中国皇帝統計

元法僧

北魏(南北朝)|在位 525年

諱(本名)
元法僧
在位
525年
在位期間
1年365名中298位タイ
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
83歳(数え年)269名中・長寿順3位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

道武帝の玄孫。徐州刺史・彭城鎮将として孝昌元年(525年)行台高諒を殺害して彭城で反乱を起こし、自ら皇帝を称し年号を「天啓」と定めた。既存政権への反乱による自立であり建国に分類。

出典: 魏書 巻十六 道武七王(江陽王附傳)

死因の経緯

魏の討伐軍を畏れ南朝梁に降伏(子らと部下・城内の士庶を率いて南奔)。梁で侍中・司空等を歴任し厚遇され、大同2年(536年)、侍中・太尉に任じられた年に「薨」じた(享年83)。北魏離脱後の死のため魏書に記載がなく梁書を根拠とした。老齢での死去で不審死の記録はない。

出典: 梁書 巻三十九 元法僧傳

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

彭城で自立称帝した際に元号「天啓(天啟)」を建てた1回のみ。在位期間が半月程度と極めて短く、以後の改元記録はない。

大赦回数

『魏書』帝紀第九 肅宗紀(孝昌元年正月庚申条)および『梁書』巻三十九 元法僧傳の該当箇所を確認したが、元法僧が彭城で自立称帝していた極めて短い在位期間(孝昌元年正月庚申の自立から梁への降伏まで、約半月程度)中に「大赦」「大赦天下」等の全国規模の恩赦を行った記載は見当たらない。原文は「殺行台高諒,自稱宋王,號年天啟,遣其子景仲歸於萧衍」等、称帝・改元・諸子封王・降伏の経過を簡潔に記すのみで、大赦の実施を示す記述はない。

立后回数

『魏書』『梁書』いずれの元法僧傳にも、彭城での自立称帝期間中に皇后を冊立したという記載は見当たらない。在位期間が極めて短く(半月程度)、皇后不在のまま梁へ投降したとみられる。

皇太子廃立回数

『魏書』『梁書』いずれの元法僧傳にも「立諸子為王(諸子を王に立てた)」との記載はあるが、これは複数の諸子を各々「王」に封じたものであり、法定の皇太子(または皇太弟・皇太孫等)を新たに立てた記録自体がない。したがって皇太子を廃した記録も存在しない。

親征回数

挙兵・僭称・防戦・投降までの一連の行動を「自らの地位主張のための軍事行動」として1回とみなした。史料間で「宋王」僭称か「称帝」かの表現に差異があるためconfidence medium。

反乱鎮圧回数

元法僧が徐州で自立していた525年正月の短期間に、彼自身が誰か(部下・属民)の反乱を鎮圧したという記述は魏書・梁書のいずれにも見当たらない。該当記事なし。

被反乱回数

元法僧は討伐による敗死ではなく自主的な梁への投降・亡命によって難を逃れており、魏の討伐軍と直接交戦して敗れた記録はない。この点で通常の「被反乱→鎮圧される」パターンとは異なるためconfidence mediumとした。なお史料上、彼の死(大同二年=536年、享年83)は投降後に梁で寿命を全うしたものであり、北魏在位(僭称)期間中の出来事ではない。

遷都回数

魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。

即位時年齢・没年齢

没年齢83歳は梁書に「薨、時年八十三」と直接記載(大同二年、536年)。ただしこれは北魏で自立称帝した期間(525年)よりずっと後、梁に投降して臣下となった晩年の死去であり、在位期間中の出来事ではない点に留意(confidence: medium)。生年・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征525年1月北魏・徐州(彭城)における自立(宋王僭称・年号「天启」建元、後に梁書列伝は「称帝」と記す)

対象: 北魏・徐州(彭城)における自立(宋王僭称・年号「天启」建元、後に梁書列伝は「称帝」と記す)

