静帝の人物データ
- 生年
- 573年7月
- 在位
- 579年4月1日〜581年3月4日
- 没年
- 581年7月9日9歳(数え年)長生き順同率260位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓宇文諱闡呼び名の見方
出典
- 在位
- 周書 巻八 静帝紀/隋書 巻一 高祖紀上
- 死因
- 資治通鑑 巻175/隋書 巻1 高祖紀上/周書 巻8 静帝紀
- 即位経路
- 周書 巻8 静帝紀
生涯
どんな皇帝か
周書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、幼くして衰えた国を継いだ静帝のもとで、内相の詐術と宗室君主と同じ一族の人々の弱さに隋が乗じて帝位を移したとし、滅亡は宣帝の遺した禍いで幼子の罪ではないと結ぶ。
即位まで
宣帝の長子で、573年に東宮主に皇太子の住む宮殿、また皇太子その人で生まれた。母の朱氏は罪人の家から東宮に入った衣服係で、父の寵愛は無かったが、静帝の母であるため特に尊ばれた。579年、皇太子に立てられたのち、父が存命のまま位を伝えた。
治世と最期
580年に父が没すると、随国公楊堅が左大丞相政治の全体を任された臣下の最高の称号として百官朝廷のすべての役人を指揮した。楊堅を輔政君主を助けて代わりに政治を執ることに引き入れたのは、詔を偽った鄭訳・劉昉だった。静帝は、父の皇后で楊堅の長女の楊氏を皇太后に、生母の朱氏を帝太后皇后ではない皇帝の生母に贈った称号に尊んだ。楊氏は権力が他の一族に移るのを恐れていたので偽りの詔を聞いて喜んだが、のちに父に別の意図があると知ると不満を表した。
同じ年、相州の尉遅迥、鄖州の司馬消難、益州の王謙が相次いで挙兵したが、尉遅迥は敗れて自殺し、司馬消難は陳へ逃れ、王謙は斬られた。静帝の皇后は司馬消難の娘だったので、楊堅に廃されて庶人官位や身分を持たない、ふつうの民とされた。趙王・越王・代王・滕王らの宗室が執政を謀ったとして、陳王は執政を怨んだとして、相次いで誅された。
581年、楊堅が帝位に即くと、静帝は別宮に退いて介国公とされたが、その礼遇は形だけだった。宇文氏を滅ぼし尽くす勧めに李徳林は反対したが、退けられた。二人の弟は文帝に殺され、静帝も同じ年にひそかに殺された。
史料について
礼遇が形だけだったとするのは周書である。静帝の死を、周書は隋の意向と添え、隋書の高祖紀は事情に触れず文帝が朝堂で哀を挙げたと書く。殺したと明記するのは資治通鑑である。李徳林の話は資治通鑑にあり、資治通鑑は弟たちの死を静帝の死より前の条に置く。弟の名と王号は、周書の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分と列伝、北史で食い違う。
静帝とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
579–580年の地図に、静帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・改元1・大赦2
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。580年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。580年
- 反乱580年尉遅迥の乱(相州総管、青州総管尉遅勤・
滎州刺史宇文冑が呼応) - 反乱580年司馬消難の乱(鄖州総管)
- 反乱580年王謙の乱(益州総管、沙州氐帥楊永安が呼応)
- 反乱580年申州刺史李慧の乱
- 反乱580年豫州・
荊州・ 襄州蛮族の乱 - 改元581年2月元号を「大定」とする
北周の歴代皇帝
歴代5人の一覧- 第1代宇文覚皇帝を名乗っていない557年
- 第2代明帝559–560年暗殺
- 第3代武帝560–578年病死
- 第4代宣帝578–580年病死
- 第5代静帝579–581年暗殺
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