宣武帝
北魏(南北朝)|在位 499–515年
- 諱(本名)
- 元恪
- 廟号
- 世宗
- 在位
- 499–515年
- 在位期間
- 15年284日365名中79位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 33歳(数え年)269名中・長寿順174位タイ
- 改元
- 4回332名中29位タイ
- 大赦
- 9回267名中47位タイ
- 立后
- 2回204名中14位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 17回225名中18位タイ
- 被反乱
- 17回289名中22位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:宣武帝
即位の経緯
孝文帝の子。太和23年(499年)4月丁巳、父の南征行宮での崩御に伴い魯陽で践祚(喪中のまま即位)。
出典: 魏書 巻8 世宗紀
死因の経緯
延昌4年(515年)正月甲寅「帝不豫」、丁巳に式乾殿で崩御(享年33)。発病から崩御までわずか3日と急だが、原典は明確に「不豫」(発病)と記す。暗殺を示唆する記述はない。
出典: 魏書 巻8 世宗紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
太和二十三年四月の即位時は年号を改めず太和のまま年末まで継続し、翌年正月に「景明」へ改元しているため、在位中の改元は景明・正始・永平・延昌への計4回。即位に伴う独立した建元は行われていない。
大赦回数
『魏書』巻八世宗紀に「大赦」の語を伴う記事は計9件(即位時1件、改元に伴うもの4件、単独の大赦天下3件、皇子誕生に伴うもの2件—うち改元と重複しない単独分)。壬戌「曲赦泾、秦、岐、凉、河五州」および甲午「曲赦扬州」は地域限定の恩赦(曲赦)のため除外した。
立后回数
景明二年に于氏を皇后に立て(正始四年崩御、諡は順皇后)、その後永平元年に高氏を皇后に立てている。再冊立(廃后後の復位)は確認できない。
皇太子廃立回数
延昌元年十月乙亥、皇子詡(後の孝明帝)を皇太子に立てた記事はあるが、在位中に皇太子を廃した記述は本紀中に見当たらない。詡はそのまま世宗崩御後に即位(孝明帝)している。
親征回数
魏書巻八 世宗紀(太和23年〜延昌4年、499〜515年)を通読したが、「帝自将」「親征」「帝率衆」等、皇帝本人が戦場に赴いたことを示す記述は一切見当たらない。南朝梁との国境戦争(寿春・鍾離・朐山・義陽など)、氐・蛮・秦州民変等の反乱鎮圧はすべて彭城王勰・王肃・中山王元英・邢峦・李崇・杨大眼・奚康生ら将軍・宗室に委任されており、世宗自身の出征は確認できない。該当記事なしのため0件。
反乱鎮圧回数
世宗(宣武帝)の治世は北魏史上有数の内乱多発期であり、原典(魏書巻八世宗紀、および蛮伝・氐伝・封渊伝・楊椿伝ほか関連列伝)を精読の上17件を計上した。除外した事例:①499年「南徐州刺史沈陵南叛」は含めたが軍事的鎮圧行動が不明瞭で低確信度、②507年「淮陽太守安乐以城南叛」は続報・鎮圧記述が全く無いため除外、③507年「夏州長史曹明謀反、伏誅」・510年「殿中侍御史王敞謀反伏誅」(王敞伝には「逆人王敞事発」とあり密告摘発型で挙兵の記述なし)・510年「秦州沙門劉光秀謀反、州郡捕斬之」(他の沙門反乱と異なり「聚衆」の語がなく規模不明)はいずれも実際の武装蜂起を示す記述が確認できず、未然に発覚した謀反計画として除外した。梁州氐反・仇池氐叛(項目7)および郢州彭珍・三関侯登(項目11)は近接地域・近接時期の連動反乱のため各1件に合算したが、分割集計も可能でその場合は件数が増える(中確信度)。なお南朝梁との国境戦争(寿春・鍾離・朐山・義陽方面の攻防等)は対等な独立政権同士の戦争として本カウントから除外した。
被反乱回数
