孝荘帝
北魏(南北朝)|在位 528–531年

- 諱(本名)
- 元子攸
- 廟号
- 敬宗
- 在位
- 528–531年
- 在位期間
- 2年256日365名中235位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 24歳(数え年)269名中・長寿順216位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 6回267名中67位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 15回225名中23位タイ
- 被反乱
- 17回289名中22位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:孝荘帝
即位の経緯
彭城王元勰の第三子。河陰の変直前、爾朱栄が接触し河陽で会見後、爾朱栄に擁立されて即位した。
出典: 魏書 巻十 孝莊紀
死因の経緯
永安3年(530年)9月、明光殿で爾朱栄・元天穆を誅殺したが、同年12月に爾朱兆が洛陽を急襲し帝を捕らえ晋陽の三級仏寺へ移送、翌月(太昌元年/531年1月)殺害した。『魏書』『北史』とも「帝遇弒於城內三級佛寺」と明記(「遇弒」=弑逆された)。
出典: 魏書 巻十 孝莊紀/北史 巻五 魏本紀
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中の改元は建義→永安の2回。長広王曄が対抗的に建てた「建明」年号は孝荘帝自身の改元ではなく簒奪者側の別政権のものであるため計上していない。
大赦回数
「大赦天下」と明記された6件を計上。原文のガンジ暦日付はsxtwl(寿星天文暦)による暦計算で在位開始日(0528-05-15=戊戌)・崩御日(0531-01-26=甲子)という既知の確定日と照合し、複数の月朔(例:八月庚戌朔、十月癸卯朔)とも整合することを確認した上でグレゴリオ暦日に変換した。長広王曄(爾朱兆・爾朱世隆に擁立された簒奪的な対抗帝)が発した「大赦所部」「大赦天下」(建明年号)は孝荘帝自身の行為ではなく別人物の即位・大赦であるため除外した。
立后回数
本紀中「皇后」の語は2箇所出現するが、いずれも永安二年二月甲午「尊皇考為文穆皇帝,廟號肅祖,皇妣為文穆皇后」および同年四月「遷肅祖文穆皇帝及文穆皇后神主於太廟」であり、孝荘帝自身の生母(李妃)への追尊であって、孝荘帝自身の皇后冊立ではない。孝荘帝在位中に皇后が正式冊立された記事は見当たらず、該当なしのため0件。
皇太子廃立回数
『魏書』卷十 孝莊紀全体を通読したが「太子」「皇太子」「皇太弟」「皇太孫」等の語は一切出現せず、皇太子(法定推定継承者)が立てられた記録自体がない。永安三年十二月、爾朱兆の攻撃により「殺皇子」とあるのは誕生間もない皇子が殺害された記事であり、立太子・廃太子とは無関係。該当なしのため0件。
親征回数
魏書巻十本紀に「帝自将」「親征」等の明記なし。528年7月辛亥の詔で「朕当亲御六戎,扫静燕代」と葛栄討伐への親征を宣言したが、実際の討伐(滏口の戦い等)は尔朱栄が騎7万を率いて実施しており、帝本人が戦場に赴いた記述はない。529年の元顥の乱の際も帝は「車駕北巡」「幸河内」として洛陽から避難しただけで、洛陽奪回戦(硖石の戦い等)は尔朱兆・賀抜勝ら諸将が行い、帝は華林園に戻っただけで戦闘参加の記述はない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
