武帝
北周(南北朝)|在位 560–578年

- 諱(本名)
- 宇文邕
- 廟号
- 高祖
- 在位
- 560–578年
- 在位期間
- 18年25日365名中64位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 36歳(数え年)269名中・長寿順152位タイ
- 改元
- 4回332名中29位タイ
- 大赦
- 9回267名中47位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 6回225名中68位タイ
- 被反乱
- 7回289名中71位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
毒殺され危篤となった明帝が「遺詔傳帝位於高祖。高祖固讓、百官勸進、乃從之」と弟の魯国公邕(武帝)を後継に指名する遺詔を残し、通常の遺詔継承手続きを経て即位した。この時点で実権はなお宇文護が握っていたが、後継指名自体は先帝(明帝)の遺志による。
出典: 周書 巻5 武帝紀上
死因の経緯
宣政元年(578年)5月、突厥親征中「帝不豫、止于雲陽宮」、6月「帝疾甚、還京。其夜、崩於乘輿。時年三十六」と明記される。具体的病名の記載はない。参考として、2024年に復旦大学等の科技考古チームが遺骸(股骨)を分析し高濃度の砒素を検出、長期の丹薬(道教の仙薬)服用による慢性砒素中毒が全身性疾患を招いた可能性を発表しており、原典の「疾病による死」という記述と矛盾しない補足知見として付記する。
出典: 周書 巻6 武帝紀下補記: 現代科学的知見の補足: 復旦大学科技考古研究院ほか2024年3月発表研究
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
武帝は武成二年四月に即位した際、先代(明帝)の元号「武成」をそのまま継続使用し(「即皇帝位、大赦天下」とあるのみで建元の記述なし)、独自の元号は建てていない。翌年正月に至って初めて「武成三年」を「保定元年」に改める形で最初の改元を行った。したがって即位に伴う建元は存在せず、実際に本紀上「改元」の語とともに記録される4回(保定・天和・建德・宣政への切替)のみをカウントした。
大赦回数
「大赦」「大赦天下」等と明記された全国規模の恩赦のみを9回としてカウントした。建徳六年正月甲午条の「詔去年大赦班宣未及之處、皆從赦例」は、前年(建徳五年十二月)の大赦を新たに平定した地域へ適用範囲を拡大する措置であり新規の大赦宣言ではないため別事象としてカウントしていない。また「降死罪一等」「曲赦蒲州見囚大辟以下」等の部分的・地域限定の恩赦は含めていない。
立后回数
本紀には「立…為皇后」「冊后」のような明示的な冊立記事はなく、この到着記事で初めて「皇后阿史那氏」という呼称が現れる。正式な冊立儀礼の日付そのものではなく到着記事を実質的な立后記録として採用したためconfidenceはmediumとした。武帝在位中に他の皇后・廃后・再冊立の記述はなく、阿史那皇后1名のみである。
皇太子廃立回数
建徳元年四月庚寅(略陽公を孝閔皇帝に追尊)に続き癸巳、「立魯國公贇為皇太子」(のちの宣帝宇文贇)と立太子した記事はあるが、本紀中に武帝在位中にこの皇太子を廃した記述は見られない。「五年春正月癸酉、吐谷渾偽趙王他婁屯來降」等の記事の間、皇太子贇はむしろ「撫巡西土」「討吐谷渾」など職務を継続して記載されており、廃立の事実は確認できないため0回とする。
親征回数
対象は北斉討伐の2回(577年の対等な独立政権=北斉への統一戦争。史料上「帝自将」「帝总戎东伐」等、皇帝本人の出陣が明記されている)。575年(建徳四年)の第一次親征は上有疾のため子城を落とせず班師し失敗、576-577年(建徳五-六年)の第二次親征で北斉を完全征服・滅亡させた。両者は間に一度帰京しており、かつ年を跨いでの再出征(575年→576年)のため『年を空けて同じ相手に再度出征した場合は別カウント』の基準に従い2回とした。なお578年(宣政元年)五月の対突厥『帝总戎北伐』は、帝が発進直後に発病して云阳宮に留まり、実際に前線へ赴くことなく全軍出兵中止(诏停诸军事)となったため、戦場に赴いた親征とは認めず計上していない。572年(建徳元年)の権臣宇文護誅殺は、帝自身が玉珽で不意打ちし護は無抵抗のまま殺害された宮中クーデターであり、軍事行動(対外・対反乱)ではないため親征に含めない。
反乱鎮圧回数