反乱鎮圧回数(rebellionSuppressionCount)と同一の17件を対称的に計上した。いずれも北魏の服属民・辺境官・宗室による離反・蜂起であり、南朝梁との対外戦争や東西魏間の抗争は含めていない。宿豫戍主景俊の反乱(項目13)は鎮圧が失敗に終わった事例として被反乱側にも計上(例外規定なし、単純に武装蜂起が発生した事実で計上)。世宗自身が権臣に武力で廃位・弑逆された記録はなく(崩御は式乾殿での病死)、例外4(権臣による兵力を伴うクーデター)に該当する事例は本治世には存在しない。除外事例・merge判断の詳細は反乱鎮圧回数側のnoteを参照。
遷都回数
魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢33歳は本紀に「時年三十三」と直接記載(延昌四年正月丁巳)。生年は「太和七年閏四月」との記載があるが西暦換算未実施のためbirthDateは保留。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(49件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧499年8月沈陵の乱
首謀者: 沈陵(南徐州刺史)
結果: partial
太和23年八月癸亥、南徐州刺史沈陵が反乱(南叛)。魏書封渊伝によれば渊(京兆王愉の長史)が事前に沿淮諸戍へ密かに備えさせていたため被害は限定され、陵本人は将佐を殺害し宿豫の兵を率いて南朝斉へ逃亡・投降したが、残党は捕縛後赦免された。首魁本人の捕縛には至らず鎮圧は不徹底。積極的な討伐軍派遣の記述はなく防御的対応が中心のため中〜低確信度。
被反乱499年8月沈陵の乱
首謀者: 沈陵(南徐州刺史)
結果: partial
南徐州刺史沈陵が将佐を殺害し宿豫の兵を率いて南朝斉へ離反。沿淮諸戍の事前備えにより被害は限定、残党は捕縛後赦免されたが首魁本人は逃亡に成功した。
反乱鎮圧499年11月王恵定の乱
首謀者: 王恵定(幽州民)
結果: suppressed
太和23年十一月、幽州民王恵定が挙兵し「明法皇帝」を自称。幽州刺史李肃がこれを捕らえて斬った。
被反乱499年11月王恵定の乱
首謀者: 王恵定(幽州民)
結果: suppressed
幽州民王恵定が挙兵し「明法皇帝」を自称したが刺史李肃に捕斬された。
反乱鎮圧500年9月〜500年10月柳世明の乱
首謀者: 柳世明(斉州民)
結果: suppressed
景明元年九月、斉州民柳世明が徒党を集めて反乱。斉・兗二州が討伐しこれを平定した。
被反乱500年9月〜500年10月柳世明の乱
首謀者: 柳世明(斉州民)
結果: suppressed
斉州民柳世明が徒党を集めて反乱したが斉・兗二州軍に平定された。
反乱鎮圧501年5月咸陽王元禧の乱
首謀者: 元禧(咸陽王・太保)
結果: suppressed
景明二年五月、世宗が親政を始めた直後、太保・咸陽王元禧が皇帝の外出中(車駕在外)に乗じて謀反を企てたが発覚し賜死。魏書于忠伝に「元禧之謀乱也、車駕在外、変起倉卒」とあり、宮中の武力防備が急遽なされたことから実際の武装蜂起を伴う政変未遂と判断。他の列伝にも「斬反人元禧首」「同元禧之逆、伏法」等の記述が複数あり、単なる密告摘発ではなく実際の挙兵企図として扱う。
被反乱501年5月咸陽王元禧の乱
首謀者: 元禧(咸陽王・太保)
結果: suppressed
太保・咸陽王元禧が皇帝外出中に謀反を企てたが発覚し賜死。宮中では緊急の防備が敷かれた(於烈・于忠が留守を固めた記録あり)。
反乱鎮圧502年3月〜502年4月魯陽蛮の反乱
首謀者: 魯北燕(魯陽蛮酋)
結果: suppressed
景明三年三月、魯陽の蛮族が反乱し頴川に迫った(魏書蛮伝によれば首魁は魯北燕)。四月、抚軍将軍李崇に討伐を命じ平定、河北諸州・六鎮へ強制移住させたが、その後再び南へ逃亡したため追討し河に至るまで殲滅した。