魏書巻十本紀に基づき、孝荘帝在位中(528年四月〜530年十二月/西暦531年年始)に鎮圧・平定された反乱を首謀者単位で15件計上した。多くは河陰の変後の混乱に乗じた地方官・流民の蜂起で、うち葛栄・元顥・尔朱氏の乱は特に大規模。崔元珍・蕭宝寅の2件は原文の記述がやや簡略で反乱の性質・経緯にやや不確実性が残るためconfidence medium。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountの15件全てに対応する被反乱を計上した上で、鎮圧記録が確認できなかった元愿達・李志の2件(郢州・南荊州の地方官による離反、例外2=未鎮圧のまま在位終了)を追加し合計17件とした。孝荘帝自身による尔朱栄暗殺(まだ反乱を起こしていない権臣への先制攻撃、例外3)は反乱不成立として計上していない。尔朱兆による孝荘帝弑殺は朝廷側が鎮圧を試みたが失敗した通常の反乱として扱い、鎮圧・被反乱の両方に計上した(タスク指示に基づく)。
遷都回数
魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢24歳は本紀に「時年二十四」と直接記載(永安三年十二月甲子)。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(40件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧528年5月斉州郡民賈皓の反乱
首謀者: 賈皓
結果: 州城を夜襲するも撃退され敗走。
小規模だが原文に「反」と明記されている。
被反乱528年5月斉州郡民賈皓の反乱
首謀者: 賈皓
結果: 撃退・敗走。
鎮圧回数と対応。
被反乱528年5月郢州刺史元愿達の南叛(梁への離反)
首謀者: 元愿達
結果: その後の再征討・鎮圧の記述が原文になく、在位終了まで未解決のまま推移したとみられる。
鎮圧回数には計上せず(未鎮圧のまま在位終了、例外2)。地方官が城を保持したまま梁に離反した事案で武力反乱に該当すると判断したが、確定的な戦闘記述がないためconfidence medium。
改元528年5月18日即位直後の詔で「可大赦天下,改武泰為建義元年」。
即位直後の詔で「可大赦天下,改武泰為建義元年」。武泰から建義への改元(即位に伴う建元)。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
大赦528年5月18日即位直後の詔で「可大赦天下,改武泰為建義元年」。
即位直後の詔で「可大赦天下,改武泰為建義元年」。建義への改元と同時に全国大赦を実施。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
反乱鎮圧528年6月斉州平原の高乾邕挙兵
首謀者: 高乾邕
結果: 流民を率いて挙兵し州軍を再三撃破したが、東道大使元欣の説得により投降。
武力衝突を経て帰順したため鎮圧成功とみなした。
反乱鎮圧528年6月〜529年4月邢杲の乱(河北流民10余万戸、青州北海で漢王・年号天統を僭称)
首謀者: 邢杲
結果: 529年四月、上党王元天穆・斉献武王(高歓)が済南で大破。邢杲は投降し京師で斬首された。
被反乱528年6月斉州平原の高乾邕挙兵
首謀者: 高乾邕
結果: 州軍を破るも説得により投降。
鎮圧回数と対応。
被反乱528年6月〜529年4月邢杲の乱
首謀者: 邢杲
結果: 大破・投降・斬首。
鎮圧回数と対応。
被反乱528年6月南荊州刺史李志の南叛(梁への離反)
首謀者: 李志
結果: その後の再征討・鎮圧の記述が原文になく、在位終了まで未解決のまま推移したとみられる。
鎮圧回数には計上せず(未鎮圧のまま在位終了、例外2)。confidence medium。
反乱鎮圧528年8月光州人劉挙の反乱(濮陽、皇武大将軍を自称)
首謀者: 劉挙
結果: 宗正珍孫・郑先護らが討伐し撃破・平定。
反乱鎮圧528年8月〜530年4月万俟醜奴の乱(高平鎮、大位を僭称し百官を設置)
首謀者: 万俟丑奴
結果: 530年四月、雍州刺史尔朱天光が安定で撃破・捕縛。京師で斬首。
