昭宗
北元|在位 1370–1378年
- 諱(本名)
- アユルシリダラ(愛猷識理達臘)
- 在位
- 1370–1378年
- 在位期間
- 7年350日365名中147位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
至正13年に皇太子に冊立済みの恵宗長子。恵宗崩御を受けての即位は明確な父子直系継承で、権臣による擁立や簒奪を示す記述はない。
出典: 新元史 巻二十六(恵宗四・昭宗)
死因の経緯
新元史「帝崩於金山」とのみ記し死因の記述は一切ない。新元史自身が「昭宗以下、文献無徴」(昭宗以降は文献に乏しい)と明記しており史料が乏しい。明史も「元嗣君愛猷識理達臘殂」と一般的な崩御語のみ。
出典: 新元史 巻二十六(恵宗四・昭宗)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
新元史本紀に『既而、扩廓帖木児至和林、帝以国事任之、改元宣光』と明記され、翌段落が『宣光元年』から始まる。daizhigev20側新元史全文で『宣光』を検索し裏取り済み(4080行・4082行等)。前代年号の継続使用は改元回数にカウントしない方針に従い、宣光への改元1回のみをカウント。
大赦回数
新元史巻二十六(惠宗四・昭宗)本紀の昭宗在位区間(至正三十年四月~宣光八年四月)を通読したが「大赦」「大赦天下」の記載は見当たらない。ただし同巻末の史臣曰に『昭宗以下、文献無徴。惟宣光八年之事、間存一二、故附載於本紀云』とあり、昭宗以降は史料自体が極めて断片的であることが明記されているため、記載なし=実際に行われなかったと断定はできない。daizhigev20側の新元史全文で『大赦』を検索した結果も昭宗紀の範囲内では0件。
立后回数
新元史後妃伝(巻百五十四相当、巻23560行以降)は惠宗の諸后(答納失里皇后・伯顔忽都皇后・完者忽都皇后=奇氏)で記述が終わっており、昭宗自身の皇后についての独立記事は存在しない。本紀(巻二十六)にも立后の記載なし。北元以降は文献が乏しいため(史臣曰に明記)、実際に皇后が存在した可能性を完全には排除できないが、現存史料からは確認できない。
皇太子廃立回数
新元史巻二十六(惠宗四・昭宗)本紀・巻百五十四相当の後妃伝を確認したが、昭宗自身が皇太子を立てた記事も廃した記事も見当たらない(弟脱古思帖木児への継承は崩御による自然な兄弟相続で、廃立ではない)。史料自体が断片的(本紀末尾の史臣曰参照)なため、確実に0回であったとまでは断定できない。
親征回数
新元史巻二十六(惠宗四・昭宗)本紀の昭宗在位区間(至正三十年四月~宣光八年四月)を通読したが、昭宗本人が「帝親征」「帝自将」等の形で軍を率いて出陣した記述は見当たらない。在位中の対明軍事行動(李文忠・徐達・藍玉らの侵攻への対応、雁門・大同攻撃、延安攻撃等)はいずれも扩廓帖木児(王保保)・買駆・伯顔帖木児ら臣下の将軍が主体であり、皇帝本人の出陣は確認できない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
在位中に記録される軍事衝突(李文忠・徐達・藍玉ら明軍との戦い、扩廓帖木児の雁門・大同攻撃、伯顔帖木児の延安攻撃等)は、いずれも既に別政権として自立し北元から独立していた明(朱元璋政権)との対等勢力間の戦争であり、判定基準ルール4に該当するため反乱鎮圧の対象外とした。北元服属下の勢力・地方官による離反・自立を示す記事(服属民の反乱)は原文中に見当たらない。該当記事なし。
被反乱回数
新元史巻二十六本紀を通読したが、北元服属下の勢力による皇帝打倒目的の挙兵・反乱の記事は見当たらない。宣光元年(1370年)条『平章政事上都馬等叛降于文忠』(平章政事の上都馬らが明将李文忠に叛き降伏)、宣光六年(1376年)条『伯顔帖木児攻延安、為明将傅友徳所敗、降於明』はいずれも対明戦争の劣勢下での臣下の離反・投降であり、独立して皇帝の統治に反旗を翻した内部反乱ではなく対明戦争(判定基準ルール4により反乱の対象外)の一部と判断し計上しなかった。史臣曰に『昭宗以下、文献無徴』とあり史料自体が断片的なため、記載漏れの可能性は完全には排除できずconfidenceはmediumとした。
遷都回数
在位中に遷都1回(1370年 応昌(応昌府)→和林(カラコルム/Karakorum))。
即位時年齢・没年齢
新元史巻二十六(惠宗四・昭宗)本紀の昭宗紀部分(至正三十年四月即位~宣光八年四月崩御)を通読したが、生年・即位時年齢・没年齢のいずれについても「年◯◯」「寿◯◯」等の直接記載は見当たらない。同巻末の史臣曰に『昭宗以下、文献無徴。惟宣光八年之事、間存一二、故附載於本紀云』(昭宗以降は文献に乏しく、宣光八年の事のみわずかに存するため附載する)と明記されており、史料自体が年齢情報を欠くことが公式に述べられている。逆算に用いる生年も確認できないため、調査済みだが不明として空値のまま確定する。
在位中の出来事(2件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
遷都1370年6月10日応昌(応昌府) → 和林(カラコルム/Karakorum)
新元史巻二十六本紀(昭宗)至正三十年(洪武三年)条:「五月……甲辰,应昌陷,帝以数十骑奔和林……文忠穷遣至北庆州,不及而还。既而,扩廓帖木儿至和林,帝以国事任之,改元宣光」。惠宗(順帝)は同年四月に応昌で崩御し(1370-05-23、既存reignDataのendDateと一致)、皇太子アユルシリダラ(昭宗)が応昌で即位した直後、明将李文忠の攻撃で応昌が陥落し、昭宗は和林へ逃れて改元(宣光)し政権基盤を再建した。和林到達後に改元が行われている点から単なる一時避難ではなく正式な政権所在地の移転と判断し、カウントした。なお宣光五年(1375年)条に「帝徙帐于金山」とあるが、これは陣営(帳)の移動であり改元等の政権基盤確立を伴う記述がないため、正式な遷都とは認定せずカウント外とした。(出典: 新元史 巻二十六 本紀第二十六(昭宗紀))
改元1371年至正三十年(1370)四月、恵宗崩御を受け応昌にて即位した当初は前代の年号「至正」をそのまま継続使用(改元なし・カウント対象外)。
至正三十年(1370)四月、恵宗崩御を受け応昌にて即位した当初は前代の年号「至正」をそのまま継続使用(改元なし・カウント対象外)。応昌陥落後、和林に奔り拡廓帖木児に国事を委ねた際に『改元宣光』(宣光元年=1371年)。以後宣光八年(1378)崩御まで改元なし。新元史本紀に改元の日付までは明記されず、翌年からの元年建元として記載されるのみ。
出典: 新元史 巻二十六(惠宗四・昭宗)