被反乱502年3月〜502年4月魯陽蛮の反乱
首謀者: 魯北燕(魯陽蛮酋)
結果: suppressed
魯陽の蛮族が頴川に迫る反乱を起こしたが李崇に討伐され、移住後の再蜂起も殲滅された。
反乱鎮圧503年1月〜505年7月東荊州蛮の反乱(樊素安・樊秀安)
首謀者: 樊素安・樊秀安兄弟(東荊州蛮酋)
結果: suppressed
景明四年、東荊州の蛮酋樊素安が反乱し帝号を僭称(魏書蛮伝「東荊州蛮樊素安反、僭帝号」)。同年十二月に鎮南将軍李崇へ討伐を命令。翌正始元年、弟の樊秀安が再び反乱するも李崇・楊大眼がこれを討伐、正始二年七月に李崇が蛮帥樊素安を大破し鎮圧完了。
被反乱503年1月〜505年7月東荊州蛮の反乱(樊素安・樊秀安)
首謀者: 樊素安・樊秀安兄弟(東荊州蛮酋)
結果: suppressed
東荊州の蛮酋樊素安が帝号を僭称して反乱、弟樊秀安も継いで反乱したが李崇・楊大眼に鎮圧された。
反乱鎮圧505年2月〜506年1月氐族の反乱(梁州・仇池)
首謀者: 楊会ほか氐族首長(梁州・仇池)
結果: suppressed
正始二年二月、梁州の氐族楊会らが反乱し漢中への輸送路を断った。刺史邢峦がこれを撃破。同年四月には仇池の氐族も反乱し光禄大夫楊椿が討伐。翌正始三年正月、邢峦が氐賊を連破し武興を克服して鎮圧完了。梁州・仇池は隣接地域で同時期・同民族の蜂起であり一連の反乱として合算した(中確信度、地域別に分割可能性あり)。
被反乱505年2月〜506年1月氐族の反乱(梁州・仇池)
首謀者: 楊会ほか氐族首長(梁州・仇池)
結果: suppressed
梁州・仇池の氐族が相次いで反乱し漢中への輸送路を断つなどしたが邢峦・楊椿に鎮圧された。
反乱鎮圧505年11月〜506年2月武興国楊集起の謀反
首謀者: 楊集起(武興国王楊紹先の叔父)
結果: suppressed
正始二年十一月、服属国である武興国王楊紹先の叔父楊集起が謀反。光禄大夫楊椿・驃騎大将軍源懐に討伐を命じたところ、翌正始三年正月〜二月に楊集起兄弟が相次いで投降し鎮圧完了。
被反乱505年11月〜506年2月武興国楊集起の謀反
首謀者: 楊集起(武興国王楊紹先の叔父)
結果: suppressed
服属国武興国の王族楊集起が謀反したが討伐軍派遣を受け投降した。
反乱鎮圧506年1月〜506年7月秦州民変(呂苟兒の乱、建明政権)
首謀者: 王智・呂苟兒(秦州民)
結果: suppressed
正始三年正月、秦州民王智ら二千人が挙兵し「王公」を自称、まもなく秦州主簿呂苟兒を主に推戴し年号「建明」を建てた。右衛将軍元丽に討伐を命じ、同年七月に元丽が秦賊を大破、呂苟兒及びその「王公」ら三十余人が投降し秦・泾二州平定。
被反乱506年1月〜506年7月秦州民変(呂苟兒の乱、建明政権)
首謀者: 王智・呂苟兒(秦州民)
結果: suppressed
秦州民が挙兵し独自年号「建明」を建てる政権を樹立したが元丽に大破され首謀者らが投降した。
反乱鎮圧508年8月〜508年9月元愉の乱(建平帝僭称事件)
首謀者: 元愉(京兆王・冀州刺史)
結果: suppressed
永平元年八月、京兆王元愉が冀州で挙兵し反乱。魏書元愉伝によれば、長史羊霊引・司馬李遵を殺害した上で信都に壇を築いて「即皇帝位」を宣言、年号「建平」を建て皇后まで立てた大規模な宗室簒奪事件。世宗は尚書李平を派遣して討伐させ、九月に草橋・信都北で大破、信都陥落後に元愉は北走するも捕らえられ京師へ送還される途中で死去(自ら悲嘆し絶命したとも、高肇が刺客を送り殺害させたともいう)。冀州平定。事件処理の過程で太師彭城王元勰も高肇の讒言により誅殺されたが、勰自身は反乱に加担していないため本件には含めない。
被反乱508年8月〜508年9月元愉の乱(建平帝僭称事件)
首謀者: 元愉(京兆王・冀州刺史)
結果: suppressed