配下の大行台尉遅菩薩による岐州侵攻(530年三月、賀抜岳・可朱渾道元が撃破)も同一反乱の一部として本件に含めた。
反乱鎮圧528年8月〜528年11月太山太守羊侃の反乱(兗州、梁将王辯を誘引)
首謀者: 羊侃
結果: 斉献武王・行台于暉・崔孝芬・刁宣らが瑕丘で大破。羊侃は梁に逃亡し兗州は平定された。
被反乱528年8月光州人劉挙の反乱
首謀者: 劉挙
結果: 撃破・平定。
鎮圧回数と対応。
被反乱528年8月〜530年4月万俟醜奴の乱
首謀者: 万俟丑奴
結果: 撃破・捕縛・斬首。
鎮圧回数と対応。
被反乱528年8月〜528年11月太山太守羊侃の反乱
首謀者: 羊侃
結果: 大破、羊侃は梁に逃亡、兗州平定。
鎮圧回数と対応。
改元528年10月19日「乙亥,以平葛榮,大赦天下,改為永安元年」。
「乙亥,以平葛榮,大赦天下,改為永安元年」。建義から永安への改元。以後、崩御(永安三年=530年末)までこの元号が続く。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
大赦528年10月19日「乙亥,以平葛榮,大赦天下,改為永安元年」。
「乙亥,以平葛榮,大赦天下,改為永安元年」。葛栄平定を機に永安へ改元、同時に大赦天下。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
反乱鎮圧528年12月〜529年9月葛栄残党韓楼の幽州反乱
首謀者: 韓楼
結果: 大都督侯淵が薊で撃破・斬首、幽州平定。
被反乱528年12月〜529年9月葛栄残党韓楼の幽州反乱
首謀者: 韓楼
結果: 撃破・斬首、幽州平定。
鎮圧回数と対応。
反乱鎮圧529年5月〜529年7月元顥の帝位僭称・洛陽占領(南朝梁の軍事支援を受けた元魏宗室による帝位簒奪)
首謀者: 元顥(北海王)
結果: 尔朱兆・賀抜勝が硖石で元顥の子冠受・安豊王延明軍を撃破。元顥は敗走後、臨潁県卒江豊に斬られ首級が京師に送られた。孝荘帝は洛陽を回復。
元顥は孝荘帝と同じ元魏宗室(北海王)で、梁の武力支援を受けて自ら皇帝位を僭称し洛陽を占拠した内乱。対等な独立政権(南朝)との統一戦争ではなく、同一王朝内部の帝位簒奪反乱として鎮圧・被反乱の両方に計上した。
被反乱529年5月〜529年7月元顥の帝位僭称・洛陽占領
首謀者: 元顥(北海王)
結果: 撃破・敗走後に斬首、洛陽回復。
鎮圧回数と対応。孝荘帝は元顥占拠中に洛陽を離れ河内に避難したが、これは personalCampaignCount には計上せず(帝自身の戦闘参加の記述なし)。
大赦529年8月10日永安二年秋七月庚午、「車駕入居華林園,升大夏門,大赦天下」。
永安二年秋七月庚午、「車駕入居華林園,升大夏門,大赦天下」。元顥(北海王顥の簒奪軍)を破った後の大赦。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
反乱鎮圧530年1月〜530年2月東徐州の反乱(刺史元太賓殺害)
首謀者: 呂文欣・王赦
結果: 樊子鹄らが討伐し東徐州を平定。
被反乱530年1月〜530年2月東徐州の反乱
首謀者: 呂文欣・王赦
結果: 平定。
鎮圧回数と対応。
反乱鎮圧530年6月〜530年7月白馬龍涸胡王慶雲の水洛城における大位僭称
首謀者: 慶雲
結果: 尔朱天光が水洛城を平定し慶雲を捕縛。城民1万7千人を生き埋めにした。
被反乱530年6月〜530年7月白馬龍涸胡王慶雲の大位僭称
首謀者: 慶雲
結果: 捕縛、水洛城民1.7万人生き埋め。
鎮圧回数と対応。
大赦530年6月10日永安三年夏四月甲戌、「以關中平,大赦天下」。
永安三年夏四月甲戌、「以關中平,大赦天下」。万俟醜奴・蕭寶寅を関中で討破したことによる大赦。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
反乱鎮圧530年9月〜531年1月尔朱栄暗殺への報復反乱(尔朱氏一族の挙兵、最終的に孝荘帝を弑殺)
