東海王元曄
北魏(南北朝)|在位 530–532年
- 諱(本名)
- 元曄
- 在位
- 530–532年
- 在位期間
- 2年22日365名中259位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
孝荘帝が爾朱兆に殺害された後(530年10月)、爾朱世隆らが景穆帝の玄孫にあたる長広王元曄(扶風王元怡の子)を擁立した。
出典: 魏書 巻十一 前廢帝紀
死因の経緯
太昌元年(532年)11月甲辰、後廃帝元朗と同日に門下外省で殺害された。『北史』『資治通鑑』は「殺」、『魏書』は婉曲的に「坐事死」と記す。処刑ではなく暗殺と判定する理由:(1)死亡場所は公開処刑場ではなく宮中内部の門下外省、(2)『魏書』の「坐事死」は密かな処断を示す婉曲表現で公的な断罪・処刑を示す語(斬・誅・伏誅等)ではない、(3)この時点(532年)で東魏はまだ成立しておらず(成立は534年)、実行者(高歓、または学説によれば孝武帝自身)は「政権交代後の勝者」ではなく北魏という同一政権内部の権力者にすぎない。実行者について高歓説と孝武帝自身説の学術的対立がある(胡勝源2022年論文)ため確度はmediumとする。
出典: 魏書 巻十一 出帝紀/北史 巻五/資治通鑑 巻155
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
「建明」は元曄一代のみの年号であり、建明二年(次年)への切り替わりは通常の年次更新であって改元ではない。建明二年二月己巳、節閔帝(元恭)への禅譲により元曄は皇帝の座を退いたため、それ以降の改元(建明二年を普泰元年に改元)は後継者である元恭に帰属する事象として扱った。
大赦回数
即位当日(永安三年十月壬申)に発された「大赦所部」(原文:「共推太原太守、行并州刺史长广王晔为主,大赦所部,号年建明」)は文言上「天下」ではなく「所部」(尔朱兆等が拠る地域限定)であるため、全国規模の恩赦とは認めず対象外とした。北史巻五の対応箇所は「戊申,尔硃度律自镇京师」とのみ記し「大赦天下」の語を欠くが、より詳細な魏書の記述を第一情報源として採用した。
立后回数
在位期間中、立后に関する記述は魏書(巻十末尾・巻十一)・北史巻五のいずれにも確認できなかった。在位が数ヶ月と極めて短い傀儡皇帝であり、皇后冊立の記録も存在しない。
皇太子廃立回数
在位期間(建明元年十月~建明二年二月頃、尔朱氏擁立の傀儡皇帝としての短期在位)を通じ、皇太子・皇太弟等の法定推定継承者を立てた記録・廃した記録はいずれの原典にも確認できなかった。
親征回数
魏書巻十一(前廃帝・後廃帝・出帝合巻)、北史巻五、資治通鑑巻154-155のいずれにも、元曄(長広王曄、東海王曄)自身が軍を率いて出陣したとする記述(「帝自将」「親征」等)は見当たらない。彼は尔朱世隆・尔朱兆が長子/高都で擁立した傀儡皇帝であり、実際の軍事行動(対孝荘帝戦・対万俟丑奴戦等)は全て尔朱兆・尔朱天光・尔朱仲远ら将軍が指揮しており、元曄本人が戦場に赴いた記録はない。該当記事なしと判断。
反乱鎮圧回数
在位期間(530年10月壬申の擁立~531年2月己巳の節閔帝への交代)中、元曄政権が主体となって反乱を鎮圧したとする記述は原典に見当たらない。この間の主要な軍事的言及(尔朱仲远の挙兵・南下)は孝荘帝(在位中の正統皇帝)に対する尔朱氏側の攻勢であり、元曄政権への反乱ではなく元曄擁立勢力自身の軍事行動の一部。万俟丑奴・宿勤明達・庆云らの討伐は元曄の在位開始(530年10月)より前(永安三年4月~7月)に完了しており対象期間外。該当記事なしと判断。
被反乱回数
元曄の在位期間中、彼の政権に対する武装蜂起・反乱の記述は見当たらない。531年2月の節閔帝(広陵王恭)への交代は、魏書「行禅让之礼」・北史「奉帝东郭外、行禅让礼」との記述通り、尔朱世隆一派が「元晔疏远、又非人望所推」として政治的に決定し、儀礼的な禅譲の形式を取っており、武力を伴うクーデター・弑逆の記録はない(本人はこの時点では殺害されず、東海王に降格されただけ)。実際に武力行使を伴わない廃立のため、被反乱としては算入しないと判断したが、この「平和的交代」という原典描写自体が尔朱氏側の一方的記述であり実態(黙示的な武力の威圧下での強制退位)を完全には反映していない可能性があるため確信度はmediumとした。なお元曄自身が殺害されたのは永熙二年(533年)11月甲辰で、出帝(孝武帝)在位下・自身の退位後2年以上経ってからであり、本人の在位期間外の出来事のため対象外。
遷都回数
魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。
即位時年齢・没年齢
調査したが原典(魏書・北史)に元曄本人の生年月日・享年(即位時年齢・没年齢)の直接記載は見当たらなかった。元曄は正統な皇帝と認められず魏書に独立した本紀を持たず、記事は孝荘帝紀末尾および前廃帝・後廃帝・出帝合巻(巻十一)に断片的に混在する。同巻内で「太昌元年11月甲辰、安定王朗及東海王曄坐事死」と元朗と同日に死去した記録はあるが年齢の記載はない。なお同じ巻に元朗(安定王、後廃帝)の死について「時年二十」との記載があるが、これは元朗自身の没年齢であり元曄のものではない(誤って混同しないよう要注意)。死亡日はreignsのendDate(0532-12-26、太昌元年11月甲辰に対応)を採用。北史巻五・魏書列伝六十三/七十六(尔朱世隆伝等の周辺記事)も確認したが同様に年齢記載なし。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元日付不詳永安三年十月壬申(十月晦日)、尔朱世隆・尔朱兆に擁立された長広王元曄が即位に伴い年号を「建明」と定めた(建元)。
永安三年十月壬申(十月晦日)、尔朱世隆・尔朱兆に擁立された長広王元曄が即位に伴い年号を「建明」と定めた(建元)。原文:「壬申,尔朱世隆停建兴之高都,尔朱兆自晋阳来会之,共推太原太守、行并州刺史长广王晔为主,大赦所部,号年建明,普泛四级。」
出典: 魏書 巻十 孝荘帝紀(末尾)
大赦日付不詳永安三年十二月戊申、元曄が「大赦天下」を発した。
永安三年十二月戊申、元曄が「大赦天下」を発した。原文:「戊申,元晔大赦天下。尔朱度律自镇京师。」(この時点で孝荘帝は尔朱兆により晋陽へ連行される直前で存命であり、元曄が名目上の皇帝としてこの大赦を発した)。
出典: 魏書 巻十 孝荘帝紀(末尾)