孝文帝
北魏(南北朝)|在位 471–499年
- 諱(本名)
- 元宏
- 廟号
- 高祖
- 在位
- 471–499年
- 在位期間
- 27年225日365名中30位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 5歳(数え年)172名中・若い順9位タイ
- 没年齢
- 33歳(数え年)269名中・長寿順174位タイ
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 14回267名中19位タイ
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 1回29名中5位タイ
- 親征
- 4回112名中18位タイ
- 反乱鎮圧
- 23回225名中9位
- 被反乱
- 23回289名中11位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:孝文帝
即位の経緯
献文帝の長子で皇太子。皇興5年(471年)、献文帝が「昔堯舜之禪天下也…今使太保、建安王陸馛、太尉源賀持節奉皇帝璽綬、致位於爾躬」と堯舜の故事になぞらえた詔を発し生前譲位した父子間の内禅であり、王朝交代を伴う禅譲(曹丕・司馬炎の例)とは性質が異なる。実質は嫡子への通常の皇位継承であるため世襲に分類する(ユーザー判断)。原文が「禪」の語を用いている点、また馮太后の意向が強く働いていた可能性がある点は付記する。
出典: 魏書 巻6 顯祖紀/巻7上 高祖紀上
死因の経緯
南征(対南斉)の途上、太和23年(499年)4月丙午朔、穀塘原の行宮で崩御(享年33)。「帝不豫」(発病)の記述があり、行軍中に病没したことが明確。
出典: 魏書 巻7下 高祖紀下
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う最初の建元(延興)を含め、在位中の改元は延興→承明→太和の3回。
大赦回数
「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみを計上。「曲赦」(地域限定の恩赦、14件あり)は除外。即位時の大赦(延興元年)および太上皇帝崩御に伴う改元時の大赦(承明元年)も、孝文帝自身の在位期間に属するため算入した。
立后回数
馮熙の2人の娘がそれぞれ皇后に冊立された(同一人物の再冊立ではなく、別人の立后が2回)。太和二十年七月に前者の廃后があり、太和二十三年四月に後者に死を賜っているが、これらは冊立ではないため計上外。
皇太子廃立回数
立太子そのもの(太和十七年の恂立太子、太和二十一年の恪立太子)はカウント対象外。廃立は元恂(太子恂)を庶人に廃した1回のみ。
親征回数
471〜476年(延興元年〜承明元年)の軍事行動(『太上皇帝亲将南讨』『太上皇帝亲讨之』等)は全て孝文帝の父・献文帝(太上皇帝、在世中は実権を保持)によるものであり、原典上も『帝』ではなく『太上皇帝』と明記して区別されているため親征に含めていない。476〜490年(馮太后臨朝称制期)は蠕蠕討伐等も含め全て諸将への委任であり帝自身の出陣記述はない。太和十四年(490)馮太后崩御、十五年(491)正月『帝始聽政』以降が実質的な孝文帝親政期であり、南斉との4回の南征のみが該当する。493年の1回は実戦なく遷都に転化した特殊事例のため、これを除外し3回とする解釈も成り立ちうる(その場合confidenceはより高くなる)。
反乱鎮圧回数
23件は全てrebellionSufferedCountと同一の事件を鎮圧側から集計したもの(対称基準)。うち小規模な地方民の僭号・妖賊蜂起が多数を占める(封辯・司馬小君・孫晏・費也頭・劉挙・武都王・崔次思・賈伯奴・田智度・宋伏龍・王元寿・桓富/司馬朗之・洮陽羌・斉男王・王伯恭)。境界部族(敕勒3件・汾州胡・梁州羌)は北魏に服属する鎮戍・属国民の離反として計上。最大の事件は太和二十年(496)の穆泰・陸叡の乱で、漢化・洛陽遷都に反発した代北旧貴族による武装蜂起未遂。南朝(劉宋・南斉)との戦争、蠕蠕・吐谷浑との交戦は対等な独立勢力・外国勢力として除外した。