文帝
陳(南北朝)|在位 559–566年

- 諱(本名)
- 陳蒨
- 廟号
- 世祖
- 在位
- 559–566年
- 在位期間
- 6年289日365名中162位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 不詳
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 6回267名中67位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 6回225名中68位タイ
- 被反乱
- 6回289名中82位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:文帝
即位の経緯
『陳書』公式記録は「高祖崩,遺詔徵世祖入纂」(遺詔による継承)。『南史』侯安都伝には「今日之事,後應者斬」と剣を提げて強制的に推戴したという別の記述があり、実態は重臣主導の擁立的性格を持つ境界事例だが、正史本紀の公式記述を採用し世襲に分類(実態はここに併記の通り)。
出典: 陳書/卷三 本紀第三 世祖(公式記述);南史/卷六十六 列傳第五十六 侯安都(実態)補記: zh.wikisource.org+WebSearch経由で南史原文確認
死因の経緯
「世祖疾甚。是日,崩於有覺殿」、遺詔にも「疾苦彌留,遂至不救」(陳書卷三)。重篤な疾病による崩御。
出典: 陳書/卷三 本紀第三 世祖補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
世祖は即位当初は高祖の元号「永定」を継続使用(永定三年〜四年)。天嘉元年正月に初めて改元(永定四年→天嘉元年)、これを即位後最初の建元として1回目に計上。天康元年二月に天嘉七年→天康元年へ再改元。
大赦回数
「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみ計上。「曲赦」(京師・湘州諸郡・東陽郡・建安晋安二郡等の地域限定恩赦、計6回言及あり)および「赦京師殊死已下」(天嘉元年四月辛丑、京師限定)は範囲限定のため除外。即位当日の大赦(永定三年六月)を1回目として起算。
立后回数
即位直後の永定三年九月に一度のみ立后。再冊立の記事なし。
皇太子廃立回数
本紀に該当記事なし。永定三年九月辛酉に皇子伯宗を皇太子に立てた記事はあるが(立太子)、廃太子の記事は本紀中に見られない。
親征回数
陳書卷三(世祖本紀)を通読したが、在位期間(永定三年六月~天康元年四月、559~566年)中に世祖自身が「親征」「帝自将」等の形で出陣した記述は見当たらない。王琳・熊曇朗・留異・周迪・陳宝応らへの対応はすべて侯瑱・侯安都・徐度・周迪・章昭達ら将軍への派遣によるもので、皇帝本人の出征はない。よって該当記事なしとして0件とした。
反乱鎮圧回数
王琳(旧梁将軍・北斉支援下の対立擁立)を服属者の離反反乱として計上する判断、紀機・留異・陳宝応を王琳・周迪と別件に切り分けた粒度判断、熊曇朗のように反乱開始が高祖代に遡る事例の扱いなど、いずれも指示文の基準に沿って判断したが史料の記述が簡潔で境界事例を含むためconfidenceはmediumとした。侯安都の誅殺(天嘉四年六月)は挙兵の記述がなく皇帝側による先制的処断とみなし、反乱には計上していない。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと完全に対称(同一6件)とした。いずれも皇帝側(陳)が鎮圧の主体であり、鎮圧側と被反乱側で粒度・結果が食い違う事例はなかった。侯安都の誅殺は挙兵を伴わない先制的処断とみなし対象外とした。
遷都回数
陳書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から589年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
陳書卷三(世祖本紀)・南史・資治通鑑(世祖文皇帝紀)を通読したが、生年月日・即位時年齢・崩御時の享年(「時年○○」等)の直接記載が見当たらなかった。他の陳朝皇族(弟の高宗陳頊は「梁中大通二年七月辛酉生」と明記)とは異なり、世祖蒨自身の生年に関する記述は原典に確認できず。deathDateは陳書「天康元年…四月…癸酉,崩於有覺殿」(reigns[0].endDateと一致)。調査済みだが年齢は不明として確定。
在位中の出来事(21件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦559年8月17日即位当日(永定三年六月・世祖即皇帝位当日)の詔で「可大赦天下,罪無輕重,悉皆蕩滌」と発令。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
反乱鎮圧559年11月〜560年2月王琳・蕭荘の乱
首謀者: 王琳(旧梁の将軍。北斉の支援を得て蕭荘を擁立)
結果: 鎮圧成功
王琳は梁末の将軍で、高祖陳霸先による禅譲(陳の建国)を認めず抵抗を続けていた勢力(高祖紀では即位直後の557年時点から周文育・侯安都を郢州で破り捕虜とするなど既に交戦しており、陳に服属していない旧梁遺臣という性格が強い)。永定三年(559)十一月に大雷へ侵攻し建康に迫ったため、世祖は太尉侯瑱・司空侯安都・仪同徐度を派遣して防がせた。天嘉元年(560)二月、侯瑱が梁山で王琳を破り、斉将劉伯球を生擒、王琳とその擁立した蕭荘(永嘉王)は敗れて北斉へ亡命した。北周・北斉の対外的支援は背景として区別し、王琳自身の挙兵・離反行為を服属者による反乱として鎮圧回数に計上した(指示文の判定方針に従う)。
被反乱559年11月〜560年2月王琳・蕭荘の乱
首謀者: 王琳(旧梁の将軍。蕭荘を擁立)
結果: 撃退成功(王琳・蕭荘は北斉へ敗走)
