中国皇帝統計

元顥・北海王

北魏(南北朝)|在位 529年

諱(本名)
元顥
在位
529年
在位期間
120日365名中337位タイ
即位経路
擁立
死因
戦死
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
2332名中78位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

献文帝の孫。528年の河陰の変後、南朝梁の蕭衍のもとへ亡命。梁武帝が「顥を魏主と為し之に兵将を仮す」として擁立し、陳慶之の軍の支援を受けて洛陽を占領。永安2年(529年)4月、梁国城南で壇を築き即位し年号を「孝基」とした。

出典: 魏書 列傳第九上 獻文六王上

死因の経緯

孝荘帝と爾朱栄の反攻を受け河梁・馬渚の渡河戦に敗北。子の元冠受も捕らえられ、元顥自身は帳下数百騎を率い轘轅から脱出を図るも、臨潁に至り部下が四散し臨潁県の兵卒に斬られた(敗走中の交戦の延長線上の死のため戦死に分類、ユーザー判断)。

出典: 魏書 列傳第九上 獻文六王上

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『魏書』列傳第九上・北海王顥傳に「永安二年四月、於梁國城南登壇燔燎、號孝基元年」(即位に伴う建元=1回目)、続いて「顥遂入洛、改稱建武元年」(洛陽入城後の改元=2回目)と明記されている。『資治通鑑』卷153でも「顥登壇燔燎、即帝位於睢陽城南、改元孝基」「丙子、顥入洛陽宮、改元建武」と一致。両者で改元は計2回。

大赦回数

『魏書』列傳第九上・北海王顥傳自体には元顥政権下の「大赦」の明記はない。しかし『資治通鑑』卷153(梁紀九・中大通元年五月)に「丙子、顥入洛陽宮、改元建武、大赦」とあり、洛陽入城・改元建武と同日に大赦を行ったことが確認できる。同年六月壬午・七月以降の「魏大赦」は孝荘帝側(正統朝廷)による大赦であり、元顥政権のものではないため除外した。

立后回数

『魏書』北海王顥傳には元顥が皇后を冊立したとする記述はない。梁への亡命・洛陽入城後の短期政権(約4ヶ月)の間、皇后に関する記事は見当たらない。

皇太子廃立回数

『魏書』北海王顥傳には元顥自身による皇太子(皇太弟等を含む)の冊立・廃立の記述は一切ない。子の冠受は「領軍将軍」として従軍したのみで、皇太子に立てられた記述もない。

親征回数

元顥は北魏宗室(献文帝孫、北海平王元詳の子)でありながら南朝梁に亡命し梁の支援下で対立政権を樹立した特殊なケース。梁への従属的性格と、自身の帝位簒奪という内乱的性格が併存するため、指示に従い『自らの帝位主張の軍事行動』として親征に1件計上した。

反乱鎮圧回数

永安二年(529年)四月~七月の洛陽占拠中(僭称期間)に、元顥自身の政権に対する第三者の反乱を鎮圧した記録は魏書列伝・帝紀いずれにも見当たらない。むしろ元顥自身が孝荘帝側から討伐される側であったため該当記事なし。

被反乱回数

魏書帝紀(孝荘紀=巻十)・列伝巻九(献文六王上)ともに元顥の敗死経緯を詳述しており、両史料の記述は整合的。

遷都回数

魏書帝紀を通読。平城期(398-494)または洛陽期(494年以降)を通じ、各在位期間中に追加の遷都記録はない(盛楽→平城は道武帝、平城→洛陽は孝文帝の代に計上済み。孝武帝の長安奔りは北魏分裂に伴う戦乱下の逃避のため対象外)。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(deathCause.note/accessionRoute.note/personalCampaignCount/rebellionSufferedCount等)および_corpus_cache/beiwei-yuanhao.txt(魏書 列傳第九上 獻文六王上・北海王顥傳)を確認したが、生年月日・即位時年齢・享年の直接記載は見当たらなかった。『魏書』本傳は少年期からの経歴(襲爵・任官歴)や敗死の経緯は詳述するが「時年」「享年」等の年齢表記は一切なく、年号年ラベルの差分で逆算できる別時点の年齢記載も存在しないため、accessionAge/deathAgeともにnullとした。deathDateは reigns[0].endDate(永安2年7月21日=0529-08-11、臨潁で斬られた日)と一致させた。

在位中の出来事(5件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元529年4月梁国城南(睢陽城南)で壇を築いて即位し、年号を「孝基」と建元した。

梁国城南(睢陽城南)で壇を築いて即位し、年号を「孝基」と建元した。梁武帝の支援を受けての称帝に伴う最初の建元。

出典: 魏書 列傳第九上 獻文六王上(北海王顥)

親征529年4月〜529年7月北魏朝廷(洛陽・帝位簒奪)

対象: 北魏朝廷(洛陽・帝位簒奪)

結果: 梁の支援を受け北伐を開始。永安二年(529年)四月、梁国城南で登壇燔燎の儀を行い自ら即位を宣言(号「孝基元年」)。考城の済陰王元暉業、滎陽の行台楊昱を破って進撃し、五月に洛陽を占領して建武元年と改元、一時北魏の帝位を僭称した。しかし政務を顧みず酒色に耽り人心を失い、六月以降尔朱栄・孝荘帝の反撃を受けて七月に敗走、臨潁で討たれ失敗に終わった。

魏書 巻九 献文六王上(北海王詳伝附子顥伝)に「颢以数千之众,转战辄克,据有都邑,号令自己」とあり、自軍を率いて転戦した記述から親征とみなした。実際の軍事指揮は梁将陳慶之が担ったとする説(梁書等)もあるが、魏書本文は一貫して「颢」を主体として記述しており、対立政権樹立のための自らの軍事行動として計上。

改元529年5月洛陽に入城した後、年号を「建武」に改めた。

洛陽に入城した後、年号を「建武」に改めた。『魏書』は「顥遂入洛、改稱建武元年」と記すのみで日付は明記しないが、『資治通鑑』卷153により洛陽入城・改元建武・大赦が永安2年5月丙子の同日の出来事と確認できる。

出典: 魏書 列傳第九上 獻文六王上(北海王顥)/資治通鑑 卷153

大赦529年5月洛陽入城・改元建武と同日、「大赦」を行った(『資治通鑑』卷153)。

洛陽入城・改元建武と同日、「大赦」を行った(『資治通鑑』卷153)。『魏書』本傳には大赦の語自体はないが、洛陽占領・建武改元の記事と時系列的に同一の出来事。

出典: 資治通鑑 卷153(梁紀九・中大通元年五月丙子条)/魏書 列傳第九上 獻文六王上

被反乱529年6月〜529年7月尔朱栄・孝荘帝による元顥討伐(硖石の戦い・臨潁での敗死)

首謀者: 尔朱栄・孝荘帝(元子攸)

結果: 六月、尔朱栄の部将費穆が元顥軍に討たれる一方、孝荘帝は尔朱栄・元天穆と合流し反撃を開始。七月、都督尔朱兆・賀抜勝が硖石を夜襲して元顥の子冠受・安豊王延明の軍を撃破し元顥は敗走、臨潁県の一兵卒江豊に斬られ討たれた。弟の元顼も捕らえられ処刑された。

元顥は北魏の正統政権(孝荘帝)に対する対立政権の首謀者であり、正統側からの鎮圧により敗死したケースにあたる。指示のルールに従い、鎮圧の主体は孝荘帝側であるため本人(元顥)の記録では鎮圧回数ではなく被反乱回数に計上した。

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