中国皇帝統計

静帝

北周(南北朝)|在位 579–581年

諱(本名)
宇文闡
在位
579–581年
在位期間
2年100日365名中252位
即位経路
禅譲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
9歳(数え年)269名中・長寿順263位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
2267名中152位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
5225名中88位タイ
被反乱
5289名中97位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

大象元年(579年)正月、魯王に封じられ、同年皇太子に立てられたのち、同年2月「宣帝於鄴宮傳位授帝、居正陽宮」と実父・宣帝が在世のまま行った内禅(生前譲位)により即位した。宣帝は譲位後も「天元皇帝」を自称して実権を保持し続けたため、形式は父子間の禅譲だが実質的権力移譲は限定的だった点に留意(同一王朝内の内禅であり隋への禅譲=王朝交代とは別事象)。

出典: 周書 巻8 静帝紀

死因の経緯

『隋書』巻1高祖紀は「介國公薨、上舉哀於朝堂」と公式には自然死のように記すが、『資治通鑑』巻175は「隋主潛害周靜帝而為之舉哀、葬於恭陵」と明記し、楊堅(隋文帝)が密かに人を遣って介國公(静帝)を殺害したうえで表向きは喪を発したとする。『周書』巻8静帝紀は「崩、時年九歲、隋志也」と隋側の記録をそのまま転記するのみ。同時期に宇文氏一族が粛清されており静帝殺害はその一環。禅譲によりすでに介國公に降格していた前王朝最後の皇帝を新王朝の皇帝が非公開で謀殺したものであり、公開裁判・処断を経た処刑ではなく暗殺に分類する(梁敬帝が陳霸先に密殺された前例と同型)。

出典: 資治通鑑 巻175/隋書 巻1 高祖紀上/周書 巻8 静帝紀

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『周書』巻8静帝紀本文で確認できる改元は大象→大定の1回のみ。「大象」年号自体は静帝の即位前(宣帝在位中の大象元年正月)に宣帝によって建てられたものであり、静帝本人による建元行為ではないため計上していない。原文はローカルコーパスchina-history/周書/原文版周書/卷八-原文.htmlで確認。

大赦回数

『周書』巻8静帝紀本文に明記された「大赦天下」の記事を数えた。地域限定・部分的な恩赦(記事中には見当たらず)は対象外。原文はローカルコーパスchina-history/周書/原文版周書/卷八-原文.htmlで確認。

立后回数

『周書』巻8静帝紀に静帝自身による立后(冊立皇后)の記事は見当たらない。大象二年九月壬辰「廢皇后司馬氏為庶人」という廃后記事はあるが、これは廃立であり冊立ではなく対象外。この司馬氏(司馬令姫)は父・宣帝の五皇后の一人として宣帝在位中に立てられたものであり、静帝自身が冊立した皇后ではない。静帝は退位時(581年)時点で数え年9歳と幼少であり、自身の皇后は存在しなかったとみられる。

皇太子廃立回数

『周書』巻8静帝紀に皇太子の廃立記事は見当たらない。静帝自身が大象元年正月戊午に父宣帝によって皇太子に立てられた記事はあるが、これは廃立ではなく立太子であり、かつ静帝自身の在位期間開始前の出来事(宣帝在位中)である。静帝在位中に新たな皇太子が立てられた記事もない。

親征回数

周書巻八・静帝紀には「帝自将」「親征」等、静帝本人が出陣した記述は一切ない。大象二年(580)の尉迟迥・司马消难・王谦らの反乱討伐は、いずれも左大丞相(後に相国)楊堅配下の将軍(韦孝宽・王谊・梁睿・杨素・达奚儒ら)が行军元帅として派遣されたものであり、静帝自身(即位時8歳前後の幼帝)が軍を率いた形跡はない。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

大象二年(580)、宣帝崩御後に実権を握った楊堅の専権に反発し、地方総管・刺史クラスの重臣が相次いで挙兵した(いわゆる三方の乱=三総管の乱を中心とする一連の蜂起)。政権側(実質的には楊堅政権だが名目上は静帝朝廷)が討伐の主体であるため鎮圧回数に計上した。静帝本人は親征していない。なお、六月の毕王贤「以谋执政被诛」、七月の赵王招・越王盛「以谋执政被诛」、十月の陈王纯「以怨执政被诛」、十二月の代王达・滕王逌「并以谋执政被诛」は、いずれも実際の挙兵・兵力行使の記述がなく、楊堅側による嫌疑者の予防的粛清と判断されるため、反乱カウントには含めていない(未然の謀反容疑での処刑)。