結果が不明瞭または首謀者が逃亡し完全鎮圧に至っていない事案(柔玄鎮敕勒二部・崔次思・梁州叛羌)も、武力行使自体は確認できるため計上したが、鎮圧成否の記載は薄いためconfidenceをmediumとした。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと完全に対称(同一23件、粒度差や未鎮圧のまま在位終了、皇帝先制、権臣による弑逆等の例外パターンには該当しない)。太子元恂自身の平城逃亡未遂・輔導官高道悦殺害事件(太和二十年八月)は、実際の武装衝突に至らず領軍元俨が門を固めただけで鎮静化したため『実際の兵力行使に至らなかった』ケースとして被反乱に含めていない(廃位は別軸の事象として扱う)。同様に、沙門慧隐・法秀・中散梁衆保・沙門司馬惠御の各『謀反』は挙兵の記述がなく摘発のみで終わったとみられるため除外、広州刺史薛法護の南朝への逃亡(太和二十年)も戦闘記述がない単純な亡命として除外、句律城での西征軍脱走兵処刑(延興四年)は従軍中の逃亡兵処罰であり政権への武装反抗ではないため除外した。
遷都回数
在位中に遷都1回(0494年 平城→洛陽)。
即位時年齢・没年齢
生年月(皇興元年八月、467年)・即位時年齢5歳(「五歳受禅」)・没年齢33歳(「時年三十三」)いずれも直接記載。
在位中の出来事(71件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧471年9月青州高陽民封辯の斉王僭称・蜂起
首謀者: 封辯
結果: 州軍が討滅
延興元年九月壬午『青州高陽民封辯自号斉王,聚党千余人,州軍討滅之』(魏書巻七上)。
被反乱471年9月青州高陽民封辯の斉王僭称・蜂起
首謀者: 封辯
結果: 州軍が討滅
鎮圧回数と同一事件。延興元年九月(魏書巻七上)。
改元471年9月20日皇興五年秋八月丙午、即位に伴い建元。
皇興五年秋八月丙午、即位に伴い建元。「大赦、改元延興元年」。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
大赦471年9月20日皇興五年秋八月丙午、太華前殿にて即位、大赦、改元して延興元年とする。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
反乱鎮圧471年10月沃野・統万二鎮敕勒叛乱
首謀者: 沃野・統万二鎮の敕勒(服属部族)
結果: 太尉・隴西王源賀が追撃し殲滅(斬首3万余級)、遺民を冀・定・相三州の営戸に移配
延興元年冬十月丁亥『沃野、統万二鎮敕勒叛.詔太尉、隴西王源賀追撃,至桴罕,滅之』(魏書巻七上)。敕勒は北魏に服属する鎮戍部族のため服属民の反乱として計上。
反乱鎮圧471年10月〜472年3月朔方民曹平原の乱
首謀者: 曹平原
結果: 472年3月、石城郡で捕縛され京師に送られ斬首
延興元年『朔方民曹平原招集不逞,破石楼堡,殺軍将』〜延興二年三月庚午『石城郡獲曹平原,送京師,斬之』(魏書巻七上)。
被反乱471年10月沃野・統万二鎮敕勒叛乱
首謀者: 沃野・統万二鎮の敕勒(服属部族)
結果: 源賀が殲滅
鎮圧回数と同一事件。延興元年冬十月(魏書巻七上)。
被反乱471年10月〜472年3月朔方民曹平原の乱
首謀者: 曹平原
結果: 472年3月に捕縛・斬首
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧471年11月平陵の妖賊司馬小君の乱
首謀者: 司馬小君
結果: 斉州刺史・武昌王平原が討ち捕らえる
延興元年『妖賊司馬小君聚衆反於平陵,斉州刺史、武昌王平原討擒之』(魏書巻七上)。
被反乱471年11月平陵の妖賊司馬小君の乱
首謀者: 司馬小君
結果: 討ち捕らえられる
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧472年1月統万鎮胡民の北叛
首謀者: 統万鎮胡民
結果: 寧南将軍・交阯公韓抜等が追撃し殲滅
延興二年正月乙卯『統万鎮胡民相率北叛.詔寧南将軍、交阯公韓抜等追滅之』(魏書巻七上)。前年の敕勒叛乱と場所は同じ統万鎮だが主体(胡民)・時期が異なる別件として計上。
被反乱472年1月統万鎮胡民の北叛
首謀者: 統万鎮胡民
結果: 追撃され殲滅
