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後主の肖像画

陳(南北朝)第5代

後主陳叔宝

在位 582–589年(6年356日)582年2月20日 〜 589年2月10日

日本は古墳時代

陳叔宝は陳の宣帝ので、父を継いだが酒宴と詩にふけり、隋に国を滅ぼされた陳最後の皇帝である。

後主の人物データ

生年
553年12月10日
在位
  • 582年2月20日〜589年2月10日
6年356日長い順159位/365人即位の年齢は不詳589年に在位を終え、15年後の604年に没
没年
604年12月16日52歳(数え年)長生き順同率73位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 宣帝陳後主は宣帝の子
次代
—
呼び名
姓陳諱叔宝字元秀幼名黄奴諡号煬呼び名の見方
目立つ記録
  • 皇太子を廃した 1回多い順同率4位

出典

在位
陳書 本紀第六 後主
死因
陳書/卷六 本紀第六 後主
即位経路
陳書/卷六 本紀第六 後主

生涯

どんな皇帝か

陳書末の曰は、太子の時から美徳を表したとしつつ、旧弊を改めぬうちに施文慶らが要務を専らにしたとし、滅亡は天意でもあったと結ぶ。魏徵の論は、婦人の手で育って民の苦しみを知らず、小人に政を委ねたと評する。

即位まで

宣帝の嫡長子で、553年に江陵で生まれた。江陵が陥ちると穣城に留められ、562年に建康へ帰った。569年に皇太子に立てられた。582年に父が没すると、翌朝、弟の陳叔陵が陳叔宝の首に斬りつけた。陳叔宝は助かり、陳叔堅が刀を奪った。叔陵は東府で兵を集めたが討たれ、陳叔宝が即位した。

史料について

助かった様子を、陳書の叔陵伝は乳母が叔陵の肘を引いて陳叔宝が自ら振りほどいて逃れたとし、叔堅伝は気を失った彼を太后と乳母が身でかばったとする。

治世と最期

傷で臥した間に侍ったのは張だけだった。のちに三つの楼閣を建て、妃らの容色を讃える玉樹後庭花などを宮女に歌わせた。江総・孔範らと日々後庭で遊宴し、彼らは狎客と呼ばれた。讒言で獄に下された傅縡が酒色を諫めると、大いに怒ったが、やがて改められるかと問わせて赦そうとした。心は顔と同じで変えられないと返されて、傅縡に死を賜った。してした章華を、その日のうちに斬らせた。

588年、隋が攻め入ったが、施文慶らが奏聞を抑え、陳は備えなかった。陳叔宝ははここにあると言い、長江は渡れないという孔範の言を笑って容れて、酒宴を続けた。589年、隋軍が長江を渡り、任忠が降って宮城へ導いた。陳叔宝は袁憲に諫められても井戸に入り、張貴妃らとともに隋軍に引き上げられた。

長安に送られると、隋の文帝は赦して厚く賜ったが、官号を求めたと聞くと全く心肝が無いと言い、監視役は彼が常に酔っていると報告した。604年に洛陽で没し、煬と諡された。

史料について

楼閣と歌の話は、陳書の后妃伝の末に魏徵が記録と古老の話から書き加えた段にある。陳書の施文慶伝は、奏聞が抑えられたので陳叔宝は知らなかったとし、資治通鑑は、袁憲らが再三願い出たが施文慶・江総に阻まれて議論が決まらなかったとする。井戸に一緒に入ったのを、陳書の后妃伝は張貴妃とし、南史と資治通鑑は張貴妃と孔貴人(資治通鑑は孔)とする。死因は、陳書と南史の本紀、資治通鑑、隋書のどれも書かない。

後主とつながる皇帝

南北朝の勢力図(582年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

582–588年の地図に、後主が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱2・皇后1・皇太子1・改元2・大赦10
  1. 反乱582年2月始興王叔陵の乱
  2. 改元583年元号を「至徳」とする
  3. 反乱585年章大宝の乱
  4. 改元587年元号を「禎明」とする
  5. 日付不詳即位の詔で大赦。
  6. 日付不詳
  7. 日付不詳太極殿での無㝵大会・捨身に伴い大赦。
  8. 日付不詳太建十五年を至德元年に改元する詔とともに大赦(改元とセットの恩赦)。
  9. 日付不詳
  10. 日付不詳
  11. 日付不詳長干寺行幸に伴い大赦。
  12. 日付不詳詔により大赦。
  13. 日付不詳至德五年を禎明元年に改元する詔とともに大赦(改元とセットの恩赦)。
  14. 日付不詳蕭岩・蕭瓛らの投降・渡江に伴い大赦。
  15. 皇后日付不詳妃沈氏(沈皇后)を皇后に立てる。
  16. 皇太子日付不詳皇太子胤(永康公胤として立太子)を廃して吳興王とし、同日、始安王深(皇子深)を新たに皇太子に立てた。

陳の歴代皇帝

歴代5人の一覧

年表

南北朝の時代を年表で見る

陳が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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