北魏(南北朝)分裂期の王朝中国がいくつもの政権に分かれていた時代に、その一つを占めた王朝・政権。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。
元顥
在位 529年(102日)529年5月 〜 529年8月11日
日本は古墳時代
元顥は北魏の皇族で、梁の後押しで帝を称して洛陽に入ったが、まもなく敗れて斬られた。
元顥の人物データ
- 生年
- 不詳
- 在位
- 529年5月〜529年8月11日
- 没年
- 529年8月11日年齢不詳
- 死因
- 戦死戦いの中での死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因8人/365人
- 即位経路
- 推戴先の君主から位を受けず、まわりの人々に皇帝に立てられた即位。対立・僭称の皇帝同じ国号のまま、歴代の皇帝の系統の外で皇帝を名乗った人(多くは歴代の皇帝と並び立った)。その王朝の正史は、この人の本紀(皇帝としての伝)を立てていない。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓元諱顥字子明別称北海王呼び名の見方
出典
- 在位
- 魏書 巻二十一上 列傳第九上 獻文六王上/巻十 帝紀第十 孝荘紀
- 死因
- 魏書 列傳第九上 獻文六王上
- 即位経路
- 魏書 列傳第九上 獻文六王上
生涯
どんな皇帝か
魏書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、落とし物を拾うように取り、踵を返す間もなく亡んだと評する。
即位まで
北海王詳の子で、父の爵を継いだ。若くして意気盛んで気概があった。徐州刺史州という地方の区画を治めた長官のとき貪汚の罪で官爵官職と爵位を削られた。528年、相州刺史のとき爾朱栄が洛陽に入って荘帝を立てると、去就を窺い、舅の范遵に相州を任せようとしたが、相州行台地方に置かれた朝廷の出先の役所、その長官の甄密らが范遵を廃した。子とともに梁へ奔ると、梁の武帝は魏主として兵を与え、陳慶之に北へ送らせた。
治世と最期
529年、北へ進む途中で帝号皇帝という称号に即き、孝基と号した。滎陽で楊昱を捕らえたが、陳慶之らが処刑を求めても、梁主が忠節を称えた例を引いて殺さず、ほかは願いのままにと答え、楊昱配下の統帥37人が斬られた。
荘帝が北へ逃れたあと洛陽に入り、建武と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。入城の日には馬が驚いて進まず、60日を過ぎないと予言する者がいた。洛陽では天授と自負して驕り、近習君主のそば近くに仕える者たちを寵愛して政事に口を出させ、日夜酒に耽り、南の兵が市里を荒らして朝野が失望した。河陰の事を責めて費穆を殺した。安豊王延明らと梁に背くことを謀った。陳慶之の勧めで増兵を請おうとしたが、延明に止められて疑いを抱き、密告を恐れて増兵は不要と上表し、別の折には陳慶之を憚って徐州へ行かせなかった。
同じ年、子の冠受が荘帝と爾朱栄の軍に敗れて捕らえられ、元顥は逃れたが、臨潁で兵卒の江豊に斬られた。弟の元頊は兄の入洛で得意になって笑われ、兄が敗れると隠れたが、捕らえられて都の市で斬られた。
史料について
帝号に即いた場所を、魏書の本伝は梁国城の南、梁書の陳慶之伝は渙水とする。入城の日の話は北史の本伝にあり、魏書・梁書・南史・北斉書・資治通鑑には見えない。最期を、梁書の陳慶之伝は賊に捕らえられたとだけ書き、武帝紀は爾朱栄が攻め殺したとする。
元顥とつながる皇帝
在位中の出来事
反乱1・親征1・改元2・大赦1
- 改元529年5月元号を「孝基」とする
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。529年5月〜529年8月北魏朝廷(洛陽・
帝位簒奪) - 改元529年6月17日元号を「建武」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。529年6月17日
- 反乱529年7月〜529年8月爾朱栄・
孝荘帝による元顥討伐(硤石の戦い・ 臨潁での敗死)
北魏の歴代皇帝
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