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧472年2月東部敕勒の蠕蠕への逃亡叛乱
首謀者: 東部敕勒
結果: 太上皇帝(献文帝)自ら追撃したが石磧まで至り追いつけず失敗に終わった
延興二年二月『東部敕勒叛奔蠕蠕,太上皇帝追之,至石磧,不及而還』(魏書巻七上)。服属部族(敕勒)の離反であり、追撃失敗でも鎮圧試行として計上(実際に成功したか否かは問わない基準に従う)。
被反乱472年2月東部敕勒の蠕蠕への逃亡叛乱
首謀者: 東部敕勒
結果: 太上皇帝自ら追撃したが失敗
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧472年7月光州民孫晏の乱(劉昱に通謀)
首謀者: 孫晏
結果: 刺史叔孫璝が討平
延興二年秋七月『光州民孫晏等聚党千余人叛通劉昱,刺史叔孫璝討平之』(魏書巻七上)。劉宋への通謀を伴うが蜂起主体は魏の民であるため服属民の反乱として計上。
被反乱472年7月光州民孫晏の乱(劉昱に通謀)
首謀者: 孫晏
結果: 討平
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧472年8月河西費也頭の反乱
首謀者: 費也頭部
結果: 薄骨律鎮将が撃退
延興二年八月『河西費也頭反,薄骨律鎮将撃走之』(魏書巻七上)。
被反乱472年8月河西費也頭の反乱
首謀者: 費也頭部
結果: 撃退
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧473年妖人劉挙の自称天子事件
首謀者: 劉挙
結果: 斉州刺史・武昌王平原が捕らえ斬首
延興三年『是年,妖人劉挙自称天子,斉州刺史、武昌王平原捕斬之』(魏書巻七上)。具体的な月日の記載なく年のみ判明。
被反乱473年妖人劉挙の自称天子事件
首謀者: 劉挙
結果: 捕らえられ斬首
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧473年10月武都王の反乱(仇池侵攻)
首謀者: 武都王
結果: 長孫観が吐谷浑討伐から引き返して討伐、翌延興四年に仇池を曲赦しており鎮定を確認
延興三年冬十月『武都王反,攻仇池.詔長孫観仍回師討之』(魏書巻七上)。武都王は北魏が冊封した仇池氐族系の藩王とみられ、服属勢力の離反として計上。
被反乱473年10月武都王の反乱(仇池侵攻)
首謀者: 武都王
結果: 長孫観が討伐
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧473年12月柔玄鎮敕勒二部の蠕蠕呼応叛乱
首謀者: 柔玄鎮敕勒二部
結果: 原典に鎮圧結果の明記なし(蠕蠕犯塞に呼応した反乱で、その後の顛末は記載されていない)
延興三年十二月壬子『蠕蠕犯辺,柔玄鎮二部敕勒叛応之』(魏書巻七上)。結果不明のため確度は低いが服属部族の武装呼応であり計上。
被反乱473年12月柔玄鎮敕勒二部の蠕蠕呼応叛乱
首謀者: 柔玄鎮敕勒二部
結果: 結果不明
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧475年9月洛州賈伯奴(恆農王僭称)・田智度(上洛王僭称)の夜襲
首謀者: 賈伯奴・田智度
結果: 州郡が撃破、伯奴は緱氏で斬首、智度は捕らえられ京師に送られる
延興五年九月癸卯『洛州人賈伯奴、豫州人田智度聚党千余人,伯奴称恆農王,智度上洛王,夜攻洛州.州郡撃之,斬伯奴於緱氏,執智度送京師』(魏書巻七上)。
被反乱475年9月洛州賈伯奴(恆農王僭称)・田智度(上洛王僭称)の夜襲
首謀者: 賈伯奴・田智度
結果: 撃破、伯奴斬首・智度捕縛
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧476年5月冀州武邑民宋伏龍の南平王僭称
首謀者: 宋伏龍
結果: 郡県が捕らえ斬首
承明元年夏五月『冀州武邑民宋伏龍聚衆,自称南平王.郡県捕斬之』(魏書巻七上)。
被反乱476年5月冀州武邑民宋伏龍の南平王僭称
首謀者: 宋伏龍
結果: 捕斬
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
