宣帝
陳(南北朝)|在位 569–582年

- 諱(本名)
- 陳頊
- 廟号
- 高宗
- 在位
- 569–582年
- 在位期間
- 13年15日365名中103位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 53歳(数え年)269名中・長寿順71位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 6回267名中67位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:宣帝
即位の経緯
公式記録は「慈訓太后令廢帝為臨海王,以高宗入纂」(皇太后の詔による迎立)という形式を取るが、『陳書』卷20到仲舉・韓子高列傳から、陳頊が輔政の地位を利用し政敵(到仲舉・韓子高ら)を粛清した末に廃帝を退け即位した実態が確認できる。形式は推戴だが実質的な政敵排除を経た権力奪取のため簒奪に分類。
出典: 陳書/卷五 本紀第五 宣帝;陳書/卷二十 列傳第十四 到仲舉・韓子高・華皎補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
「高宗弗豫。甲寅,崩於宣福殿,時年五十三」、遺詔にも「爰自遘疾,曾未浹旬,醫藥不瘳,便屬大漸」(陳書卷五)。急病による自然死。
出典: 陳書/卷五 本紀第五 宣帝補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
宣帝在位中の改元は即位に伴う光大三年→太建元年の一度のみ。太建十四年(582年)崩御まで太建の年号が継続し、次の改元(至德)は後主(陳叔宝)の代に行われたため宣帝の在位期間には含めない。
大赦回数
「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみを計上した。太建六年正月の詔に見える「可赦江右淮北南司…十五州…罪無輕重,悉皆原宥」や太建二年三月丙午の「曲赦廣、衡二州」は地域限定の恩赦であり対象外とした。日付は干支日から旧暦年月をグレゴリオ暦の年月に変換したもので、日単位までの厳密な換算は行っていない(即位日と同日の事例のみ既知の即位日0569-02-05を使用)。
立后回数
宣帝の在位中、皇后冊立の記述は即位時の柳氏立后の一度のみで、廃后・再冊立の記載はない。
皇太子廃立回数
太建元年正月甲午、世子叔宝を皇太子に立てて以降、宣帝の在位中(太建元年~十四年)に皇太子が廃されたという記述は本紀中に見当たらない。叔宝は宣帝崩御時にそのまま皇太子から即位(後の後主)した。なお光大二年十一月に「慈訓太后令廢帝為臨海王」とあるのは、宣帝が皇太弟として先帝(廃帝陳伯宗)を廃立させた事件であり、これは宣帝自身が擁立された皇太子・皇太弟の廃立ではなく先帝(皇帝)の廃位なので本項目には該当しない。
親征回数
陳書卷五本紀を通読したが「帝自将」「親征」等、宣帝自身が軍を率いて出陣したことを示す記述は見当たらない。太建五年(573)・七年(577)・九年(579)〜十年(578の呂梁での大敗)の対北斉・北周の北伐はいずれも呉明徹・黄法抃・淳于量・任忠・樊毅ら諸将が都督として率いており、皇帝本人は建康に留まり亲祠太庙・亲耕藉田等の儀礼のみを行っている。また北伐自体は対等な独立政権(北斉・北周)との対外戦争のため、仮に皇帝親征があったとしても本カウントの対象外となる性質のものである。該当記事なしのためcount 0。
反乱鎮圧回数
陳書卷五本紀に明記された2件の内部反乱(欧陽紇・田伯興)を計上。北伐(呂梁の戦い等、対北斉・北周)は対等な独立政権との対外戦争のため除外。太建十二年(580)の北周の司馬消難による九州八鎮を挙げての陳への内附(投降)は、陳への反乱ではなく北周からの離反・帰順であり、陳側の反乱鎮圧には該当しないため計上せず。
被反乱回数
