
楊堅は北周の外戚皇帝の母や皇后の実家の一族から帝位に即いて隋を建て、陳を平らげて、三百年近く分かれていた天下をひとつにした皇帝である。
日本とのつながり
600年
遣隋使
倭王の使いが都に来た。文帝は役人に倭の風俗を尋ねさせた。
原文
- 开皇二十年,倭王姓阿每,字多利思北孤,号阿辈鸡弥,遣使诣阙。上令所司访其风俗。― 隋書(列伝第四十六 東夷伝(倭国の条))
文帝の人物データ
- 生年
- 541年7月21日
- 在位
- 581年3月4日〜604年8月13日
- 没年
- 604年8月13日64歳(数え年)長生き順同率26位/266人
- 死因
- 諸説あり死因について史書の記述が食い違い、一つに絞れない。同じ死因17人/365人
- 呼び名
- 姓楊諱堅幼名那羅延廟号高祖呼び名の見方
- 目立つ記録
- 皇太子を廃した 1回多い順同率4位
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 隋書 帝紀第一 高祖上/隋書 帝紀第二 高祖下
- 死因
- 隋書 帝紀二(高祖下)/隋書 列伝十三(楊素伝)/資治通鑑 巻一八〇(隋紀四)
- 即位経路
- 隋書 帝紀一(高祖上)
生涯
どんな皇帝か
本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分の総評は、税を軽くし刑を緩め自らは倹約に努めたと称える一方、猜疑心が強く功臣を誅したり退けたりし、晩年は殺戮が過ぎたとする。
即位まで
弘農郡華陰の人で、父の楊忠は北周で隋国公に至った。母が病んだ間は昼夜そばを離れず、純孝と称された。斉王宇文憲や王軌に、人の下にいる者ではないと警戒されると、深く身を隠した。娘が宣帝の皇后となったが、楊堅は宣帝に忌まれ、顔色が変われば殺せと命じられた場でも平然としていて助かった。580年に宣帝が没すると、鄭訳・劉昉が詔を偽って楊堅を朝政に引き入れた。尉遅迥らの挙兵を平らげ、581年に幼い静帝に代わって即位した。
治世と最期
582年、荒れた漢以来の長安城に代えて新都を造らせ、大興城と名づけた。589年、賀若弼と韓擒虎が建業に入って陳の後主を捕らえ、陳を平定した。
独孤氏と仲が良く、他の女性に子を産ませないと誓い、皇后となった彼女とは宮中で二聖皇帝と皇后を並べてあがめた呼び名と呼ばれた。皇后が寵愛の女性をひそかに殺すと、ひとり馬で山谷へ走り、天子でありながら自由にならないと嘆いたが、高熲らに諫められて夜に戻り、皇后は泣いて謝した。関中が飢饉に遭ったとき、側近に民の食べ物を見に行かせ、献じられた豆の屑と糠を見て涙を流し、ほぼ一年酒と肉を断った。法令の運用を誇って小さな過ちにも重罪を科し、宮殿の庭でたびたび人を杖で打たせた。三男の秦王楊俊が奢侈で法に背くと、官を免じ、周公でさえ管叔・蔡叔を誅したと言って、諫められても最後まで許さなかった。
600年、太子の勇を庶人官位や身分を持たない、ふつうの民に落とし、晋王楊広を皇太子とした。602年に皇后が没すると、宣華夫人陳氏と容華夫人蔡氏を寵愛して惑い、やがて病んだ。604年、病床で、宣華夫人が楊広に迫られたと聞いて怒り、勇を呼ぼうとした。楊広は楊素と謀って張衡を寝殿に入れ、侍疾病人のそばに付き添って看病することの夫人らを別室に出させた。まもなく文帝は仁寿宮で没した。
史料について
后妃伝は、高熲を退け勇を廃させたのは皆皇后の謀だったとし、本紀の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、妻の言と邪臣の説に惑わされたと評する。本紀は死を病死として記す。楊素伝は、張衡を侍疾させた日に崩じたので異論が多かったとし、資治通鑑もそこまでで止める。資治通鑑の考異は、迫られたのを容華夫人とし、張衡に毒を進めさせたとする説や、張衡が帝を打ち殺して血が屏風に飛んだという異説を引いたうえで、隋書に従う。
文帝とつながる皇帝

勢力図
南北朝の勢力図で見る
581–589年の地図に、文帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱5・遷都1・皇后1・皇太子1・改元2・大赦12
- 改元581年3月4日元号を「開皇」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。581年3月4日
- 皇后581年3月6日皇后を立てる
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。581年5月20日
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。583年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。583年
- 遷都583年長安城(漢長安故城/隋建国当初の都) → 大興城(新都、後の唐長安城)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。586年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。589年
- 反乱590年開皇十年江南遺民反乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。595年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。595年
- 反乱597年桂州の賊李光仕の乱
- 反乱597年桂州人李代賢の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。599年
- 皇太子600年皇太子を廃する
- 反乱600年熙州人李英林の乱
- 改元601年元号を「仁寿」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。601年
- 反乱602年交州人李仏子の乱
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。604年2月24日
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。604年6月27日
隋の歴代皇帝
歴代3人の一覧- 第1代文帝楊堅581–604年諸説あり
- 第2代煬帝604–618年暗殺
- 第3代恭帝侑617–618年不詳
- 歴代外恭帝侗618–619年暗殺
- 歴代外秦王楊浩618年暗殺
年表
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