中国皇帝統計

韓林児・小明王

宋・元|在位 1355–1366年

諱(本名)
韓林児
在位
1355–1366年
在位期間
11年300日365名中115位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
1332名中142位タイ
大赦
0
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
345名中1位タイ

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

劉福通が韓林児を探し出し亳に迎えて擁立し即位させた(「福通物色林児…迎至亳,僭称皇帝,又号小明王,建国曰宋」)。

出典: 明史 巻一百二十二(韓林児伝)

死因の経緯

明史本紀は「十二月,韓林児卒」と簡潔に記すのみだが、韓林児伝は「或曰太祖命廖永忠迎林児帰応天,至瓜歩,覆舟沈於江云」と伝聞形式で謀殺説を記す。より直接的な廖永忠伝には「至瓜歩覆其舟死,帝以咎永忠」とあり、明の太祖自身が廖永忠の責任を問うたと明記されている。事故であれば皇帝が咎める理由に乏しく、朱元璋配下による謀殺という通説を裏付ける内部証拠といえる。

出典: 明史 巻一百二十二(韓林児伝)/巻一百二十九(廖永忠伝)

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

明史「十五年二月、福通物色林儿……迎至亳、僣称皇帝、又号小明王、建国曰宋、建元龍鳳」、新元史「十五年二月、福通等自砀山夹河迎林儿至、僭号称皇帝、又号为小明王、都亳州、国号宋……建元龍鳳」、元史順帝本紀「己未、刘福通等自砀山夹河迎韩林儿至、立为皇帝、又号小明王、建都亳州、国号宋、改元龙凤」と三史一致。以後の在位期間中に別の年号へ改元した記載は各史書・元史紀事本末いずれにも見当たらないため、建元1回のみとした。

大赦回数

明史巻一百二十二(列传第十・韓林児伝)、新元史巻二百二十六(韓林児伝)、元史順帝本紀、元史紀事本末を通読したが、韓林児(小明王)自身が発した「大赦」「大赦天下」等の記載は見出せなかった。至正十五年に元朝側が下した「曲赦」や至正十六年の元朝の「大赦」(哈麻矫诏杀脱脱後)は元朝廷によるものであり韓林児政権とは無関係のため計上しない。

立后回数

各史書とも韓林児の皇后冊立の記載はない。至正十五年二月の即位時に母・楊氏を「皇太后」に尊んだ記事はあるが、これは皇太后であり皇后ではない。妻・皇后に関する記載自体が見当たらないため0回。

皇太子廃立回数

各史書とも韓林児に皇太子を立てた記載は見当たらない(子の記録自体がない)。廃立の対象となる皇太子が存在しないため0回。

親征回数

『明史』巻一百二十二(韓林児伝)を通読したが、韓林児本人が自ら軍を率いて出征したことを示す記載(「帝親征」「帝自将」「帝率師」等)は一切見当たらない。伝には「林児本起盗賊,無大志,又聽命福通,徒擁虛名」と明記されており、軍事行動はすべて劉福通以下の諸将が主導している。史料の性質上(元末群雄6名は簡潔な列伝のみ)、該当イベントなしとして0件で確定する。

反乱鎮圧回数

韓林児(宋)政権内部で明確に「叛」「反」と記された事件のうち、韓林児側が鎮圧に成功した記録は見当たらない。唯一該当しうる李武・崔徳の離反(至正二十一年)は鎮圧されず元朝(李思斉)へ投降が成功しているため、鎮圧側にはカウントしない(被反乱側のみ計上、未鎮圧のまま在位終了パターン)。なお、劉福通が杜遵道を暗殺して丞相の座を奪った事件(「陰命甲士撾殺遵道,自為丞相」)は朝廷内部の権力闘争だが、対象が皇帝本人(韓林児)ではなく政敵の宰相であり、韓林児の帝位を狙ったクーデターとは言えないため計上対象外とした。また張士誠配下・呂珍による安豊攻撃(至正二十三年、劉福通戦死)は、張士誠が元末群雄として韓林児政権から独立した対等勢力であるため、鎮圧・被反乱いずれの対象にも含めない。