結果: 行台高谅を殺害して挙兵、彭城を占拠して自ら宋王を称し独自の年号「天启」を建てた。魏の安乐王元鑒率いる討伐軍を撃破(鑒は当初彭城南で梁の元略軍を破ったが油断して法僧に敗れた)。その後、魏がさらに大軍(临淮王元彧・尚书李宪・安丰王延明ら)を動員すると、法僧は僚属・守令・兵戍・民衆万余口を率いて南朝梁へ投降・亡命した。

魏書 巻九 粛宗紀 孝昌元年正月庚申条:「徐州刺史元法僧据城反、害行台高谅、自称宋王、号年天启、遣其子景仲归于萧衍」。梁書 巻三十九 元法僧伝は「普通五年、魏室大乱、法僧遂据镇称帝、诛锄异己、立诸子为王、部署将帅、欲议匡复」と記し、魏書の「宋王」僭称よりも踏み込んで「称帝」と表現している(史料間で僭称の格付けに差異あり、confidence medium)。自らの帝位・王位主張のための軍事行動として1回とカウント。年次も魏書「孝昌元年(525)正月庚申」と梁書列伝「普通五年(524)」とで1年のずれがあるが、梁書本紀(巻三)は「六年(普通六年=525)春正月...庚申,魏鎮東将軍・徐州刺史元法僧以彭城内附」とあり魏書と同日(庚申)を記録するため、525年正月を挙兵・僭称の起点として採用した。

被反乱525年1月北魏による元法僧討伐(徐州奪還戦)

首謀者: 临淮王元彧・尚書李宪(東道都督)、安丰王延明(東道行台)、李崇(東道大都督、疾により実際には出征せず)

結果: 元法僧は当初、魏の安乐王元鑒の討伐軍を撃破したが、魏がさらに临淮王元彧・尚書李宪・安丰王延明ら大軍を徐州討伐に動員すると、法僧は僚属・守令・兵戍・民衆万余口を率いて自ら南朝梁へ投降・亡命し、討伐軍と直接雌雄を決する前に彭城を離脱した(後に彭城は梁の豫章王萧综が守ったが、萧综も六月に魏へ再降し彭城は魏に復した。ただしこれは法僧本人が既に去った後の出来事)。

魏書 巻九 粛宗紀により、元法僧の挙兵に対して魏が临淮王元彧・尚書李宪を都督、安丰王延明を東道行台、李崇を東道大都督とする討伐軍を組織したことが確認できる(李崇は疾病のため実際には出征せず)。ただし法僧本人は捕縛・敗死には至らず、自主的に梁へ投降・亡命することで難を逃れており、討伐軍との直接交戦・撃破の記述は本人に対しては確認できない(安乐王鑒との緒戦は法僧側の勝利)。討伐は法僧の逃亡帰順により事実上不完遂に終わったとみられるため、被反乱として計上するか判断が分かれる事例。ワークフロー指示に基づきconfidence mediumとして1件計上し、投降による離脱という結末をnoteに明記した。

改元525年2月8日『魏書』帝紀第九 肅宗紀(孝昌元年春正月庚申条):「徐州刺史元法僧據城反,害行臺高諒,自稱宋王,號年天啟」。

『魏書』帝紀第九 肅宗紀(孝昌元年春正月庚申条):「徐州刺史元法僧據城反,害行臺高諒,自稱宋王,號年天啟」。彭城で行台高諒を殺害して自立し、皇帝(王)を称すると同時に新元号「天啓(天啟)」を建てた(即位に伴う最初の建元)。同記事は『梁書』巻三十九 元法僧傳「普通五年,魏室大亂,法僧遂據鎮稱帝」の対応記事であり、既存記録(emperors.json内のverification.notes)でも『資治通鑑』巻150(孝昌元年正月庚申)「法僧殺行臺高諒,稱帝,改元天啟,立諸子為王」として確認済み。在位期間中に他の改元は確認されない。

出典: 魏書 帝紀第九 肅宗紀(孝昌元年)

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