改元476年6月承明元年六月壬申、太上皇帝(献文帝)崩御を受けて改元(延興→承明)。
承明元年六月壬申、太上皇帝(献文帝)崩御を受けて改元(延興→承明)。「大赦、改年」。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
大赦476年6月承明元年六月壬申(太上皇帝=献文帝崩御の翌日)、大赦、改年(延興→承明)。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
改元477年1月太和元年春正月乙酉朔、詔して「協典革元、其改今号為太和元年」(承明→太和)。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
反乱鎮圧477年1月〜478年2月秦州略陽民王元寿の冲天王僭称
首謀者: 王元寿
結果: 秦益二州刺史・武都公尉洛侯が討ち破り、その妻子を捕らえて京師へ送る
太和元年正月己酉『秦州略陽民王元寿聚衆五千余家,自号為冲天王』〜二年二月辛未『秦益二州刺史、武都公尉洛侯討破元寿,獲其妻子,送京師』(魏書巻七上)。
被反乱477年1月〜478年2月秦州略陽民王元寿の冲天王僭称
首謀者: 王元寿
結果: 討ち破られ妻子捕縛
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
大赦477年8月太和元年八月壬子、大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
反乱鎮圧479年5月青州主簿崔次思の謀叛
首謀者: 崔次思
結果: 州軍が撃破したが、次思本人は郁洲へ逃亡し捕縛には至らなかった
太和三年『青州主簿崔次思聚衆謀叛,州軍撃之,次思走郁洲』(魏書巻七上)。首謀者は逃亡し完全鎮圧ではないが武力行使による撃破は実施された。
被反乱479年5月青州主簿崔次思の謀叛
首謀者: 崔次思
結果: 撃破されるも本人は逃亡
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
大赦479年10月太和三年冬十月己巳朔、大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
反乱鎮圧480年1月洮陽羌の叛乱
首謀者: 洮陽羌
結果: 桴罕鎮将が討平
太和四年春正月『洮陽羌叛,桴罕鎮将討平之』(魏書巻七上)。
反乱鎮圧480年1月雍州氐酋斉男王の反乱
首謀者: 斉男王(雍州氐酋)
結果: 州郡が捕らえ斬首
太和四年正月乙卯『雍州氐斉男王反,殺美陽令,州郡捕斬之』(魏書巻七上)。
被反乱480年1月洮陽羌の叛乱
首謀者: 洮陽羌
結果: 討平
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
被反乱480年1月雍州氐酋斉男王の反乱
首謀者: 斉男王(雍州氐酋)
結果: 捕斬
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。
反乱鎮圧480年10月〜481年6月蘭陵民桓富らの五固拠点蜂起(司馬朗之推戴)
首謀者: 桓富・司馬朗之
結果: 淮陽王尉元らが討伐、太和五年に司馬朗之は兗州で斬首され首級が京師に送られた
太和四年冬十月丁未『蘭陵民桓富殺其県令,与昌慮桓和北連太山群盗張和顔等,聚党保五固,推司馬朗之為主.詔淮陽王尉元等討之』〜五年『兗州斬司馬朗之,伝首京師』(魏書巻七上)。県令殺害を伴う実力蜂起で規模も比較的大きい。
被反乱480年10月〜481年6月蘭陵民桓富らの五固拠点蜂起(司馬朗之推戴)
首謀者: 桓富・司馬朗之
結果: 討伐され司馬朗之は斬首
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七上)。県令殺害を伴う実力蜂起。
大赦481年2月太和五年二月辛卯朔、大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
大赦482年1月太和六年春正月甲戌、大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
