北魏(南北朝)分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
東海王元曄
在位 530–531年(117日)530年12月5日 〜 531年4月1日
日本は古墳時代
北魏の皇族元曄は、530年に爾朱氏に皇帝に推されたが、531年に位を譲らされ、532年に死んだ。
東海王元曄の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 530年12月5日〜531年4月1日
- 没年
- 532年12月26日年齢不詳
- 死因
- 自害自ら命を絶った死。廃位や敗戦に追い詰められての死や、朝廷から死を賜った死を含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因15人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
- 先代
- 孝荘帝北魏東海王元曄は孝荘帝の同族(遠縁)
- 次代
- 節閔帝北魏節閔帝は東海王元曄の同族(遠縁)
- 呼び名
- 姓元諱曄字華興幼名盆子呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 巻十 孝荘紀/巻十一 前廢帝紀
- 死因
- 魏書 巻十九下 列伝第七下 景穆十二王(元曄)/魏書 巻十一 出帝紀/北史 巻十八 列伝第六 景穆十二王下/北史 巻五/資治通鑑 巻155
- 即位経路
- 魏書 巻十一 前廢帝紀
生涯
どんな皇帝か
魏書の列伝は、軽躁で力が強かったと記し、その即位を僭立資格がないのに勝手に位につくことと書く。
即位まで
南安王元楨の子の元怡の子で、母は衛氏といった。父は爾朱栄の妻の兄だったため、扶風王を追贈亡くなった人に、あとから官位などを贈ることされた。長広王に封ぜられ、太原太守郡を治める長官を務めていた。530年に孝荘帝が爾朱栄を殺すと、爾朱世隆と爾朱兆が元曄を推し、元曄は大赦して建明と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。元曄の幼名が盆子だったので、聞いた者は皆、前漢末から後漢初めの反乱集団の赤眉が少年の劉盆子を皇帝に立てた故事昔からのしきたりや、昔あった出来事に似ていると思った。
史料について
推戴の場所を、魏書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は建興の高都、同書の爾朱世隆伝と資治通鑑は長子とする。盆子の評は北史の爾朱世隆伝にあり、魏書や資治通鑑には見えない。
治世と最期
即位後、爾朱世隆を尚書令国の政務を執り行う役所の長官・楽平郡王とし、兄の元粛を侍中皇帝のそばに仕える高官。唐では政治の最高職の一つ・太師君主の師とされる、最高位の位の一つとした。爾朱兆も大将軍将軍の中でも特に高い位・王とされるなど、爾朱氏の一族が要職に就いた。530年の暮れ、爾朱兆と爾朱度律が洛陽を襲って孝荘帝を捕らえた。世隆は兄弟と謀り、元曄の母が朝政に関わるのを案じて、盗賊を装った騎兵に都の巷で殺させた。誰の仕業か分からないうちに懸賞の榜が出たが、民は真相を知って皆気落ちした。
世隆らは、元曄が皇室の遠縁で人望もないとして、広陵王元恭を立てようと謀った。遣わされた竇瑗が天と人の望みは広陵王にあると奏すると、元曄は位を譲った。退位後は東海王に封ぜられたが、532年、事に坐して私邸で死を賜った。
史料について
魏書と資治通鑑は推戴を孝荘帝の捕縛より前に置き、北斉書の神武紀は、孝荘帝を殺してから元曄を立てた順に書く。母の殺害は北史と資治通鑑にあり、魏書には見えない。廃した者を、魏書は世隆ら、北斉書の神武紀は爾朱度律、南史は爾朱兆とする。死を、北史は殺されたと書き、資治通鑑の胡三省の注は、かつて擁立されたため疑われて殺されたとみる。
東海王元曄とつながる皇帝
在位中の出来事
改元1・大赦1
- 改元530年12月5日元号を「建明」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。531年1月10日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 530年12月7日)
北魏の歴代皇帝
歴代12人の一覧年表
南北朝の時代を年表で見る
北魏が