宣帝
北周(南北朝)|在位 578–580年
- 諱(本名)
- 宇文贇
- 在位
- 578–580年
- 在位期間
- 2年1日365名中263位タイ
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 22歳(数え年)269名中・長寿順226位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 5回204名中2位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 3回225名中129位タイ
- 被反乱
- 3回289名中146位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
「六月丁酉、高祖崩。戊戌、皇太子即皇帝位」と、武帝崩御の翌日に皇太子であった宣帝が正式に即位した通常の父子継承。
出典: 周書 巻7 宣帝紀
死因の経緯
大象2年(580年)5月「帝不豫、還宮」で発病、「大漸」で危篤となり「帝崩於天德殿。時年二十二」と崩御。具体的な病名や毒殺を示す記述はない。同巻の評述部分に禅位後の宣帝について「彌復驕奢、躭酗於後宮」「晨出夜還」等、酒色に耽り昼夜逆転した放蕩生活が記されており、これによる体調悪化・急死が示唆される。
出典: 周書 巻7 宣帝紀補記: 死因の直接的記述がなく放蕩生活からの間接的推測に留まるためconfidenceをmediumとした
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
578年6月の即位時には先帝武帝の年号「宣政」をそのまま継続使用しており、即位に伴う新規建元は行っていない(本紀にも改元記事なし)。翌年(579年)正月に「大成」へ改元し、さらに同年二月に「大象」へ改元しており、本紀に明記される改元は在位中この2回のみ。以後、大象二年(580年)五月の崩御まで新たな改元記事は見られない。
大赦回数
巻七宣帝紀本文中に「大赦」の語は上記2箇所のみ確認(いずれも改元と同時に発令)。部分的・地域限定の恩赦(給復等)は含めていない。
立后回数
大象二年二月癸未の「立天元皇后楊氏為天元大皇后,天皇后朱氏為天大皇后,天右皇后元氏為天右大皇后,天左皇后陳氏為天左大皇后」および三月甲辰の「立天左大皇后陳氏為天中大皇后」は、既に皇后位にあった者への称号昇格(同一人物の称号変更)であり新規冊立ではないためカウントしていない。また大象元年秋七月丙申の「納大後丞司馬消難女為正陽宮皇后」は、禅位後の実質的な皇帝である皇太子衍(正陽宮=静帝の宮)の皇后冊立であり、天元皇帝(宣帝)自身の後宮とは別人格・別記録(静帝紀側)に帰属するべき事象のため、本カウントには含めていない。
皇太子廃立回数
大象元年正月戊午「立魯王衍為皇太子」で立太子した後、同年二月辛巳の詔で「朕今傳位於衍」と禅位しており、皇太子衍が廃されることなくそのまま皇帝(静帝)に即位している。廃立の事実は確認できない。なお史臣曰の評述部分に、宣帝自身が東宮(皇太子)であった武帝(高祖)在位時代に、高祖が「古來太子被廢者幾人,餘兒豈不堪立耶」と発言し廃太子を仄めかした記述があるが、これは実際には実行されておらず、また宣帝自身の在位期間(578~580年)の出来事でもないためカウント対象外とした。
親征回数
周書巻七宣帝紀・北史巻十等の在位期間(578年6月即位〜580年5月崩御、うち579年正月に子・静帝へ譲位後も天元皇帝として実権保持)の記述を通読したが、宣帝本人が軍を率いて出陣した記事(「帝自将」「帝亲征」等)は見当たらない。稽胡討伐(刘受逻千)・范阳討伐(卢昌期)・対陳戦(韦孝宽ら)はいずれも柱国・行軍元帅への勅命による派遣で、皇帝本人は出陣していない。「帝亲擐甲冑」の記述(578年11月の道会苑での講武=閲兵、579年3月の東巡帰還時の軍容誇示)はいずれも実戦の親征ではなく儀礼的な閲兵行幸のため計上しない。該当記事なしとして0件。
反乱鎮圧回数
上記3件に加え、大象元年十月(579年10月)「相州人段德举谋反,伏诛」との記事があるが、原典の表現は「谋反(謀反を企てた)」「伏诛(発覚し誅殺された)」のみで、実際の挙兵・武装蜂起を示す記述(拠点占拠・攻撃行動等)が確認できないため、密告・摘発のみで終わった謀反計画とみなし鎮圧回数には含めなかった(confidence medium、他史料で挙兵の実態が確認できれば追加すべき可能性あり)。宣帝の在位・実権保持期間は578年6月即位〜580年5月崩御(579年正月に子・静帝へ譲位後も天元皇帝として実権を握り続けたため、譲位後の580年3月の宇文亮の乱も在位中の事件として算入)。
被反乱回数
鎮圧回数と対称的に同一の3件を計上(差異なし)。段德举の一件は挙兵の実態不明のため除外(鎮圧回数側の注記参照)。宣帝自身が権臣の兵力によって弑逆・廃位される事件(例外4)は在位中には発生していない(崩御は病死、崩御当日に劉昉・鄭訳が矫詔で楊堅を輔政としたのは崩御後の事後工作であり在位中の被反乱には該当しない)。
遷都回数
周書帝紀を通読。西魏から継承した長安が581年の隋への禅譲まで一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年(559年、武成元年)・没年齢22歳(「時年二十二」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(15件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧578年7月卢昌期の范陽反乱
首謀者: 卢昌期
結果: 鎮圧