大赦483年5月太和七年閏月(四月と五月の間の閏四月)癸丑、皇子誕生に伴い大赦天下。
太和七年閏月(四月と五月の間の閏四月)癸丑、皇子誕生に伴い大赦天下。閏月のためグレゴリオ月は概算。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
大赦484年6月太和八年六月丁卯、班禄(官吏への俸禄制導入)の詔とともに大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
大赦486年6月太和十年六月己卯、皇子恂(のち廃太子)の命名に伴い大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
大赦488年4月太和十二年夏四月甲子、大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
反乱鎮圧489年1月兗州民王伯恭の斉王僭称(労山)
首謀者: 王伯恭
結果: 東莱鎮将孔伯孫が討ち斬首
太和十三年春正月乙丑『兗州民王伯恭聚衆労山,自称斉王.東莱鎮将孔伯孫討斬之』(魏書巻七下)。
被反乱489年1月兗州民王伯恭の斉王僭称(労山)
首謀者: 王伯恭
結果: 討斬
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七下)。
大赦492年4月太和十六年四月丁亥朔、新律令頒布とともに大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
立后493年4月太和十七年夏四月戊戌、立皇后馮氏(馮熙の長女、後に太和二十年七月に廃后)。
出典: 魏書 巻七下 高祖紀下
親征493年6月〜493年8月南斉(蕭昭業/蕭賾期)
対象: 南斉(蕭昭業/蕭賾期)
結果: 帝自ら「南伐」を宣言し戎服で百余万の歩騎を率い京師平城を発ち洛陽まで南進したが、群臣が馬前で南伐中止を懇請したため『帝乃止』と南伐を取り止め、そのまま洛陽遷都を断行した。実際の戦闘はなし。
太和十七年六月『帝将南伐,詔造河橋』、八月『車駕発京師,南伐,歩騎百余万』〜『戎服執鞭,御馬而出.群臣稽顙於馬前,請停南伐.帝乃止.仍定遷都之計』(魏書巻七上)。史家は一般にこの南伐を洛陽遷都実現のための名目・方便とみなすが、原典上は皇帝自身が軍装で出陣し百万規模の軍を発したと明記されるため親征1回として計上した。実戦を伴わず遷都に転化した点で他の3回と性格が異なる。
大赦493年10月太和十七年冬十月乙未、南征途上の石済にて遷都の意を告げ、大赦天下。
出典: 魏書 巻七上 高祖紀上
遷都494年11月平城 → 洛陽
高祖孝文帝(元宏)太和十七年(493年)冬十月、洛陽近郊の金墉城に至り「诏征司空穆亮与尚书李冲、将作大匠董爵经始洛京」「设坛于滑台城东,告行庙以迁都之意」と正式に遷都を布告(南伐を名目に諸臣の反対を抑えて決定)。太和十八年(494年)十月「亲告太庙,奉迁神主。……车驾发平城宫」で平城の宗廟神主を奉じて出発し、十一月己丑「车驾至洛阳」で洛陽に到着。翌太和十九年(495年)六月には「诏迁洛之民,死葬河南,不得还北」(洛陽移住者は河南に葬り北へ帰らせない)と定住を制度化し、九月「六宫及文武尽迁洛阳」で後宮・文武百官の洛陽移転を完了した。(魏書巻七・高祖紀上)。中国史上著名な平城→洛陽の正式遷都。(出典: 魏書 巻七 高祖紀上(太和十七年〜十九年))
親征494年12月〜495年5月南斉(蕭鸞)
対象: 南斉(蕭鸞)
結果: 車駕自ら南伐し、鍾離・邵陽・下邳・彭城等を転戦して蕭鸞軍を破り、495年5月に『車駕至自南伐,告於太廟』で凱旋。
太和十八年十二月辛亥『詔中外戒厳...車駕南伐』〜十九年五月癸未『車駕至自南伐,告於太廟』(魏書巻七下)。途中で司徒馮誕が陣没するなど実戦を伴う本格的な親征。
大赦495年11月太和十九年十一月丙戌、圜丘での祭祀(有事於圜丘)に際し大赦天下。
出典: 魏書 巻七下 高祖紀下
反乱鎮圧496年5月〜497年3月汾州叛胡の乱
首謀者: 汾州胡
結果: 右将軍元隆が撃破、翌太和二十一年三月に離石で残党が帰罪し赦免された
太和二十年閏(五月頃)『右将軍元隆大破汾州叛胡』〜二十一年三月己酉『次離石.叛胡帰罪,宥之』(魏書巻七下)。
