中国皇帝統計

幼主元釗

北魏(南北朝)|在位 528年

諱(本名)
元釗
在位
528年
在位期間
45日365名中352位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
3歳(数え年)172名中・若い順5位タイ
没年齢
3歳(数え年)269名中・長寿順267位タイ
改元
0
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

粛宗孝明帝が528年2月に急逝した後、皇太后(胡太后)の詔により皇曾孫にあたる臨洮王元寶暉の世子(当時3歳)が擁立された。

出典: 魏書 巻九 肅宗紀

死因の経緯

即位後まもなく爾朱栄が挙兵し洛陽に迫った河陰の変(528年4月)で、胡太后とともに騎兵に捕らえられ河陰に送られ、太后の弁明に激怒した爾朱栄により両名とも黄河に沈められ殺害された。『資治通鑑』「榮遣騎執太后及幼主、送至河陰…榮拂衣而起、沈太后及幼主於河」、『魏書』爾朱榮傳「靈太后、少主其日暴崩」。

出典: 資治通鑑 巻152/魏書 列傳第六十二 爾朱榮傳

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

元釗の在位期間中(武泰元年2月27日〜4月13日)は「武泰」年号が継続使用されており改元記事なし。「武泰」建元自体は先帝孝明帝(粛宗)存命中の同年正月丙寅に行われたもので孝明帝の在位に帰属する。元釗死後、爾朱栄が擁立した孝荘帝により「建義」に改元されたが、これは後継者(孝荘帝)自身が発した改元であり元釗の在位には含めない。

大赦回数

元釗(幼主)本人の在位期間(武泰元年2月27日〈乙卯〉即位~同年4月13日〈庚子〉崩御)中に大赦天下の記事なし。なお前日の2月26日(甲寅)に「皇子即位、大赦天下」の記事があるが、これは胡太后が男子と偽称して擁立した別人(皇女某、本データセットでは除外人物)の即位に伴う大赦であり、元釗自身が経験・発令したものではないため元釗の在位にはカウントしない。元誦傳に「霊太后之立幼主也、於時大赦」とある記述は上記2月26日の大赦を指すとみられ、同一事象と判断した。

立后回数

幼児のため皇后冊立の記事なし。

皇太子廃立回数

在位45日間で本人が生後数ヶ月~3歳程度の嬰児であり、皇太子を立てた記事も廃した記事もない。

親征回数

元釗は擁立時数え3歳の幼児(『魏書』巻九末尾、灵太后詔「皇曾孫故臨洮王寶暉世子釗」等の記述から幼少と判明)で、親征を示す記述は皆無。武泰元年二月乙卯即位〜四月庚子(河陰の変で死亡)の在位約45日間、魏書巻九・巻十いずれにも元釗自身が軍を率いた記録なし。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

在位期間(528年二月乙卯〜四月庚子、約45日間)中、朝廷側が反乱を鎮圧した記録は『魏書』巻九・巻十のいずれにも見当たらない。同期間中に継続していた葛栄の乱はむしろ拡大(三月癸未、葛栄が滄州を陥落させ刺史薛慶之を殺害)しており鎮圧には至らず、また爾朱栄の南下は反乱鎮圧ではなくクーデター(河陰の変)に帰結したため、鎮圧回数には計上しない。該当記事なし。

被反乱回数

2件のうち②爾朱栄による河陰の変(例外4・弑逆クーデター)はconfidence high。①葛栄の乱継続分は、元釗個人への反乱というより前帝から継続する全国的動乱の一部であり、ルール2に基づく計上でconfidence medium(解釈の余地あり)。両者を合算した全体confidenceはmediumとした。

遷都回数

魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。

即位時年齢・没年齢

即位時年齢は原典直接記載:『資治通鑑』巻152「乙卯,钊即位。钊始生三岁,太后欲久专政,故贪其幼而立之」(数え年、武泰元年二月乙卯=528-04-02即位時点で3歳)。『魏書』巻九肅宗紀・『北史』巻四のいずれも胡太后詔中に「皇曾孫故臨洮王寶暉世子釗」とあるのみで具体的年齢の記載はなく、年齢の直接記載は資治通鑑のみで確認。没年齢は、崩御(建義元年四月庚子=528-05-17)が即位と同年内(間に旧暦新年を挟まない)であるため数え年は加齢せず、即位時と同じ3歳と判断(既存レコードのpersonalCampaignCount.noteにも同旨の「擁立時数え3歳」記載あり、整合済み)。生年月日は原典に直接記載なく、逆算すれば526年頃となるが本データセットの既存方針(三国ブロック等)に倣い、独立した生年記載がない場合はbirthDateへの逆算転記は行わずnullのままとした。

在位中の出来事(2件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱528年4月葛栄の乱(継続・滄州陥落)

首謀者: 葛栄

結果: 在位期間中も鎮圧されず継続・拡大。三月癸未、葛栄が滄州を攻陥し刺史薛慶之を捕らえ、住民の八九割が死亡する惨状となった。元釗の崩御(河陰の変)時点でも未鎮圧のまま。

葛栄の乱(前身は525年頃の破六韓抜陵蜂起〜鮮于脩礼〜葛栄)は元釗の即位(528年二月乙卯)以前、前帝孝明帝の治世から続く反乱であり元釗個人を標的としたものではないが、彼の在位期間中も継続し鎮圧行動が着手・完了しなかったため、ルール2「未鎮圧のまま在位終了」に基づき被反乱に計上した(鎮圧回数には計上せず)。日付は『魏書』巻九「三月癸未」の干支表記のみで、グレゴリオ暦への精密換算はできなかったため月精度とし、二月乙卯即位(528-04-02)〜四月庚子崩御(528-05-17)の間と推定した。この扱いは判断の余地があるためconfidence medium相当(本項目単独としては)。

被反乱528年5月16日〜528年5月17日河陰の変(爾朱栄による胡太后・幼主の弑殺)

首謀者: 爾朱栄

結果: 爾朱栄が黄河を渡り洛陽方面に進軍、528年五月十七日(武泰元年四月庚子)、胡太后および幼主元釗を捕らえて黄河に投げ込み殺害。あわせて百官二千余人も陶渚(河陰)で殺害された(『魏書』巻十孝荘紀「荣以兵权在己,遂有异志,乃害灵太后及幼主…公卿已下二千余人」)。元釗はこの事件で崩御し、爾朱栄擁立の孝荘帝(元子攸)が即位した。

権臣・爾朱栄が兵力(済河した軍勢)を背景に皇帝(幼主元釗)と摂政(胡太后)を弑殺したクーデターであり、例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当。鎮圧の主体が皇帝側でないため鎮圧回数には計上せず、被反乱にのみ計上。confidence high。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。