鎮圧回数と対称的に同じ2件を計上。宣帝は太建十四年(582)正月に自然死(弗豫→崩)しており、クーデター・弑逆による死ではないため、それに関連する被反乱事件はなし。
遷都回数
陳書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から589年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年月(梁中大通二年七月)・没年齢53歳(「時年五十三」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(12件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元569年2月5日太建元年正月甲午、即位の詔で「可改光大三年為太建元年」とあり、即位に伴い光大三年を太建元年に改元。
太建元年正月甲午、即位の詔で「可改光大三年為太建元年」とあり、即位に伴い光大三年を太建元年に改元。以後、宣帝崩御(太建十四年)まで年号「太建」のまま推移し、他に改元の記述はない。
出典: 陳書本紀第五 宣帝
大赦569年2月5日太建元年正月甲午、即位の詔で「可改光大三年為太建元年。
太建元年正月甲午、即位の詔で「可改光大三年為太建元年。大赦天下。」と、改元と同日に大赦天下を布告。
出典: 陳書本紀第五 宣帝
立后569年2月5日太建元年正月甲午、即位の詔と同日に「立妃柳氏為皇后」とあり、柳氏が皇后に正式冊立された。
太建元年正月甲午、即位の詔と同日に「立妃柳氏為皇后」とあり、柳氏が皇后に正式冊立された。以後、在位中に皇后が交代・再冊立された記述はない。
出典: 陳書本紀第五 宣帝
反乱鎮圧569年10月〜570年2月欧陽紇の広州挙兵
首謀者: 欧陽紇
結果: 鎮圧成功(生擒され建康で斬首、広州平定)
太建元年(569)冬十月、新除左衛将軍欧陽紇が広州に拠って挙兵。皇帝は車騎将軍・開府儀同三司章昭達を派遣して討伐させ(皇帝本人は出陣せず)、太建二年(570)二月癸未に章昭達が欧陽紇を捕らえて建康に送り、建康市で斬った。「広州平」と明記。欧陽紇は陳朝の官職(左衛将軍)を帯びた服属官であり、独立政権との抗争ではなく政権内部の反乱に該当。
被反乱569年10月〜570年2月欧陽紇の広州挙兵
首謀者: 欧陽紇
結果: 鎮圧され欧陽紇は処刑
rebellionSuppressionCountと同一事件。左衛将軍欧陽紇が広州で挙兵、章昭達により鎮圧・処刑された。
大赦570年3月太建二年三月丁未、「大赦天下」。
太建二年三月丁未、「大赦天下」。同月丙午に「曲赦廣、衡二州」(地域限定の恩赦)があるが、これは全国規模ではないためカウントしない。
出典: 陳書本紀第五 宣帝
大赦571年3月太建三年三月丁丑、「大赦天下」。
太建三年三月丁丑、「大赦天下」。天康元年から太建元年までの未納の軍糧・禄秩等を免除する詔も併せて出された。
出典: 陳書本紀第五 宣帝
大赦572年9月太建四年九月辛亥、「大赦天下」。
出典: 陳書本紀第五 宣帝
大赦578年3月太建十年三月乙酉、「大赦天下」。
出典: 陳書本紀第五 宣帝
反乱鎮圧578年12月廬江の蛮・田伯興の乱
首謀者: 田伯興
結果: 鎮圧成功
太建十年(578)十二月乙亥、合州廬江郡の蛮(異民族属民)田伯興が挙兵して枞陽を寇し、刺史鲁広達がこれを討平した(同一記事内で発生と鎮圧が完結)。廬江は陳朝支配下の郡県であり、服属する異民族属民の蜂起として反乱に計上。
被反乱578年12月廬江の蛮・田伯興の乱
首謀者: 田伯興
結果: 鎮圧され乱は平定
rebellionSuppressionCountと同一事件。廬江の蛮田伯興が枞陽を寇し、刺史鲁広達が討平した。
大赦579年11月太建十一年十一月辛卯、詔に「可大赦天下」とあり。
太建十一年十一月辛卯、詔に「可大赦天下」とあり。北周軍来攻直前の大赦。
出典: 陳書本紀第五 宣帝