首謀者: 尔朱世隆・尔朱兆・尔朱仲遠
結果: 朝廷は尔朱天光・楊津・賀抜勝・鄭先護ら諸将を派遣し鎮圧を試みたが(丹谷で崔伯凤戦没、滑台で賀抜勝敗走等)失敗。永安三年十二月、尔朱兆・尔朱度律が富平津から渡河し洛陽を急襲、帝を永寧仏寺で捕らえ、晋陽に移した後に絞殺した(時年24)。鎮圧を試みたが失敗し皇帝弑殺・王朝崩壊(実質的な政権喪失)に至った。
帝自身が先制して尔朱栄を暗殺した行為自体(例外3、まだ反乱を起こしていない権臣への先制攻撃)は鎮圧・被反乱いずれにも計上していない。これに対する尔朱氏側の報復挙兵は朝廷側が実際に武力での鎮圧を試みた(諸将派遣・複数回の交戦)ため、内部権力者による弑逆クーデター(例外4)としてではなく通常の反乱として鎮圧・被反乱の両方に計上した(タスク指示に基づく判断)。日付は永安三年(西暦530年)九月〜十二月だが、十二月は西暦換算で531年1月頃に相当するため、慣例に従い没年を531年としつつ月精度で記録した。
被反乱530年9月〜531年1月尔朱栄暗殺への報復反乱(孝荘帝弑殺)
首謀者: 尔朱世隆・尔朱兆・尔朱仲遠
結果: 朝廷の鎮圧の試みは失敗し、洛陽陥落、帝は捕らえられ晋陽で絞殺された(時年24)。
鎮圧回数と対応(鎮圧試行→失敗)。孝荘帝自身が尔朱栄を先制暗殺した行為(例外3)は本件には含めていない。
大赦530年11月1日永安三年九月戊戌、帝が爾朱榮・元天穆を明光殿で誅殺した際の詔に「元惡既除,人神慶泰,便可大赦天下」とあり大赦を実施。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
大赦530年11月11日永安三年冬十月戊申、「皇子生,大赦天下,文武百僚泛二級」。
永安三年冬十月戊申、「皇子生,大赦天下,文武百僚泛二級」。皇子誕生を機に大赦。
出典: 魏書卷十 帝紀第十 孝莊紀
反乱鎮圧日付不詳葛栄の乱(冀州方面、孝明帝末期からの継続反乱の鎮圧完了分)
首謀者: 葛栄
結果: 528年九月、柱国大将軍尔朱栄が滏口で葛栄を撃破・捕縛。十月、京師で斬首。冀・定・滄・瀛・殷五州平定。
反乱自体は孝明帝末期(525年頃)開始の六鎮関連反乱の系譜だが、孝荘帝在位中に鎮圧が完了したためこの在位期間の鎮圧回数に計上した。
反乱鎮圧日付不詳唐州反乱(刺史崔元珍・行台郦恽)
首謀者: 崔元珍
結果: 晋州刺史樊子鹄が唐州を攻略し崔元珍・郦恽を斬首、首級を京師に送った。
原文に明確な「反」の語はなく征討・斬首の記述のみのため、新政権(孝荘帝擁立)に不服従の地方反乱と推定した。confidence medium相当の要素。
反乱鎮圧日付不詳蕭宝寅(雍州刺史)の関中における帝位僭称
首謀者: 蕭宝寅
結果: 万俟醜奴と共に安定で尔朱天光に捕縛され、京師の駝牛署で賜死。
本紀には挙兵の経緯・時期の記載がなく詳細不詳(河陰の変後の528年頃に関中で挙兵したとされるが原文では確認できず)。万俟醜奴とは別の首謀者・挙兵地と判断し別件計上したが、同一戦役で捕縛されており実態は連携していた可能性がある。confidence medium。
反乱鎮圧日付不詳巴州刺史厳始欣の反乱(梁の援軍を誘引)
首謀者: 厳始欣
結果: 元景夏らが討伐し斬首。梁の将蕭玩・何難尉・陳愁も撃破され蕭玩は斬首、1万余人が捕虜となった。
被反乱日付不詳葛栄の乱(冀州方面)
首謀者: 葛栄
結果: 528年九月、尔朱栄が滏口で撃破・捕縛。十月、京師で斬首。
鎮圧回数と対応。
被反乱日付不詳唐州反乱
首謀者: 崔元珍
結果: 斬首・平定。
鎮圧回数と対応。confidence medium。
被反乱日付不詳蕭宝寅の関中における帝位僭称
首謀者: 蕭宝寅
結果: 捕縛・賜死。
鎮圧回数と対応。confidence medium。
被反乱日付不詳巴州刺史厳始欣の反乱
首謀者: 厳始欣
結果: 斬首、梁援軍も撃破。
鎮圧回数と対応。