北魏(南北朝)分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
元法僧
在位 525年(30日)525年2月22日 〜 525年
日本は古墳時代
元法僧は北魏の皇族で、525年に徐州で自立したのち梁へ降り、梁で高位を得て没した。
元法僧の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 525年2月22日〜525年
- 没年
- 537年83歳(数え年)長生き順同率3位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓元諱法僧呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 巻九 肅宗紀/巻十六 道武七王(法僧傳)
- 死因
- 梁書 巻三十九 元法僧傳
- 即位経路
- 魏書 巻十六 道武七王(江陽王附傳)
生涯
どんな皇帝か
梁書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、元法僧らが梁に入ってみな恩遇を受け、位も任も重かったと言う。
即位まで
北魏の道武帝の子孫にあたる皇族である。益州刺史州という地方の区画を治めた長官のときは治才が無く貪虐で、人士を卒伍に落としたため全境が反し、梁の張斉が攻め寄せた。追いつめられると、必ず死ぬだろうと上表して泣いて使者を送り、傅竪眼の援軍で州は保たれた。のちに、身内の元叉の推挙で徐州刺史となった。元叉に付いていたが、禍が身に及ぶのを恐れて反を謀り、誘いを拒んだ魏の使者張文伯を殺した。
史料について
系統を、魏書は道武帝の子の陽平王熙の系統に置き、梁書は父を江陽王鍾葵とする。
治世と最期
525年、行台地方に置かれた朝廷の出先の役所、その長官の高諒を殺して彭城に拠り、帝を称して天啓と年号を立てた。兵を挙げて戦った元顕和を捕らえて同座を促し、拒まれると殺した。州の奪回をひそかに図った韋元恢も、事が漏れて殺された。まもなく子の景仲を梁へ送り、梁の附庸大国に従って守られる小さな国や勢力となることを請うた。討伐に来た安楽王元鑒を破ったが、魏軍が迫ると梁への入朝を請い、万余口を擁して南へ入った。武官三千余人の額に印を押して奴とし、無理に連れて渡った。
梁では邸や女楽を賜って優遇され、魏での殺戮が多かったため護衛を求めた。532年に太尉朝廷で最も位の高い大臣の一つとなった。北伐に際して法僧が同行を願った羊侃は、法僧と行けば同類が連れ立つことになると渋ったが、武帝に押し切られて従った。同じ年、東魏の主に立てられたが行かなかった。537年に没した。
史料について
称号を、魏書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は宋王とし、魏書の列伝は尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号、梁書の列伝と資治通鑑は帝とする。梁書の列伝はこれを524年の記事として書く。薨去皇族や位の高い人が亡くなることを、梁書の列伝は536年に太尉に召されたことに続けて記し、南史の武帝紀は537年の条に置く。確かめた記事には死因の記述が無い。
元法僧とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・親征1・改元1
- 反乱525年2月〜525年3月北魏による元法僧討伐(徐州奪還戦)
- 改元525年2月22日元号を「天啓」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。525年2月22日〜525年4月北魏・
徐州(彭城)における自立(宋王僭称・ 年号「天啓」建元、後に梁書列伝は「称帝」と記す)
北魏の歴代皇帝
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