被反乱回数

反乱鎮圧回数と同一の5件(尉迟迥の乱=尉迟勤・宇文冑を含む、司马消难の乱、王谦の乱=楊永安を含む、申州李慧の乱、豫荆襄蛮族の乱)を被反乱側としても計上した(いずれも静帝の統治下に服属していた地方総管・刺史・属民による離反であり、南北間の対外戦争や東西魏間の抗争には該当しない)。なお大定元年二月甲子の楊堅への禅譲(帝逊于别宫)は、九锡の礼・進爵・受禅の儀礼的手続きを経た形式であり、静帝紀本文には武力行使・軍事的威圧を示す記述がないため、権臣による兵力を伴うクーデター(例外4)とは判断せず被反乱にはカウントしていない(confidence medium、実質的には楊堅の専権下での強制的禅譲であり評価が分かれ得る点に留意)。また毕王贤・赵王招・越王盛・陈王纯・代王达・滕王逌の『以谋执政/以怨执政被诛』はいずれも実際の挙兵記述がなく、楊堅側による予防的粛清と判断しカウントから除外した。

遷都回数

周書帝紀を通読。西魏から継承した長安が581年の隋への禅譲まで一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年月(建徳二年六月、573年)・没年齢9歳(「時年九歳」)はいずれも直接記載。崩御日は周書「五月壬申」と隋書「辛未」で1日の食い違いがあり、既存reignsデータは隋書を優先(0581-07-09)。即位時年齢の直接記載はなし。

在位中の出来事(13件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦580年6月大象二年五月己酉、宣帝崩御し静帝が天台に入居、正陽宮を廃す直後に「大赦天下,停洛陽宮作」。

大象二年五月己酉、宣帝崩御し静帝が天台に入居、正陽宮を廃す直後に「大赦天下,停洛陽宮作」。原文に大赦自体の独立した日付干支は付されておらず己酉(宣帝崩御日)に近接する記事として続けて記される。

出典: 周書 巻8 静帝紀

反乱鎮圧580年6月〜580年8月尉迟迥の乱(相州総管、青州総管尉迟勤・荥州刺史宇文冑が呼応)

首謀者: 尉迟迥(相州総管)・尉迟勤(青州総管)・宇文冑(荥州刺史)

結果: 鎮圧成功

大象二年六月甲子、相州総管尉迟迥が代官を拒否し挙兵。詔により関中兵を発し韦孝宽を行軍元帥として討伐させた。七月には荥州刺史宇文冑・青州総管尉迟勤も挙兵して呼応し、詔勅(八月己卯)では『共迥元謀』(迥に加担した者)としてまとめて赦免対象外とされている。八月庚午、韦孝宽が邺城で尉迟迥を撃破、迥は自殺し相州平定。同じく八月、杨素が荥州で宇文冑を撃破し石済で斬殺。尉迟勤自身のその後の結末は静帝紀本文に明記されないが、迥の敗死に伴い鎮圧されたとみられる(尉迟勤単独の顛末が不明な点でconfidence medium)。

被反乱580年6月〜580年8月尉迟迥の乱(相州総管、青州総管尉迟勤・荥州刺史宇文冑が呼応)

首謀者: 尉迟迥(相州総管)・尉迟勤(青州総管)・宇文冑(荥州刺史)

結果: 鎮圧された(尉迟迥自殺、宇文冑斬殺)

鎮圧回数と同一事象。詳細は鎮圧回数側のnoteを参照。

反乱鎮圧580年7月〜580年8月司马消难の乱(郧州総管)

首謀者: 司马消难(郧州総管)

結果: 鎮圧(郧州平定、ただし本人は捕縛・誅殺されず南朝陳へ出奔)

