廃帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 566年5月31日〜568年12月27日
- 没年
- 570年5月19歳(数え年)長生き順同率237位/266人
- 死因
- 不詳死因を書いた記録が史書に見当たらない。同じ死因31人/365人
- 呼び名
- 姓陳諱伯宗字奉業幼名薬王別称臨海王呼び名の見方
出典
- 在位
- 陳書 本紀第四 廃帝紀
- 死因
- 陳書/卷四 本紀第四 廢帝;南史/卷十 陳本紀下第十
- 即位経路
- 陳書/卷四 本紀第四 廢帝
生涯
どんな皇帝か
陳書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、仁厚だが懦弱で是非を混同したと評して帝摯や漢の恵帝の類とする。
即位まで
文帝の嫡長子で、母は沈皇后である。父の即位で皇太子に立てられた。父はこの子が仁弱で家業を継げないと案じ、臨終に安成王へ太伯に倣いたいと告げたが、安成王は泣いて固く辞退した。566年に父が没し、同日に即位した。
治世と最期
劉師知が叔父の安成王の権勢を忌み、偽の勅で東府へ帰らせようとした。毛喜が問いただすと、太后も帝も自分の意ではないと答え、安成王は劉師知を捕らえ、劉師知はその夜獄中で死を賜った。以後、政事はすべて安成王に帰した。567年、湘州刺史州という地方の区画を治めた長官の華皎が背き、北周軍と水陸から進んだが、大敗して江陵へ逃げた。
568年、武帝の皇后で太皇太后皇帝の祖母の代の后に贈る称号の章氏が、令によって帝を臨海王に降した。令は、劉師知らに太傅皇帝を補佐し導く、最高位の重臣の位を排斥させ、華皎に密詔皇帝や太后がひそかに出した命令して挙兵させたことのほか、喪中にも悲しまず、蓄えを後宮に注いで尽くしたことを廃位の理由に挙げた。同母弟で父に愛された始興王陳伯茂は、劉師知の偽の勅を勧め、韓子高らの謀反にもひそかに加わっていた。帝が廃された日に侯に降され、移る途中で盗に遭って車中で死んだ。帝は廃された日に別第本邸とは別の屋敷へ移り、570年に没した。
史料について
帝の答えを、資治通鑑は朕は知らないとする。資治通鑑はこの令を、帝が劉師知や華皎と通謀したと誣いたものだと書く。華皎伝は、華皎は韓子高が誅された後に不安になって兵を集めたとし、密詔には触れない。王固伝は、外戚皇帝の母や皇后の実家の一族の王固のもとで密旨君主がひそかに下した命令がしきりに伝えられて発覚したと書くが、何の密旨かは書かない。伯茂の死を、陳書の伝は誰の差し金か書かず、南史と資治通鑑は安成王が盗に殺させたとする。帝の死を、陳書と南史の本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は記すが死因を書かず、資治通鑑のその年の条には死の記事が無い。
廃帝とつながる皇帝

勢力図
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566–568年の地図に、廃帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱2・皇后1・改元1・大赦2
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。566年5月31日
- 皇后566年8月23日皇后を立てる
- 改元567年元号を「光大」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。567年
- 反乱567年余孝頃の乱
- 反乱567年華皎の乱
陳の歴代皇帝
歴代5人の一覧- 第1代武帝557–559年病死
- 第2代文帝559–566年病死
- 第3代廃帝566–568年不詳
- 第4代宣帝569–582年病死
- 第5代後主582–589年病死
年表
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陳が