在位中(560年即位~578年6月崩御)に周朝支配下の者(属州の異民族・宗室・地方民・州刺史)が挙兵し、朝廷側が鎮圧に成功した事例6件。北営州刺史高宝宁の反乱(577年12月発生)は帝の在位終了(578年6月)までに鎮圧が完了しなかったため本カウントには含めず、被反乱側にのみ計上(史実として高宝宁の乱はその後も長期化し隋代まで継続)。572年の宇文護誅殺は帝自身が先制した無抵抗の宮中クーデターのため例外3に該当し両方から除外。南朝陳との吕梁での攻防(576-578年)は対等な独立政権との対外戦争のため除外。
被反乱回数
反乱鎮圧回数6件と同一の反乱をすべて含み、加えて在位終了(578年6月)までに鎮圧が完了しなかった北営州刺史高宝宁の反乱(例外2)を1件追加した計7件。572年の宇文護誅殺は帝自身が先制した無抵抗の宮中クーデター(原文『帝以玉珽自后击之,护踣于地』に護の武力抵抗の記述はなく、宦者による斬殺失敗後、匿れていた衛王直が斬った、という帝側の一方的な奇襲)であり、宇文護に挙兵・武力反抗の事実がないため例外3に該当し両方から除外した。
遷都回数
周書帝紀を通読。西魏から継承した長安が581年の隋への禅譲まで一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年(543年、大統九年)・没年齢36歳(「時年三十六」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(29件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦560年5月31日武成二年四月壬寅、即位に際して「即皇帝位、大赦天下」。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
改元561年2月1日保定元年正月戊申、詔に「改元命始、國之典章…可改武成三年為保定元年」とあり、先代明帝以来の「武成」を「保定」に改元。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
大赦562年6月18日保定二年五月庚午、「以山南衆瑞並集、大赦天下、百官及軍人、普泛二級」。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
大赦564年9月保定四年九月、「是月、以皇世母閻氏自齊至、大赦天下」。
保定四年九月、「是月、以皇世母閻氏自齊至、大赦天下」。具体的な日の干支は記載されず「是月」とのみある。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
改元566年2月10日天和元年正月癸未、「大赦改元」により「保定」から「天和」へ改元。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
大赦566年2月10日天和元年正月癸未、「大赦改元、百官普加四級」。
天和元年正月癸未、「大赦改元、百官普加四級」。改元と同日の大赦。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
反乱鎮圧566年9月信州蛮の反乱(第一次)
首謀者: 冉令賢・向五子王
結果: 開府陸騰が討伐し平定した。
周書巻五武帝紀上天和元年九月:『信州蛮冉令贤、向五子王反,诏开府陆腾讨平之。』完了日は原文に明記なし。
被反乱566年9月信州蛮の反乱(第一次)
首謀者: 冉令賢・向五子王
結果: 開府陸騰により鎮圧された。
鎮圧回数の同事例参照。
立后568年4月20日天和三年三月癸卯、「皇后阿史那氏至自突厥」。
天和三年三月癸卯、「皇后阿史那氏至自突厥」。保定五年二月辛酉に陳国公純・宇文貴・竇毅・楊薦らを突厥へ派遣して「逆女」(妃を迎える)させてから約3年を経てこの日に突厥可汗の女(阿史那皇后)が長安に到着した記事。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
大赦568年4月21日天和三年三月甲辰、「大赦天下、亡官失爵、並聽復舊」。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
反乱鎮圧571年4月信州蛮の反乱(第二次)
首謀者: 冉祖喜・冉龍驤
結果: 大将軍趙誾が討伐し平定した。
天和六年四月辛卯:『信州蛮渠冉祖喜、冉龙骧举兵反,遣大将军赵誾率师讨平之。』前回(566年)とは首謀者が異なる別件として集計。
被反乱571年4月信州蛮の反乱(第二次)
首謀者: 冉祖喜・冉龍驤
結果: 大将軍趙誾により鎮圧された。
鎮圧回数の同事例参照。
