廃帝・臨海王
陳(南北朝)|在位 566–568年

- 諱(本名)
- 陳伯宗
- 在位
- 566–568年
- 在位期間
- 2年211日365名中242位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 19歳(数え年)269名中・長寿順240位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
世祖(文帝)の嫡長子として、父の崩御と同日に即位。通常の父子継承。
出典: 陳書/卷四 本紀第四 廢帝補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
『陳書』卷四本紀は「太建二年四月薨,時年十九」とのみ記し死因を示していない。『南史』卷十も同様。同母弟・始興王陳伯茂は陳頊(宣帝)の刺客により確実に暗殺されており、現代の通説では廃帝も宣帝による暗殺が有力視されているが、原典に直接の記述がないため原典に忠実に不詳を採用(暗殺説はここに併記の通り)。
出典: 陳書/卷四 本紀第四 廢帝;南史/卷十 陳本紀下第十補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
廢帝は即位時に新元号を建てず父世祖の「天康」年号を継続使用したため即位建元はカウントしない。在位中の改元は「天康→光大」の1回のみ。
大赦回数
「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦は即位時と光大改元時の2回。冬十月辛巳の「赦湘、巴二州为皎所诖误者」は湘・巴二州限定の部分的恩赦のためカウント対象外。
立后回数
在位中に立后は1回のみで、廃后・再冊立の記載はない。
皇太子廃立回数
光大元年七月戊申に皇子至泽を皇太子に立てた記事はあるが、廃帝在位中にこの皇太子が廃されたとする記載は本紀中に見られない。廃帝自身が光大二年十一月甲寅に慈訓太后の令により皇帝位を廃され臨海郡王に降格されているが、これは皇太子の廃立ではなく皇帝本人の廃位であるためカウント対象外。
親征回数
廢帝(陳伯宗)は天康元年(566年)即位時に約12歳、光大二年(568年)廃位時も未成年(太建二年570年薨去時「時年十九」から逆算し廃位時は14歳前後)で、実権は終始叔父の安成王陳頊(太傅・録尚書・都督中外諸軍事)が握っていた。陳書卷四・南史卷十本紀を通読したが「帝自将」「親征」「帝率衆」等、皇帝本人が出陣したことを示す記述は皆無。「舆驾亲祠太庙」「舆驾亲祠南郊」等の記事はいずれも宗廟・南郊での祭祀であり軍事行動ではない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
陳書卷四・南史卷十本紀に加え、daizhigev20版陳書列傳(到仲挙傳・韓子高傳・華皎傳)も確認した。光大元年中に発覚した『到仲挙・韓子高の陰謀』(右衛将軍韓子高が到仲挙父子と結び東城に屯拠し安成王頊に迫ろうとした計画で、決行予定日(本月七日)前に密告により発覚し韓子高・到仲挙父子が処刑された事案。原文『竝克今月七日,縱其兇謀。頼祖宗之霊,姦謀顕露』)、及び『建安人張安国の反乱未遂』(章太后が宦官蒋裕を通じ張安国を誘い挙兵させ安成王頴頊打倒を図った計画で、原文『安国事覚,並為高宗所誅』)は、いずれも実際の挙兵・戦闘に至る前に発覚・鎮圧された謀反計画であり、本紀の逐日記事にも記載されないことから、本基準の『未然に発覚し実際の挙兵に至らなかった謀反計画』に該当すると判断し不算入とした。また光大二年十一月の廃帝自身の廃位(安成王頴頊による)は最重要事件だが、原文(陳書卷四・南史卷十いずれも)には慈訓太后の令による形式的な廃位手続きとして記され、兵力を用いたことを示す明示的な記述(挙兵・入宮・弑逆等の語)がないため、反乱鎮圧回数には計上していない(自身が鎮圧する立場にないため元々対象外)。
被反乱回数
光大二年十一月甲寅、廃帝は慈訓太后(章太后)の令により臨海郡王へ降封され廃位された(陳書卷四・南史卷十)。ユーザー提示の参考情報にある通りこれが在位中最重要の政治事件だが、原文には『挙兵』『称兵』『兵入』等、武力行使を示す語が一切なく、太傅・録尚書・都督中外諸軍事として既に全軍を掌握していた安成王頴頊が、太后の詔勅という形式的手続きのみで廃位を完了させたと読める(廃帝は当日『出居別第』と記されるのみで、拘禁・殺害等の直接的暴力の記述もこの時点ではない。廃帝の死去は2年後の太建二年570年で死因は原典に記載なし別途死因調査済み)。近年の研究(日本語Wikipedia等の概説)でも『直接的な軍事クーデターというよりも…宮廷内の権力闘争』と評されており、原典・後世評価の双方から見て例外4(兵力を伴う弑逆・クーデター)の典型例と断定する根拠に乏しいと判断し、被反乱回数には計上しなかった。ただし安成王頴頊が都督中外諸軍事として軍事的実権を既に掌握した状態での廃位である点は事実上の武力を背景にした権力移行と見る余地もあり、この判断はconfidence: mediumとし、将来的な再検討の余地を残す。到仲挙・韓子高の陰謀、建安人張安国の反乱未遂については反乱鎮圧回数のnote参照(いずれも挙兵前に発覚・鎮圧されたため不算入)。