被反乱回数

李武・崔徳の離反1件のみを服属部将の離反として計上。毛貴が部下の趙均用に殺害され、続いて続継祖が均用を殺害した事件(「毛貴已為其黨趙均用所殺,有續繼祖者,又殺均用,所部自相攻擊」)は、原文に「反」「叛」等の反乱を示す語がなく、韓林児政権への反乱と明記されていない山東方面軍内の権力闘争・内紛のため、確証を欠くとして計上を見送った。張士誠配下・呂珍による安豊攻撃(劉福通戦死)は対等勢力・元末群雄間の抗争として除外した。

遷都回数

在位中に遷都3回(1355年 亳州→安豊、1358年 安豊→汴梁、1359年 汴梁→安豊)。

即位時年齢・没年齢

『明史』巻122(韓林児伝)・巻129(廖永忠伝)を通読したが、韓林児本人の生年・没年時年齢・即位時年齢に関する直接記載(「年◯◯」等)は見当たらない。栾城人・李氏子とも言われる出自や、母楊氏と武安山に逃れた記述はあるが、生年は不明。調査済みだが不明のためnullで明示する。

在位中の出来事(5件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

遷都1355年亳州 → 安豊

元史・順帝本紀(巻四十四)至正十五年十二月条:「答失八都魯大敗劉福通等於太康、遂圍亳州、偽宋主遁於安豐」。劉福通が擁立した韓林児は建国当初の都・亳州(至正十五年二月定都、建国時の最初の定都のため対象外)を元軍に攻囲され、安豊へ退いた。以後安豊は約3年間、宋政権の実質的な本拠地として機能した(後の至正十八年条に「自安豐迎其偽主居之以為都」とあり、安豊が事実上の遷都先であったことが確認できる)。(出典: 元史 巻四十四 順帝本紀七 至正十五年十二月)

改元1355年2月至正十五年二月、劉福通が韓林児を砀山夹河に迎え亳州にて皇帝に擁立(小明王と号す)。

至正十五年二月、劉福通が韓林児を砀山夹河に迎え亳州にて皇帝に擁立(小明王と号す)。国号「宋」を建て、建元して「龍鳳」とした。これが唯一の建元で、以後崩御(龍鳳十二年)まで「龍鳳」の元号を継続使用しており、改元の記載は見当たらない。

出典: 明史 巻一百二十二(列伝第十・韓林児伝)

遷都1358年安豊 → 汴梁

元史・順帝本紀(巻四十五)至正十八年五月条:「劉福通攻汴梁…汴梁守將竹貞棄城遁、福通等遂入城、乃自安豐迎其偽主居之以為都」。劉福通が元の守将を破り汴梁(開封)を占領し、韓林児を安豊から迎えて正式に汴梁を国都と定めた。(出典: 元史 巻四十五 順帝本紀八 至正十八年五月)

遷都1359年汴梁 → 安豊

元史・順帝本紀(巻四十五)至正十九年八月条:「察罕帖木兒督諸將…攻破汴梁城、劉福通奉其偽主遁、退據安豐」。元軍の察罕帖木児に汴梁を攻略され、韓林児・劉福通は安豊へ退却し、再び安豊を都とした。なお至正二十三年(1363)、張士誠配下の呂珍に安豊を攻略され劉福通は戦死、朱元璋が韓林児を滁州へ救出しているが、これは正式な国都再定立ではなく朱元璋の保護下に置かれた避難・軟禁であり(「以韓林兒歸滁州」とあるのみで「以為都」の記載なし)、本カウントには含めない。(出典: 元史 巻四十五 順帝本紀八 至正十九年八月)

被反乱1361年李武・崔徳の離反

首謀者: 李武・崔徳

結果: 鎮圧されず(元朝の李思斉へ投降し成功)

『明史』巻一百二十二(韓林児伝)至正二十一年夏条:「福通嘗責李武、崔徳逗撓,將罪之。二十一年夏,兩人叛去,降於李思齊」。李武・崔徳は宋(韓林児)政権配下の部将であったが、劉福通に叱責され罪に問われそうになったため離反し、元朝の李思斉へ投降した。政権内部の家臣・部将による離反にあたり服属民の反乱として計上。鎮圧された記録がなく在位終了(1366年韓林児没)まで奪還・討伐の記載もないため、rebellionSuppressionCount側には計上せず被反乱側のみに計上(未鎮圧パターン)。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。