宗室京兆王元愉が冀州で挙兵し長史・司馬を殺害の上、信都で皇帝を僭称し年号「建平」を建てるという世宗一代最大の内乱。李平の討伐により冀州は平定され元愉は送還途中で死去した。
反乱鎮圧508年10月郢州彭珍・三関侯登の反乱(義陽危機)
首謀者: 彭珍・督栄祖(郢州司馬)/侯登・陽鳳省(三関戍主)
結果: suppressed
永平元年十月、郢州司馬彭珍・治中督栄祖らが謀反し密かに梁の萧衍軍を義陽へ引き入れようとしたが、郢州刺史婁悦がこれを撃退。同時期、三関戍主の侯登・陽鳳省らも城を挙げて南朝へ寝返り、婁悦は義陽城に籠城して防衛、朝廷は中山王元英に歩騎三万を率いて救援させ、後に三関諸戍を奪還した。同一地域・同時期の連動事件だが首謀者が複数(彭珍/侯登)のため合算に迷いあり(中確信度)。
反乱鎮圧508年10月〜508年12月白早生の乱(悬瓠占拠)
首謀者: 白早生(豫州彭城人)
結果: suppressed
永平元年十月、豫州彭城の人白早生が刺史司馬悦を殺害し悬瓠城を占拠して南朝へ寝返り、梁の萧衍が斉苟仁ら四将を援軍として送った。尚書邢峦に討伐を命じ、鮑口で白早生・斉苟仁軍を撃破、十二月に悬瓠を陥落させ白早生を斬り斉苟仁らを捕らえて鎮圧完了。
反乱鎮圧508年10月〜509年1月宿豫戍主景俊の反乱
首謀者: 成安楽子景俊(前宿豫戍主の子)
結果: failed
永平元年十月、前宿豫戍主の子成安楽子景俊が現宿豫戍主厳仲賢を殺害し城を挙げて南朝へ寝返った。安東将軍楊椿に歩騎四万を率いて宿豫攻撃を命じたが、楊椿伝(魏書)に「永平初、徐州城人成景俊以宿豫叛、詔椿率衆四万討之、不克而返」とあり、討伐は失敗に終わった。鎮圧を試みたが失敗した事例として計上。
被反乱508年10月郢州彭珍・三関侯登の反乱(義陽危機)
首謀者: 彭珍・督栄祖(郢州司馬)/侯登・陽鳳省(三関戍主)
結果: suppressed
郢州の司馬彭珍・治中督栄祖が梁軍を引き入れようとし、三関戍主侯登らも城を挙げて離反したが、婁悦の防戦と中山王元英の援軍により鎮圧・奪還された。
被反乱508年10月〜508年12月白早生の乱(悬瓠占拠)
首謀者: 白早生(豫州彭城人)
結果: suppressed
白早生が刺史司馬悦を殺害し悬瓠城を占拠して南朝へ寝返ったが邢峦に討たれ斬首された。
被反乱508年10月〜509年1月宿豫戍主景俊の反乱
首謀者: 成安楽子景俊(前宿豫戍主の子)
結果: unresolved_or_failed_suppression
成安楽子景俊が宿豫戍主を殺害し城を挙げて離反。楊椿が四万の兵で討伐に向かったが「不克而返」(討伐失敗)に終わり、鎮圧には至らなかった。
反乱鎮圧509年1月泾州沙門劉慧汪の乱
首謀者: 劉慧汪(泾州沙門)
結果: suppressed
永平二年正月、泾州の僧劉慧汪が徒党を集めて反乱。華州刺史奚康生に討伐を命じたが、以降の顛末(勝敗)を記す続報が原典に見当たらないため結果は推定(他の同種の沙門反乱と同様に鎮圧された可能性が高いが確証は得られず、中確信度)。
被反乱509年1月泾州沙門劉慧汪の乱
首謀者: 劉慧汪(泾州沙門)
結果: suppressed
泾州の僧劉慧汪が徒党を集めて反乱し奚康生が討伐に赴いたが、以後の詳しい結末は原典に確認できず(推定鎮圧、中確信度)。
反乱鎮圧510年2月秦州隴西羌の反乱
首謀者: 秦州隴西羌
結果: suppressed
永平三年二月癸亥、秦州の隴西羌が鎮将趙俊を殺害し武装して反乱(阻兵反叛)。州軍がこれを討伐し平定した。
被反乱510年2月秦州隴西羌の反乱
首謀者: 秦州隴西羌
結果: suppressed
秦州隴西羌が鎮将趙俊を殺害し武装蜂起したが州軍に平定された。
反乱鎮圧511年1月汾州劉龍駒の乱
首謀者: 劉龍駒(汾州の山胡)
結果: suppressed
永平四年正月丁巳、汾州の劉龍駒が徒党を集めて反乱し夏州を騒がせた。諫議大夫薛和に討伐を命じ、汾・華・東秦・夏四州の兵を発してこれを平定した(薛和伝に「討龍駒、平之」と明記)。