遷都回数
陳書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から589年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年(554年、梁承聖三年)・没年齢19歳(「時年十九」)はいずれも直接記載。廃位後(皇帝在位期間外)の崩御だが人物の生没情報として記録。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(8件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦566年5月31日天康元年四月癸酉、世祖崩御の当日に皇太子伯宗が即位、詔に「可大赦天下」とある
出典: Wikipedia中国語版記事「陈书本纪第四 廢帝」
反乱鎮圧567年3月余孝頃の乱
首謀者: 余孝頃(宣毅将軍・南豫州刺史)
結果: 鎮圧成功(即日処刑)
陳書卷四本紀「光大元年二月辛亥,宣毅将軍、南豫州刺史余孝頃謀反伏誅」。陳朝任命の地方長官(南豫州刺史)による反乱で、発覚・鎮圧・処刑が同一記事内に記される即決事案。南史卷十には対応する明示的記事なし(陳書のみ)。日付はグレゴリオ暦へ機械換算した概算(原文表記:光大元年二月辛亥)。
被反乱567年3月余孝頃の乱
首謀者: 余孝頃(宣毅将軍・南豫州刺史)
結果: 鎮圧成功(即日処刑)
反乱鎮圧回数と同一事案。陳書卷四「光大元年二月辛亥,宣毅将軍、南豫州刺史余孝頃謀反伏誅」。
反乱鎮圧567年6月〜567年10月華皎の乱
首謀者: 華皎(安南将軍・湘州刺史)
結果: 鎮圧成功。華皎は単舸で北周方の江陵へ逃亡、官軍(都督淳于量・呉明徹ら)が北周将拓跋定を捕虜とし兵1万余・馬4千余を鹵獲。
陳書卷四「光大元年五月…安南将軍、湘州刺史華皎謀反,丙申,以中撫大将軍淳于量為使持節、征南大将軍,総率舟師以討之」、及び「是月,周将長胡公拓跋定率歩騎二萬入郢州,与華皎水陸倶進,都督淳于量、呉明徹等与戦,大破之。皎単舸奔江陵,擒拓跋定」。湘州刺史華皎は陳朝の任命官(服属する臣下)であり、後梁蕭巋を擁立し北周軍(拓跋定の援軍二万)と連合したが、これは外部勢力との対等な統一戦争ではなく、あくまで陳朝内部の臣下による離反・反乱に北周が加担した構図(帰属主体は華皎側)と判断し、鎮圧・被反乱の双方に計上した。なお光大二年十一月の廃帝廃位詔(慈訓太后令)は「於是密詔華皎,称兵上流」とし、廃帝本人がこの乱を密かに指示したと非難しているが、これは廃帝を排除した安成王頊側が事後(廃位当日)に発した政治的正当化文書内の一方的主張であり、逐日記事の本紀本文にはこの点を裏付ける記述がない。したがって本件を廃帝自身の先制攻撃(例外3)とは断定せず、通常の反乱(服属する臣下の離反)として計上した。confidence: medium(廃帝本人の関与の有無については異説の余地あり)。
被反乱567年6月〜567年10月華皎の乱
首謀者: 華皎(安南将軍・湘州刺史)
結果: 鎮圧成功。華皎は北周方へ逃亡、官軍が北周援軍を撃破。
反乱鎮圧回数と同一事案。詳細は反乱鎮圧回数側のnote参照。廃帝廃位詔は本乱を廃帝本人の密命によるものと主張するが、逐日記事では未確認のため確定的事実とはせず、通常の被反乱として計上した(confidence: medium)。
改元日付不詳即位時は世祖の元号「天康」をそのまま継続使用(新規建元なし)。
即位時は世祖の元号「天康」をそのまま継続使用(新規建元なし)。光大元年正月乙亥の詔で「改天康二年为光大元年」とあり、天康から光大へ改元。
出典: Wikipedia中国語版記事「陈书本纪第四 廢帝」
大赦日付不詳光大元年正月乙亥の詔に「可大赦天下。
光大元年正月乙亥の詔に「可大赦天下。改天康二年为光大元年」とあり、改元と同時に大赦天下を実施
出典: Wikipedia中国語版記事「陈书本纪第四 廢帝」
立后0566-08-XX天康元年秋七月丁酉、「立妃王氏为皇后」とあり、王妃を皇后に冊立
出典: Wikipedia中国語版記事「陈书本纪第四 廢帝」