rebellionSuppressionCountと同一事件。北斉の支援を受けた王琳が大雷から建康に迫ったが、天嘉元年二月に梁山で撃破され、王琳・蕭荘は北斉へ亡命した。
反乱鎮圧560年〜564年留異の乱
首謀者: 留異(縉州刺史)
結果: 鎮圧成功(最終的に捕縛され京師に送られた)
陳書卷三の天嘉二年十二月の記事に「先是、縉州刺史留異応於王琳等反」とあり、正確な挙兵時期は明記されないが王琳の活動期(天嘉元年頃、560年)に遡ると推測されるためyear精度・推定startDateとした。天嘉二年(561)十二月丙戌、司空侯安都に討伐を命じ、天嘉三年(562)正月庚寅に桃支嶺で留異を破り、留異は身一つで晋安へ逃亡(東陽郡平定)。その後、晋安で陳宝応と合流し抵抗を続けたが、天嘉五年(564)十一月丁亥、章昭達が建安で陳宝応を破った際に留異も共に捕らえられ京師へ送られた。長期にわたるが首謀者が同一のため1件として集計した。
被反乱560年〜564年留異の乱
首謀者: 留異(縉州刺史)
結果: 最終的に捕縛された
rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧560年2月紀機の叛乱(王琳に呼応)
首謀者: 紀機(高州刺史)
結果: 鎮圧成功
天嘉元年二月乙未、高州刺史紀機が軍を離れて宣城に還り、郡を拠点として王琳に呼応して叛いた。同時期の記事により泾令賀当遷が討平したとのみ記され、日付の幅は不明だが同月内で決着したとみられる。王琳の乱と連動するが首謀者・蜂起地点が異なるため別件として計上した。
被反乱560年2月紀機の叛乱(王琳に呼応)
首謀者: 紀機(高州刺史)
結果: 鎮圧された
rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧562年2月〜565年7月周迪の乱
首謀者: 周迪(江州刺史)
結果: 鎮圧成功(最終的に討たれ梟首)
天嘉三年(562)閏二月己酉、江州刺史周迪が留異に呼応して挙兵し湓城を襲い豫章郡を攻めたが陥とせず。同年九月に一時降伏。天嘉四年(563)正月、再び城を棄てて逃走し閩州刺史陳宝応の庇護を受けた(臨川郡は平定)。同年九月に再度臨川へ侵寇し、護軍章昭達が討伐、十一月に大破し党与を捕えたが周迪自身は潜伏を続け、天嘉六年(565)七月丙戌、臨川太守駱文牙がついに斬り、首級を京師に送り朱雀航に梟した。閏月は暦月換算の都合上「02」として扱った(datePrecisionはmonth)。首謀者が同一のため一連の挙兵・逃亡・再挙兵を1件として集計した。
被反乱562年2月〜565年7月周迪の乱
首謀者: 周迪(江州刺史)
結果: 最終的に討たれた
rebellionSuppressionCountと同一事件。
反乱鎮圧563年1月〜564年11月陳宝応の乱
首謀者: 陳宝応(閩州刺史)
結果: 鎮圧成功
天嘉四年(563)正月甲申、閩州刺史陳宝応が逃亡してきた周迪を受け入れて匿い朝廷に反抗する姿勢を明確にした。天嘉五年(564)十一月丁亥、護軍章昭達が建安で陳宝応を破り、留異とともに捕らえて京師に送り、晋安郡を平定した。留異とは合流していたが首謀者・拠点(閩州)が異なるため別件として計上した。
被反乱563年1月〜564年11月陳宝応の乱
首謀者: 陳宝応(閩州刺史)
結果: 捕縛された
rebellionSuppressionCountと同一事件。
改元日付不詳天嘉元年春正月癸丑「改永定四年為天嘉元年」(世祖即位後最初の建元)。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
改元日付不詳天康元年春二月丙子「改天嘉七年為天康元年」。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
大赦日付不詳天嘉元年春正月癸丑、改元の詔中に「其大赦天下」とあり、同日「改永定四年為天嘉元年」で改元も実施(同一詔での併記)。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
大赦日付不詳天嘉二年春正月庚戌「大赦天下」。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
大赦日付不詳天嘉三年三月甲申「大赦天下」。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
大赦日付不詳天嘉四年十二月丙申「大赦天下」。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
大赦日付不詳天康元年春二月丙子、改元の詔中に「可大赦天下」とあり、同日「改天嘉七年為天康元年」で改元も実施(同一詔での併記)。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
立后日付不詳永定三年九月乙亥「立妃沈氏為皇后」。
出典: 陈书卷三 世祖本纪
反乱鎮圧日付不詳熊曇朗の乱
首謀者: 熊曇朗(北江州刺史)
結果: 鎮圧成功(討たれ梟首)
陳書卷二(高祖紀)によれば永定三年(559)五月乙酉、北江州刺史熊曇朗が都督周文育を軍中で殺害して挙兵した。これは世祖の即位(同年六月)より前だが、反乱自体は世祖の治世に入っても継続し、天嘉元年(560)三月丁巳、江州刺史周迪が南中を平定し熊曇朗を斬って首を京師に伝えた。反乱の発生は高祖代だが、鎮圧完了は世祖代のためここに計上し、startDateは在位期間外のためnullとした。
被反乱日付不詳熊曇朗の乱
首謀者: 熊曇朗(北江州刺史)
結果: 鎮圧され熊曇朗は斬られた
rebellionSuppressionCountと同一事件。反乱発生は高祖代(559年5月)だが、世祖即位後も反乱状態が継続していたため被反乱としても計上した。