被反乱511年1月汾州劉龍駒の乱
首謀者: 劉龍駒(汾州の山胡)
結果: suppressed
汾州の劉龍駒が徒党を集めて反乱し夏州を騒がせたが薛和らに平定された。
反乱鎮圧514年11月幽州沙門劉僧紹の乱(浄居国明法王)
首謀者: 劉僧紹(幽州沙門)
結果: suppressed
延昌三年十一月丁巳、幽州の僧劉僧紹が徒党を集めて反乱し「浄居国明法王」を自称。州郡がこれを捕らえて斬った。
被反乱514年11月幽州沙門劉僧紹の乱(浄居国明法王)
首謀者: 劉僧紹(幽州沙門)
結果: suppressed
幽州の僧劉僧紹が「浄居国明法王」を自称して反乱したが州郡に捕斬された。
改元景明元年正月乙巳「大赦,改年」。
「大赦,改年」。太和から景明に改元。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
改元正始元年正月丙寅「大赦,改年」。
「大赦,改年」。景明から正始に改元。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
改元永平元年八月丁卯「大赦,改年」。
「大赦,改年」。正始から永平に改元。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
改元延昌元年四月乙酉「大赦,改年」。
「大赦,改年」。永平から延昌に改元。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦太和二十三年四月丁巳「即皇帝位于鲁阳,大赦天下」。
「即皇帝位于鲁阳,大赦天下」。即位に伴う大赦。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦景明元年正月乙巳「大赦,改年」。
「大赦,改年」。太和から景明への改元に伴う大赦。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦景明二年二月甲戌「大赦天下」。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦景明二年七月辛酉「大赦天下」。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦正始元年正月丙寅「大赦,改年」。
「大赦,改年」。景明から正始への改元に伴う大赦。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦正始三年正月丁卯朔「皇子生,大赦天下」。
「皇子生,大赦天下」。皇子(昌)誕生に伴う大赦。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦永平元年八月丁卯「大赦,改年」。
「大赦,改年」。正始から永平への改元に伴う大赦。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦延昌元年四月乙酉「大赦,改年」。
「大赦,改年」。永平から延昌への改元に伴う大赦。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
大赦延昌三年三月丙戌「皇子生,大赦天下」。
「皇子生,大赦天下」。皇子(後の孝明帝詡)誕生に伴う大赦。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
立后景明二年九月己亥「立皇后于氏」。
「立皇后于氏」。皇后于氏の冊立(正始四年十月丁卯崩御、乙酉に順皇后として永泰陵に葬られる)。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀
立后永平元年七月甲午「以夫人高氏为皇后」。
「以夫人高氏为皇后」。夫人高氏を皇后に冊立。
出典: 魏書帝紀第八世宗紀