中国皇帝統計

元愉・京兆王

北魏(南北朝)|在位 508年

諱(本名)
元愉
在位
508年
在位期間
30日365名中356位タイ
即位経路
建国
死因
自尽
即位時年齢
不詳
没年齢
21歳(数え年)269名中・長寿順230位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

冀州刺史であった元愉は延昌元年(508年)、清河王の密書を得たと称し(高肇が皇帝暗殺を謀っているとの虚偽)、長史・司馬を殺害。信都南方に壇を築いて自ら皇帝位に即き、年号を「建平」と定めた。既存政権への反乱による自立であり建国に分類。

出典: 魏書 列傳第十 孝文五王(京兆王愉)

死因の経緯

宣武帝の討伐軍(尚書李平)に敗れ籠城の末、愛妾李氏と子らを連れ脱出するも捕らえられた。京師への護送中、野王に至り「雖主上慈深、不忍殺我、吾亦何面目見於至尊」と述べ、涙を流して息絶えた(享年21)。外部からの処断ではなく自発的な悲嘆による死のため自尽に分類。厳密な自害方法の記載はない。

出典: 魏書 列傳第十 孝文五王(京兆王愉)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

在位が約1週間で鎮圧されたため、建元は即位時の1回のみ。改元の記述はない。

大赦回数

即位宣言と同時に行われた大赦1回のみが原文に明記されている。

立后回数

在位約1週間の間に立后1回のみ確認できる。廃后や再冊立の記述はない。

皇太子廃立回数

原文に皇太子(もしくはそれに相当する法定推定継承者)の冊立自体の記述がなく、廃立の記事も見られない。反乱鎮圧・自害までわずか1週間程度で該当する事績はない。

親征回数

元愉自身が挙兵し皇帝を僭称、政府軍に対して自ら抗戦した一連の軍事行動を1件として計上。

反乱鎮圧回数

該当記事なし。元愉自身は反乱の首謀者(僭称者)であり、在位期間(永平元年8月挙兵〜同年鎮圧まで約1ヶ月強)中に他者の反乱・蜂起を鎮圧した記録は原典(魏書列傳第十・魏書帝紀卷八)に見られない。元愉に対する鎮圧行動は宣武帝側(尚書李平ら)が主体であり、元愉自身が鎮圧の主体となった事例ではないためrebellionSufferedCountにのみ計上する。

被反乱回数

元愉自身が起こした反乱(挙兵・僭称)が宣武帝側により鎮圧され、元愉本人が敗死した事象を1件として計上。personalCampaignCountの対象事象と表裏一体(同一の反乱を親征側・被鎮圧側の両面から記録)。

遷都回数

魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。

即位時年齢・没年齢

死亡時年齢21歳は列伝に「年二十一」と直接記載。生年・正確な死亡日・即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(5件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

親征508年9月〜508年10月冀州刺史として信都(冀州治所)で挙兵し、長史羊霊引・司馬李遵を殺害。清河王怿の密書(高肇が世宗暗殺を謀っているとの偽情報)を得たと称して信都南に壇を築き、天に柴燎して即皇帝位(建元「建平」・立后・大赦)。世宗(宣武帝)が派遣した尚書李平の討伐軍に対し、自ら出撃して抗戦した(「愉出拒王師」)。

対象: 冀州刺史として信都(冀州治所)で挙兵し、長史羊霊引・司馬李遵を殺害。清河王怿の密書(高肇が世宗暗殺を謀っているとの偽情報)を得たと称して信都南に壇を築き、天に柴燎して即皇帝位(建元「建平」・立后・大赦)。世宗(宣武帝)が派遣した尚書李平の討伐軍に対し、自ら出撃して抗戦した(「愉出拒王師」)。

結果: 王師との戦いに頻敗し、婴城自守(信都に籠城)。九月、尚書李平が草橋・信都北で撃破し信都を陥落させたため、元愉は愛妾李氏・四子と共に数十騎で脱出を図るも捕らえられた。京師への護送中、野王で「雖主上慈深、不忍殺我、吾亦何面目見於至尊」と述べ絶命(享年21、或云高肇令人殺之)。自らの帝位簒奪の軍事行動として親征1回に計上。

『魏書』列傳第十(京兆王愉伝)および帝紀(卷八)永平元年八月癸亥「冀州刺史・京兆王愉据州反」〜九月の記事に基づく。対立政権の首謀者自身の記録として、自らの即位・挙兵に伴う軍事行動を親征1回とした(ワークフロー基準の対立政権首謀者パターンに準拠)。開始日は帝紀の干支日(八月癸亥)に基づく既存reignデータのstartDate(0508-09-24)を援用、終了は信都陥落〜野王での落命までを一連とみなしmonth精度とした。

被反乱508年9月〜508年10月宣武帝側による元愉討伐(元愉自身の視点では正統政権からの鎮圧を受けた事象)

首謀者: 尚書李平(世宗=宣武帝の討伐軍。定州刺史・安楽王詮も信都北で元愉軍を撃破し参戦)

結果: 李平が草橋・信都北で元愉軍を撃破し信都を陥落。元愉は脱出を図るも統軍叔孙頭に捕らえられ信都へ送還、群臣は誅殺を求めたが世宗は許さず京師への護送を命じた。護送中、野王で元愉は歔欷流涕し絶命(享年21、或云高肇令人殺之)。冀州平定。

本件はRULESの「対立政権の首謀者自身の記録では、正統側からの鎮圧を受けて敗死・廃位した場合は自身の被反乱(rebellionSufferedCount)に計上する(鎮圧回数には計上しない)」という基準を適用したもの。元愉自身が反乱の首謀者であるため、通常の『臣下からの反乱を受けた皇帝』とは主客が逆転する特殊ケースであり、leaderフィールドには元愉を鎮圧した政府側の指揮官(尚書李平)を記載した。confidenceはこの解釈枠組みの適用に伴いmediumではなくhighとした(原典の記述自体は明確なため)。

改元日付不詳冀州刺史として反乱を起こし、信都の南に壇を築いて天に柴燎し即皇帝位した際、「号建平元年」と建元したことが明記されている。

冀州刺史として反乱を起こし、信都の南に壇を築いて天に柴燎し即皇帝位した際、「号建平元年」と建元したことが明記されている。これが唯一の(即位に伴う最初の)建元。

出典: 魏書列傳第十 孝文五王〈京兆王愉〉

大赦日付不詳元愉が冀州で信都の南に壇を築き、天に柴燎して即皇帝位した際、「赦天下」と明記されている。

元愉が冀州で信都の南に壇を築き、天に柴燎して即皇帝位した際、「赦天下」と明記されている。年号を「建平」と建元し、李氏を皇后に立てたのと同時の記事。

出典: 魏書列傳第十 孝文五王〈京兆王愉〉

立后日付不詳即皇帝位・建元・大赦と同時に「立李氏為皇后」とあり、寵愛していた李氏(本姓楊、東郡人)を皇后に立てたと明記されている。

出典: 魏書列傳第十 孝文五王〈京兆王愉〉

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