元愉の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 508年9月22日〜508年11月1日
- 没年
- 508年21歳(数え年)長生き順同率227位/266人
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓元諱愉字宣徳別称京兆王呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 巻八 世宗紀/巻二十二 列傳第十 孝文五王(京兆王愉)
- 死因
- 魏書 列傳第十 孝文五王(京兆王愉)/北史/資治通鑑 巻一百四十七
- 即位経路
- 魏書 列傳第十 孝文五王(京兆王愉)
生涯
どんな皇帝か
魏書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は、反して敗れたことは記すが、皇帝を名乗ったことは書かない。
即位まで
宣武帝とは母の異なる弟で、497年に京兆王に封ぜられて徐州刺史州という地方の区画を治めた長官となった。兄の宣武帝の即位後は宮中に出入りして寝起きを共にし、華林園の弓射にも軽装で従った。文章を好んで詩賦を多く作り、文人を招いた。得た穀物や絹の多くを人に施し、仏道も篤く信じたので、費用がしばしば足りなくなった。宣武帝は皇后于氏の妹を妃に与えたが、元愉は礼遇せず、徐州で歌を聞いて見初めた李氏を寵愛した。皇后は李氏を打ちすえて尼にさせたが、一年余りのち、皇后の父が皇后に子が無いことから帝の妃嬪を増やすよう上表すると、李氏は元愉に返された。弟の広平王懐と奢侈を競って法を守らず、宣武帝に杖打たれて冀州刺史に出された。
治世と最期
二人の弟より勢位が劣るのを恨み、寵愛する妾がたびたび辱められたことも抱えていた。高肇の専横も恐れていた。508年、冀州で長史長官を補佐する役人らを殺し、清河王の密書に高肇が帝を殺そうとしているとあると称して皇帝に即位し、李氏を皇后に立てた。討伐を命じた宣武帝は、大義のために親族も滅ぼすと語り、今日こんなことを口にするとはと言ってすすり泣いた。
元愉は信都を逃れたが捕らえられ、宣武帝は群臣の誅殺の請いを退け、都へ送らせた。護送の途中、元愉は宿駅ごとに李氏の手を取り、飲食も常のとおりで、恥じ恐れる様子はほとんど無かった。野王まで来たところで息絶えた。のちに子らは皇族に戻され、宝炬は西魏の文帝となった。
史料について
密書を得たというのを、資治通鑑は偽りとする。魏書の本紀は州に拠って反したことだけを記し、皇帝を名乗ったことを書かない。最期を、魏書と北史の元愉伝は至尊にまみえる面目が無いと語って息絶えたとし、高肇が殺させたとも言われたと併記する。資治通鑑は高肇が人を遣って殺したとし、考異は恥じ恐れる様子の無い者が恥じて急に息絶えるはずがないとする。
元愉とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・親征1・皇后1・改元1・大赦1
- 改元508年元号を「建平」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。508年9月〜508年10月冀州刺史として信都(冀州治所)で挙兵し、長史羊霊引・
司馬李遵を殺害。清河王懌の密書(高肇が世宗暗殺を謀っているとの偽情報)を得たと称して信都南に壇を築き、天に柴燎して即皇帝位(建元「建平」・ 立后・ 大赦)。世宗(宣武帝)が派遣した尚書李平の討伐軍に対し、自ら出撃して抗戦した(「愉出拒王師」)。 - 反乱508年9月〜508年10月宣武帝側による元愉討伐(元愉自身の視点では正統政権からの鎮圧を受けた事象)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。日付不詳
- 皇后日付不詳皇后を立てる
北魏の歴代皇帝
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