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北元第1代

昭宗アユルシリダラ

在位 1370–1378年(8年2日)1370年5月 〜 1378年5月

日本は室町時代

恵宗の皇太子として宮廷の争いに関わり、父とともに上都へ逃れたのち和林で宣光とした北元の皇帝である。

昭宗の人物データ

生年
不詳
在位
  • 1370年5月〜1378年5月
8年2日長い順145位/365人即位の年齢は不詳
没年
1378年5月年齢不詳
死因
同じ死因31人/365人
即位経路
先代
  • 恵宗元昭宗は恵宗の子
次代
—
呼び名
漢字音写愛猷識理達臘呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
新元史 巻二十六(恵宗四・昭宗)
死因
新元史 巻二十六(恵宗四・昭宗)
即位経路
新元史 巻二十六(恵宗四・昭宗)

生涯

即位まで

恵宗(順帝)の長子で、母は高麗出身の奇皇后である。1353年に皇太子に立てられた。元史の順帝紀は、彼が李好文に何年も儒書を教わっても分からないが仏法は一晩で分かると言ったと記す。元史・新元史の后妃伝は、父が政治を怠ると母と皇太子が譲位を謀ったとし、元史の太平伝も二人を主語にするが、元史・新元史の朴不花伝は母が謀ったとする。の陳祖仁が、殿下の職分はと父への孝養に止まると諫めると怒り、陳祖仁らが辞職すると朴不花らは辞退したが、陳祖仁が辞退を口実にさせるなと父にすると父は大怒し、陳祖仁は甘粛へ出された。1364年に孛羅帖木児の軍が都に迫ると、自ら清河で防いだが兵に戦意が無く、冀寧へ逃れ、明史の列伝は、拡廓帖木児がいなければ太子は危うかったとする。このとき唐の粛宗にならい自立しようとして拡廓帖木児らに拒まれ、翌年の帰京の際に母が兵で譲位を迫らせようとしたときも拡廓帖木児が軍を留めたので、彼を恨んだ。1365年にの伯顔忽都皇后が没すると、母はその破れた衣を見て大笑したが、皇太子は帰ってきてひどく哀しんで哭した。1368年に父とともに上都へ逃れた。1370年に父が応昌で没し、昭宗が位を継いだ。

治世と最期

同じ年に応昌は明軍に落とされ、昭宗は和林へ逃れ、従った騎兵を新元史は数十、元史は十数と書く。和林では拡廓帖木児に国事を任せて宣光と改元した。1372年、拡廓帖木児が嶺北で徐達の明軍を大破した。明史は1374年、新元史は翌年に、明の太祖が応昌で明軍に捕らえられていた昭宗の子の買的里八剌を帰したと記す。

1378年、昭宗は金山で没し、群臣がを奉った。跡を継いだ脱古思帖木児を、新元史は弟とし、明史は子と書く。

新元史のは、陳祖仁が拡廓帖木児の名誉回復を求めた激しい言葉を、恵宗父子が退けて用いなかったのを惜しむ。

昭宗とつながる皇帝

元末の勢力図(1370年)

勢力図

元末の勢力図で見る

1370–1378年の地図に、昭宗が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

遷都1・改元1
  1. 遷都1370年6月10日応昌(応昌府) → 和林(カラコルム/Karakorum)
  2. 改元1371年元号を「宣光」とする

年表

元・北元の時代を年表で見る

北元が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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