宣政元年閏六月、幽州人卢昌期が旧北斉領・范陽(幽州)で挙兵。周書本紀は「诏柱国、东平公宇文神举帅众讨平之」と簡潔だが、北史・周書宇文神举伝によれば北斉黄門侍郎卢思道も加担し、突厥にいた北斉宗室・范陽王高绍义や营州の高宝宁が数万の夷夏兵を率いて救援に向かうも間に合わず、宇文神举が范陽を陥落させて鎮圧した(高宝宁・高绍义は入城前に落城を知り撤退)。卢昌期は北周に服属した旧斉領(既に北周が577年に併合済み)の住民による蜂起であり、対等な独立政権同士の抗争ではなく服属民の反乱として計上。
被反乱578年7月卢昌期の范陽反乱
首謀者: 卢昌期
結果: 鎮圧される(政権側勝利)
rebellionSuppressionCountと同一事件。服属地・服属民による蜂起であり対等勢力間の戦争には該当しない。
反乱鎮圧578年9月汾州稽胡(刘受逻千)の反乱
首謀者: 刘受逻千
結果: 鎮圧
宣政元年九月、汾州の稽胡(北周支配下の異民族)の首領・刘受逻千が挙兵。上柱国・越王盛(宇文盛)を行軍元帅として派遣し鎮圧。稽胡は北周に服属する境内異民族集団のため服属民の反乱として計上(六镇型の扱いに準拠)。
被反乱578年9月汾州稽胡(刘受逻千)の反乱
首謀者: 刘受逻千
結果: 鎮圧される(政権側勝利)
rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧580年3月杞国公・宇文亮の反乱
首謀者: 宇文亮(杞国公、字干徳)
結果: 鎮圧・処刑
大象二年三月戊子、行軍総管・杞国公宇文亮が挙兵。周書本紀「行军总管、杞国公亮举兵反,袭行军元帅、郧国公韦孝宽于豫州。亮不胜,孝宽获而杀之」。宇文亮伝(周書)によれば、対陳戦から豫州帰還中に長史杜士峻に「主上淫纵滋甚,社稷将危」と宣帝の暴政を非難し、元帅・韦孝宽の軍を夜襲して奪取し宗室を擁立しようとしたが、部下の密告により韦孝宽に発覚・防備され、数百騎での襲撃は失敗、逃亡先で追撃され斬られた。宗室・上柱国という既に北周に服属する臣下による反乱であり計上。
被反乱580年3月杞国公・宇文亮の反乱
首謀者: 宇文亮(杞国公)
結果: 鎮圧される(宇文亮は敗死)
rebellionSuppressionCountと同一事件。宣帝本人が直接攻撃対象になったわけではないが、政権・元帅軍への武装反乱であり被反乱に計上(ガイドラインの「標的が皇帝個人か否かは判定基準にしない」に従う)。
改元日付不詳大象元年(即位翌年。
大象元年(即位翌年。当時実際に布告された年号は「大成」で、本紀は後の改称を反映して当該年条を遡って「大象元年」と表記している)春正月癸巳、露門で朝を受けた際「大赦,改元大成」と明記。宣政(武帝より継承した年号、宣帝即位後もそのまま宣政のまま使用)から大成への改元。宣帝は578年6月の即位時点では新規建元を行わず、先帝の年号「宣政」を継続使用しており、翌年正月にこの改元が行われた最初の改元。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
改元日付不詳同年(579年)二月辛巳、皇太子衍への譲位を告げる詔に「可大赦天下,改大成元年為大象元年」とあり、大成から大象への改元。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
大赦日付不詳大象元年(即位翌年、原文では改元前の実際の元号「大成」だが後の改称を反映し遡って「大象元年」と表記)春正月癸巳、露門で朝を受けた際「大赦、改元大成」と明記。
大象元年(即位翌年、原文では改元前の実際の元号「大成」だが後の改称を反映し遡って「大象元年」と表記)春正月癸巳、露門で朝を受けた際「大赦、改元大成」と明記。改元と同時の全国規模の大赦。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
大赦日付不詳同年(579年)二月辛巳、皇太子衍への譲位を告げる詔に「可大赦天下,改大成元年為大象元年」とあり、譲位・改元と同時の全国規模の大赦。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
立后日付不詳宣政元年閏(六)月乙亥、「立妃楊氏為皇后」。
宣政元年閏(六)月乙亥、「立妃楊氏為皇后」。宣帝最初の皇后(楊麗華)の冊立。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
立后日付不詳大象元年夏四月壬戌朔、「立妃朱氏為天元帝后」。
大象元年夏四月壬戌朔、「立妃朱氏為天元帝后」。禅位後「天元皇帝」を称した宣帝が新たに朱氏を皇后位(天元帝后)に冊立。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
立后日付不詳大象元年秋七月壬子、(天元帝后朱氏を天皇后に改称した直後)「立妃元氏為天右皇后」。
大象元年秋七月壬子、(天元帝后朱氏を天皇后に改称した直後)「立妃元氏為天右皇后」。元氏を新たに皇后位に冊立。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
立后日付不詳大象元年秋七月壬子(同日)、「妃陳氏為天左皇后」。
大象元年秋七月壬子(同日)、「妃陳氏為天左皇后」。陳氏を新たに皇后位に冊立。
出典: 周書 卷七 宣帝紀
立后日付不詳大象二年三月甲辰、「立妃尉遲氏為天左大皇后」。
大象二年三月甲辰、「立妃尉遲氏為天左大皇后」。列伝的記述(同巻末尾)に「(尉遲氏は)初為妃,尋立為皇后」とあり、妃から皇后位への冊立が確認できる。これにより宣帝は同時に5人の皇后(天元大皇后楊氏・天大皇后朱氏・天右大皇后元氏・天中大皇后陳氏・天左大皇后尉遲氏)を擁するに至った(史上唯一例とされる「五后並立」)。
出典: 周書 卷七 宣帝紀