中国皇帝統計

明帝

北周(南北朝)|在位 559–560年

諱(本名)
宇文毓
廟号
世祖
在位
559–560年
在位期間
242日365名中313位
即位経路
擁立
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
27歳(数え年)269名中・長寿順202位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
0
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

孝閔帝(宇文覚)が宇文護に廃されたのち、「晉公護遣使迎帝於岐州」で明帝(宇文泰の庶長子)を岐州から迎え、京師到着後「羣臣上表勸進」を経て「即天王位」した。決定権は権臣宇文護にあり、明帝本人の主体的な簒奪行為ではない傀儡的即位。

出典: 周書 巻4 明帝紀

死因の経緯

『資治通鑑』巻168に「周世宗明敏有識量、晉公護憚之、使膳部中大夫李安置毒於糖食追而進之。帝頗覺之」と明記。宇文護が膳部中大夫李安に命じ糖食(菓子)に毒を仕込ませ進めさせ、明帝は毒を察知しつつ食した。庚子(武成2年4月19日)に危篤となり翌日崩御。『周書』本紀は「帝因食糖䊚遇毒」と簡潔に記すのみだが、史臣論賛に「終乃鴆毒潛加、享年不永」とあり権臣(宇文護)による毒殺を示唆する。同一政権内部の権臣による謀殺のため暗殺に分類。

出典: 資治通鑑 巻168/周書 巻4 明帝紀

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

武成という年号自体は本紀の紀年表記上、同年正月の記事から遡及的に用いられているが、「改元」の語を伴う実際の詔・記事は秋八月己亥の一箇所のみであり、これを皇帝即位後最初(かつ唯一)の建元と判定した。

大赦回数

皇帝号改称前(天王期)には即位時(大赦天下)、八月甲子(可大赦天下)、十二月壬午(大赦天下)等複数の大赦があるが、固有注意事項に従い皇帝号改称後のみを対象としたため、それらは対象外。皇帝号改称後は八月己亥の1回のみ確認。

立后回数

「立王后独孤氏」(二年春正月癸丑)は皇帝号改称前(天王期)の出来事であり対象外。同后は皇帝号改称前の夏四月甲戌に「王后独孤氏崩」と薨去済みで、皇帝号改称(秋八月己亥)から崩御(武成二年四月辛丑)までの間に立后・皇后関連の記載は本紀に見当たらない。

皇太子廃立回数

周書卷四 明帝紀全体(天王期・皇帝期を通じて)に「太子」「皇太子」等の記載は一切見当たらない。立太子・廃太子いずれの記事もなし。

親征回数

周書卷四(明帝紀)を通読したが、皇帝本人が軍を率いて出征した記事(「帝自将」「親征」等)は見当たらない。武成元年三月癸巳条に「陳六軍、帝親擐甲冑、迎太白於東方」とあるが、これは五行思想に基づく方位祭祀・閲兵の儀礼(太白=金星を東方に迎える儀式)であり、実際の敵地への遠征ではない。同月の吐谷渾侵寇に対しては「遣大司馬・博陵公賀蘭祥率衆討之」と、皇帝本人ではなく賀蘭祥を派遣しており親征に該当しない。よって該当記事なしとしcount 0。

反乱鎮圧回数

在位期間(557年9月~560年5月)中、周書卷四に記録される軍事関連事象は、(1)天王元年冬十月「柱國・陽平公李遠賜死」(趙貴・李植らの宇文護に対する謀反計画に連座した処刑。挙兵に至らず密告・摘発のみで終わった謀反計画のため、鎮圧回数には不算入)、(2)武成元年三月「齊北豫州刺史司馬消難舉州來附」(北斉の地方長官の投降・帰順であり、周に服属していた者の離反ではなく敵国からの寝返りを受け入れただけなので反乱鎮圧に該当しない)、(3)武成元年三月「吐谷渾寇邊」に対する賀蘭祥の討伐(吐谷渾は周に服属しない独立勢力であり対外戦争に該当し反乱ではない)のみで、服属民・臣下による挙兵を政権側が鎮圧した事例は確認できなかった。よってcount 0。

被反乱回数

在位中の被反乱該当事象は宇文護による鴆毒弑逆1件のみ。なお天王元年冬十月の柱国李遠賜死(趙貴・李植の宇文護打倒計画に連座)は、挙兵に至らない摘発済みの謀反計画であり、被反乱・鎮圧いずれにも不算入とした。

遷都回数

周書帝紀を通読。西魏から継承した長安が581年の隋への禅譲まで一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年(534年、永熙三年)・没年齢27歳(「時年二十七」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載はなし。confidenceは他資料との照合が完全でないためmediumとした。

在位中の出来事(3件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元559年10月1日秋八月己亥、「改天王称皇帝、追尊文王為帝、大赦改元」と明記。

秋八月己亥、「改天王称皇帝、追尊文王為帝、大赦改元」と明記。天王号を皇帝号に改称すると同時に建元(武成の元号制定)を行ったと解され、即位に伴う最初の改元として1回とカウント。崩御まで他に改元の記載はない(なお本紀の紀年表記上は同年正月から遡って「武成元年」と付されているが、実際の建号・改元の詔は八月己亥の記事にのみ明記されている)。

出典: 周書卷四 明帝紀

大赦559年10月1日秋八月己亥、「改天王称皇帝、追尊文王為帝、大赦改元」とあり、皇帝号改称・建元と同日に大赦天下を実施。

秋八月己亥、「改天王称皇帝、追尊文王為帝、大赦改元」とあり、皇帝号改称・建元と同日に大赦天下を実施。以降、崩御(武成二年四月辛丑)まで大赦の記載は本紀に見えない。

出典: 周書卷四 明帝紀

被反乱560年5月29日〜560年5月30日宇文護による明帝毒殺(鴆毒弑逆)

首謀者: 宇文護

結果: 武成二年(560年)四月、権臣・晋公宇文護が膳部下大夫李安に命じ、加糖の蒸餅に毒を盛らせ明帝に進めさせた。四月庚子(560年5月29日)に帝は危篤となり(大漸)、翌四月辛丑(560年5月30日)延寿殿にて崩御(享年27)。周書卷四本紀末尾の史臣曰にも「終乃鴆毒潛加、享年不永」と明記され、後年(建德元年)武帝が宇文護誅殺時に発した詔でも「世宗明皇帝聰明神武…護內懷凶悖…」と護の関与を断罪し、また『周書』列傳(宇文護伝周辺記事)でも武帝が膳部下大夫李安について「世宗之崩、安所為也」と述べ毒殺の実行者と名指ししている。

毒殺は兵力を伴わない隠密の弑逆であり、原文からは宇文護配下の軍勢が直接動員された形跡は確認できない(例外4の典型=兵力を伴う政変とは形態が異なる)。しかし宇文護は当時大冢宰・都督中外諸軍事として禁軍を含む軍事実権を掌握し続けた権臣であり、その権力基盤を背景に皇帝本人を弑逆した点で、通常の暗殺(一般臣下による単独犯行)とは性質が異なり、朝廷内権力者による皇帝弑逆に準ずると判断した。プロンプト指示(560年毒殺は例外4に準ずるかconfidence mediumで判断根拠を記す)に従い、被反乱回数に1件計上する。反乱鎮圧回数には不算入(皇帝側が鎮圧する性質の事件ではなく、また鎮圧が試みられる間もなく崩御したため)。confidence: medium(兵力不随伴のため例外4への完全な該当性は断定できない)。

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