七月己酉、郧州総管司马消难が挙兵。柱国・杨国公王谊を行軍元帥として討伐させた。八月庚辰、消难は麾下を率いて鲁山・甑山の二鎮とともに陳(南朝)へ出奔し、郧州は平定された。反乱者本人は討ち取られていないが、反乱行動自体は終結・鎮圧されたためカウントした。

反乱鎮圧580年7月申州刺史李慧の乱

首謀者: 李慧(申州刺史)

結果: 結末不明(本紀に鎮圧の記載なし)

七月庚寅、『申州刺史李慧起兵』との記事のみで、以後の経過・結末は静帝紀本文に記載がない。同時期の尉迟迥・司马消难・王谦らの一連の蜂起(三方の乱)と連動した可能性があるが明記されず、confidence lowで暫定的に鎮圧回数・被反乱回数の双方に計上した。

反乱鎮圧580年7月豫州・荆州・襄州蛮族の乱

首謀者: 豫州・荆州・襄州三総管管内の蛮族諸酋(個別名不詳)

結果: 結末不明(本紀に鎮圧の記載なし)

七月、『豫州、荆州、襄州三总管内诸蛮,各率种落反,焚烧村驿,攻乱郡县』と記されるのみで、以後の鎮圧経過は静帝紀に記載がなく結末不明。既に服属する異民族属民(蛮族)による蜂起であるため反乱としてカウント対象とした。

被反乱580年7月〜580年8月司马消难の乱(郧州総管)

首謀者: 司马消难(郧州総管)

結果: 郧州は平定されたが、消难本人は南朝陳へ出奔

鎮圧回数と同一事象。詳細は鎮圧回数側のnoteを参照。

被反乱580年7月申州刺史李慧の乱

首謀者: 李慧(申州刺史)

結果: 結末不明

鎮圧回数と同一事象。詳細は鎮圧回数側のnoteを参照。

被反乱580年7月豫州・荆州・襄州蛮族の乱

首謀者: 豫州・荆州・襄州三総管管内の蛮族諸酋(個別名不詳)

結果: 結末不明

鎮圧回数と同一事象。詳細は鎮圧回数側のnoteを参照。

反乱鎮圧580年8月〜580年11月王谦の乱(益州総管、沙州氐帥楊永安が呼応)

首謀者: 王谦(益州総管)・楊永安(沙州氐帥)

結果: 鎮圧成功

八月庚申、益州総管王谦が代官を拒否し挙兵。上柱国・蒋国公梁睿を行軍元帥として討伐させた。冬十月戊寅、梁睿が剑南で王谦を撃破・追斬し首級を京師に伝送、益州平定。並行して沙州の氐族酋帥楊永安が王谦に呼応して挙兵、大将軍達奚儒が討伐し十一月甲辰に撃破、沙州平定。

被反乱580年8月〜580年11月王谦の乱(益州総管、沙州氐帥楊永安が呼応)

首謀者: 王谦(益州総管)・楊永安(沙州氐帥)

結果: 鎮圧された(王谦・楊永安ともに討伐され平定)

鎮圧回数と同一事象。詳細は鎮圧回数側のnoteを参照。

大赦580年9月大象二年八月己卯、尉迟迥討伐後の詔「可大赦天下」。

大象二年八月己卯、尉迟迥討伐後の詔「可大赦天下」。ただし「其共迥元謀,執迷不悟,及迥子姪,逆人司馬消難、王謙等,不在赦例」として尉迟迥一派の首謀者・司馬消難・王謙らは対象外とする限定付きの大赦。全国規模の大赦である点は明記されているためカウントに含めた。

出典: 周書 巻8 静帝紀

改元581年2月大定元年春正月壬午、詔「可改大象三年為大定元年」により改元(大象→大定)。

大定元年春正月壬午、詔「可改大象三年為大定元年」により改元(大象→大定)。原文は「踰祀革號,憲章前典,可改大象三年為大定元年」。なお静帝自身の即位(大象元年二月辛巳、父宣帝からの内禅)の時点では新元号の制定はなく、既存の「大象」年号(宣帝が大象元年正月に建てたもの)をそのまま継続使用しているため、この即位に伴う建元は静帝自身のカウントには含めない。

出典: 周書 巻8 静帝紀

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。