改元572年4月12日建德元年三月丙辰、宇文護誅殺当日に「大赦、改元」により「天和」から「建德」へ改元。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
大赦572年4月12日建德元年三月丙辰、大冢宰晋国公宇文護らを誅殺した当日に「大赦、改元。
建德元年三月丙辰、大冢宰晋国公宇文護らを誅殺した当日に「大赦、改元。罷中外府」。改元と同日の大赦。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
大赦572年5月19日建德元年四月癸巳、「立魯國公贇為皇太子、大赦天下、百官各加封級」。
建德元年四月癸巳、「立魯國公贇為皇太子、大赦天下、百官各加封級」。立太子と同日の大赦。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
大赦574年4月2日建德三年二月丙辰、詔に「宜加蕩滌、與民更始。
建德三年二月丙辰、詔に「宜加蕩滌、與民更始。可大赦天下」。
出典: 周書 巻五 武帝紀上
反乱鎮圧574年7月〜574年8月衛王直(宇文直)の反乱
首謀者: 衛剌王宇文直(武帝の実弟)
結果: 京師で挙兵し粛章門突入を試みるも司武尉遅運らが防戦して失敗、百余騎で逃走。八月辛卯に荊州で捕らえられ庶人に落とされた。
周書巻五建徳三年七月乙酉:『卫王直在京师举兵反,欲突入肃章门。司武尉迟运等拒守。直败,率百余骑遁走。』八月辛卯『擒直于荆州,免为庶人。』
被反乱574年7月〜574年8月衛王直(宇文直)の反乱
首謀者: 衛剌王宇文直
結果: 京師での挙兵は失敗、荊州で捕縛され庶人に落とされた。
鎮圧回数の同事例参照。
反乱鎮圧574年10月始州民王鞅の反乱
首謀者: 王鞅
結果: 大将軍鄭恪が討伐し平定した。
建徳三年冬十月丙辰:『始州民王鞅拥众反,大将军郑恪讨平之。』
被反乱574年10月始州民王鞅の反乱
首謀者: 王鞅
結果: 大将軍鄭恪により鎮圧された。
鎮圧回数の同事例参照。
親征575年7月〜575年9月北斉(高緯政権・河陰)
対象: 北斉(高緯政権・河陰)
結果: 河陰大城を陥落させたが子城は攻略できず、帝が発病したため九月に撤退(班師)。失敗に終わった第一次親征。
周書巻六武帝紀下建徳四年:『壬午,上亲率六军,众六万,直指河阴。』『丁未,上亲率诸军攻河阴大城,拔之。进攻子城,未克。上有疾。』『九月辛酉夜,班师』。
親征576年10月〜577年4月北斉(高緯・高延宗・高恒政権)
対象: 北斉(高緯・高延宗・高恒政権)
結果: 晋州・并州・鄴城を次々攻略し、北斉後主高緯・幼主高恒・僭立した安徳王高延宗を捕らえて北斉を滅亡させた。関東(河南北)を完全平定し577年四月に凱旋・献俘。
周書巻六:建徳五年冬十月『己酉,帝总戎东伐』。以後晋州攻略、并州平定(延宗を擒う)、建徳六年正月鄴城陥落・斉主捕縛、四月乙巳『至自东伐』『献俘于太庙』。
大赦577年1月22日建德五年十二月壬戌、北斉の安徳王高延宗を擒え並州を平定した後の詔に「新舊臣民、皆從蕩滌。
建德五年十二月壬戌、北斉の安徳王高延宗を擒え並州を平定した後の詔に「新舊臣民、皆從蕩滌。可大赦天下」。
出典: 周書 巻六 武帝紀下
反乱鎮圧577年11月稽胡の反乱
首謀者: 不明(稽胡=服属異民族集団、首謀者名の記載なし)
結果: 斉王宇文憲が軍を率いて討伐し平定した。
周書巻六建徳六年十一月:『是月,稽胡反,遣齐王宪率军讨平之。』
被反乱577年11月稽胡の反乱
首謀者: 不明
結果: 斉王宇文憲により鎮圧された。
鎮圧回数の同事例参照。
反乱鎮圧577年12月東寿陽の民の反乱
首謀者: 不明(東寿陽の土人、首謀者名の記載なし)
結果: 衆五千を率いて并州城を襲撃したが、并州刺史・東平公宇文神挙が同月中に撃破し平定した。
建徳六年十二月己未:『东寿阳土人反,率众五千袭并州城,刺史东平公宇文神举破平之。』
被反乱577年12月東寿陽の民の反乱
首謀者: 不明
結果: 宇文神挙により同月中に鎮圧された。
鎮圧回数の同事例参照。
被反乱577年12月北営州刺史高宝寧の反乱
首謀者: 高宝寧(北営州刺史)
結果: 未鎮圧のまま武帝の在位が終了(578年6月崩御)。周書本紀には帝在世中の鎮圧記事がなく、史実として高宝寧の抵抗はその後も継続した。
周書巻六建徳六年十二月:『是月,北营州刺史高宝宁据州反。』以降、宣政元年(578年)正月~六月の記事にも鎮圧の記載はない。例外2(未鎮圧のまま在位終了)に該当し鎮圧回数には含めず被反乱のみに計上。
改元578年4月17日宣政元年三月壬辰、「改元」により「建德」から「宣政」へ改元(この3か月後の同年六月に武帝は崩御)。
出典: 周書 巻六 武帝紀下