被反乱496年5月〜497年3月汾州叛胡の乱
首謀者: 汾州胡
結果: 撃破、残党は翌年赦免
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七下)。
皇太子廃立496年12月太和二十年十二月丙寅、皇太子恂を廃して庶人とする(丁卯、告太廟)。
出典: 魏書 巻七下 高祖紀下
反乱鎮圧496年12月恆州(代都平城)における穆泰・陸叡の反遷都謀反
首謀者: 穆泰・陸叡(元隆・元超・元業ら代都旧貴族)
結果: 高祖自ら平城へ赴き、任城王元澄に鎮圧させた。穆泰は伏誅、陸叡は獄中で賜死、元丕の子の元隆・元超・元業らも同謀として伏誅した
太和二十年十二月『恆州刺史穆泰等在州謀反,遣行吏部尚書任城王澄案治之』(魏書巻七下)。列伝(巻二十八陸叡伝・巻七元頤伝等)によれば穆泰・陸叡は洛陽遷都・漢化政策に不満を持つ代北旧貴族を糾合し、南安王・陽平王(元頤)・楽陵王らを新帝に擁立しようと画策、元丕の子隆・超は『挙兵断関,規拠陘北』と武装蜂起も図った。孝文帝は自ら平城まで出向いたが、実際の鎮圧の主体は任城王澄であり帝自身は前線で戦闘していないため親征には含めない。反遷都・反漢化派宗室・軍人による代表的な反乱事件。
被反乱496年12月恆州(代都平城)における穆泰・陸叡の反遷都謀反
首謀者: 穆泰・陸叡(元隆・元超・元業ら代都旧貴族)
結果: 任城王澄が鎮圧、穆泰伏誅・陸叡賜死・元隆兄弟ら連座して伏誅
鎮圧回数と同一事件。漢化・洛陽遷都に反発した代北旧貴族による武装蜂起計画(『挙兵断関,規拠陘北』)。廃太子恂も一時擁立候補として名が挙がり、事件後の太和二十一年に再度の謀反嫌疑で賜死されたが、これは恂自身が別途武装蜂起した事案ではなく本件の余波として扱い、別件としては計上していない(列伝巻十・巻二十八)。
立后497年7月太和二十一年秋七月甲午、昭儀馮氏(馮熙の次女、馮潤)を立てて皇后とする。
出典: 魏書 巻七下 高祖紀下
親征497年7月〜498年9月南斉(蕭鸞→蕭宝巻)
対象: 南斉(蕭鸞→蕭宝巻)
結果: 車駕南討し赭陽・宛城・新野・樊城・涡陽方面で蕭鸞軍を撃破したが、498年7月に蕭鸞が死去したため『礼不伐喪』を理由に反旆(撤兵)を命じた。
太和二十一年七月庚辰『車駕南討』〜二十二年九月己亥『帝以蕭鸞死,礼不伐喪,乃詔反旆』(魏書巻七下)。北方の敕勒反乱鎮圧は将軍(江陽王継)に委任しており帝本人は同行していないため、これは含めない。
反乱鎮圧497年8月〜498年12月敕勒樹者らの反乱
首謀者: 敕勒樹者(北鎮敕勒)
結果: 平北将軍・江陽王継が都督北討諸軍事として討伐し、498年12月に平定(帝は南征からの帰途で自ら赴かず将軍に委任)
太和二十一年八月壬子『敕勒樹者相率反叛.詔平北将軍、江陽王継都督北討諸軍事以討之』〜二十二年十二月甲寅『以江陽王継定敕勒,乃詔班師』(魏書巻七下)。敕勒は服属する北鎮部族のため服属民の反乱として計上。
被反乱497年8月〜498年12月敕勒樹者らの反乱
首謀者: 敕勒樹者(北鎮敕勒)
結果: 江陽王継が平定
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七下)。
反乱鎮圧497年9月梁州叛羌の乱
首謀者: 梁州羌
結果: 河南尹李崇が征西将軍源懐の節度を受けて討伐に当たった。原典に具体的戦果の記載なし
太和二十一年九月丁酉『詔河南尹李崇討梁州叛羌,受征西源懐節度』(魏書巻七下)。
被反乱497年9月梁州叛羌の乱
首謀者: 梁州羌
結果: 李崇が討伐(詳細な戦果不明)
鎮圧回数と同一事件(魏書巻七下)。
大赦499年1月太和二十三年春正月甲辰、大赦天下(帝の病気平癒を祝う上寿の直後)。
出典: 魏書 巻七下 高祖紀下
親征499年3月〜499年4月南斉(蕭宝巻将陳顕達)
対象: 南斉(蕭宝巻将陳顕達)
結果: 車駕自ら南伐し馬圏で陳顕達軍を撃破・敗走させたが、直後に帝が発病(『帝不予』)、北還の途上、太和二十三年四月丙午に谷塘原の行宮で崩御(享年33)。
太和二十三年三月庚辰『車駕南伐』〜四月丙午『帝崩於谷塘原之行宮』(魏書巻七下)。孝文帝最後の親征であり、この遠征中の発病がそのまま崩御に直結した。