵で南伐に出たが、洛陽で群臣に止められると遷都を定めた。494年に衣服の制度を改め、495年には朝廷で北の言葉を禁じ、百官朝廷のすべての役人を洛陽へ移した。翌年には姓を元氏に改めた。淮南へ巡幸皇帝が各地を見て回ることしたときは、軍のために民の木を伐れば必ず絹を置いて代価とした。いつも洗い直した衣を着た。
北へ奔ろうと謀り、たびたび諫めてきた高道悦を宮中で斬った太子恂を自ら杖打ち、大義親を滅すと言って庶人官位や身分を持たない、ふつうの民とし、李彪が再び謀反と密告すると死を賜った。499年の南伐中に発病し、陳顕達を破ったのち重くなった。南征の留守に宦官と密通した馮皇后には死を賜るよう命じ、谷塘原の行宮皇帝が都の外で泊まる仮の宮殿で没した。
史料について
父の急死を、魏書の皇后伝は太后の仕業と言われたと記し、資治通鑑は太后が毒を盛ったとする。本意を遷都とするのは任城王澄伝で、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は群臣に止められてから遷都を定めたとする。恂の伝は、恂の弁明書が握りつぶされていたと後に訴えが出たが、恩赦で究明されなかったと記す。恂の母を、魏書は林氏、南斉書は馮氏の妹とする。馮皇后の死を、皇后伝は崩御後に遺言で執行されたとし、本紀は崩御の2日前に詔して死を賜ったとする。本紀は病名を書かない。
孝文帝とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
471–499年の地図に、孝文帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱23・遷都1・親征4・皇后2・皇太子1・改元3・大赦14
- 改元471年9月20日元号を「延興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。471年9月20日太華前殿にて即位、大赦、改元して延興元年とする。
- 反乱471年10月青州高陽民封辯の斉王僭称・
蜂起 - 反乱471年10月〜472年3月朔方民曹平原の乱
- 反乱471年11月沃野・
統万二鎮敕勒叛乱 - 反乱471年11月平陵の妖賊司馬小君の乱
- 反乱472年統万鎮胡民の北叛
- 反乱472年東部敕勒の蠕蠕への逃亡叛乱
- 反乱472年光州民孫晏の乱(劉昱に通謀)
- 反乱472年河西費也頭の反乱
- 反乱473年柔玄鎮敕勒二部の蠕蠕呼応叛乱
- 反乱473年妖人劉挙の自称天子事件
- 反乱473年武都王の反乱(仇池侵攻)
- 反乱475年洛州賈伯奴(恆農王僭称)・
田智度(上洛王僭称)の夜襲 - 改元476年元号を「承明」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。476年
- 反乱476年冀州武邑民宋伏龍の南平王僭称
- 改元477年元号を「太和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。477年
- 反乱477–478年秦州略陽民王元寿の衝天王僭称
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。479年
- 反乱479年青州主簿崔次思の謀叛
- 反乱480–481年蘭陵民桓富らの五固拠点蜂起(司馬朗之推戴)
- 反乱480年洮陽羌の叛乱
- 反乱480年雍州氐酋斉男王の反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。481年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。482年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。483年太和七年閏月(四月と五月の間の閏四月)癸丑、皇子誕生に伴い大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。484年班禄(官吏への俸禄制導入)の詔とともに大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。486年皇子恂(のち廃太子)の命名に伴い大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。488年
- 反乱489年兗州民王伯恭の斉王僭称(労山)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。492年新律令頒布とともに大赦。
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。493年南征途上の石済にて遷都の意を告げ、大赦。
- 皇后493年立皇后馮氏(馮熙の長女、後に太和二十年七月に廃后)。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。493年南斉(蕭昭業/蕭賾期)
- 遷都494年平城 → 洛陽
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。495年圜丘での祭祀(有事於圜丘)に際し大赦。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。495年南斉(蕭鸞)
- 反乱496–497年汾州叛胡の乱
- 反乱496年恆州(代都平城)における穆泰・
陸叡の反遷都謀反 - 皇后497年昭儀馮氏(馮熙の次女、馮潤)を立てて皇后とする。
- 皇太子497年皇太子恂を廃して庶人とする(丁卯、告太廟)。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。497–498年南斉(蕭鸞→蕭宝巻)
- 反乱497年梁州叛羌の乱
- 反乱497–498年敕勒樹者らの反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。499年2月大赦(帝の病気平癒を祝う上寿の直後)。
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。499年4月〜499年5月南斉(蕭宝巻将陳顕達)
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