中国皇帝統計

後主

陳(南北朝)|在位 582–589年

後主の肖像
諱(本名)
陳叔宝
在位
582–589年
在位期間
6年360日365名中161位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
52歳(数え年)269名中・長寿順74位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
10267名中38位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
0
反乱鎮圧
2225名中145位タイ
被反乱
2289名中158位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。

即位の経緯

父・高宗(宣帝)崩御を受け、兄弟の反乱未遂(陳叔陵、即日鎮圧)を経て皇太子(陳叔寶)が正規の手続きで即位。

出典: 陳書/卷六 本紀第六 後主補記: zh.wikisource.org

死因の経緯

『陳書』卷六は「隋仁壽四年十一月壬子,薨於洛陽,時年五十二」と記す。降伏後16年間、隋文帝から優待され「毎日與子弟飲酒一石」の生活を送っていたことが記録され、暗殺・処刑を示唆する記述は一切なし。

出典: 陳書/卷六 本紀第六 後主補記: zh.wikisource.org

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

太建十四年正月丁巳の即位時は、父・宣帝(高宗)の太建の年号をそのまま継続使用しており、即位に伴う新規建元は行われていない(太建十五年まで太建の元号が続いた)。在位中に確認できる改元は至德・禎明の2回のみ。

大赦回数

本紀中「大赦天下」と明記された事例を機械的に全件抽出し10件を確認(grepで原文中の出現箇所を全て検証済み)。部分的・地域限定の恩赦(禎明二年十一月「克日於大政殿訊獄」等の減刑措置は全国規模の大赦と明記されていないため除外)は含めていない。

立后回数

本紀を通読した限り、廃后および再冊立の記録は見当たらない(沈皇后は在位を通じて皇后のまま)。よって立后は1回のみ。

皇太子廃立回数

本紀中で明確に「廢皇太子」と記された事例は1件のみ。立太子自体(太建十四年四月丙申の胤立太子、禎明二年六月庚子の深立太子)はカウントに含めていない。

親征回数

陳書巻六(後主紀)を通読したが、後主自身が「親征」「帝自将」等の形で軍を率いて出陣した記録は見当たらない。祯明三年(589)の隋軍侵攻時も、驃騎大将軍豫章王叔英・萧摩訶・樊毅・鲁広達・任忠ら諸将に建康城内外の要地を分担して防衛させ、後主自身は台城(宮城)内にとどまり、最終的に景陽殿の井戸に隠れて隋軍に捕らえられた。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

隋(楊堅・晋王広)による滅陳戦争(祯明三年)は対等な独立政権であった隋との対外戦争・統一戦争にあたるため除外した(指示に基づく)。祯明二年に後梁の萧岩・萧献らが陳に投降した記事があるが、これは陳への帰順であり反乱ではないため計上しない。

被反乱回数

隋による滅陳戦争(対等な独立政権との統一戦争)は被反乱に含めない(指示に基づく)。鎮圧回数と被反乱回数は同一の2件で一致する。

遷都回数

陳書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から589年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。

即位時年齢・没年齢

生年(553年、梁承聖二年)・没年齢52歳(「時年五十二」、隋仁壽四年604年)はいずれも直接記載だが、干支日のグレゴリオ暦換算は未実施のためbirthDate/deathDateは保留。即位時年齢の直接記載はなし。禅譲(589年)後、隋の捕虜として604年に死去。

在位中の出来事(18件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧582年2月始興王叔陵の乱

首謀者: 始興王叔陵(陳叔陵)

結果: 鎮圧成功(萧摩訶らにより誅殺)

太建十四年正月甲寅、父・高宗が崩御。翌日乙卯、次弟の始興王叔陵が挙兵し、即位直前の後主を剉薬刀で背後から斬りつけて負傷させ、駆けつけた皇太后にも斬りつけた。長沙王叔坚が叔陵を取り押さえ刀を奪ったが、叔陵は隙を見て脱出し東府城に立てこもり甲士を集め叛乱、新安王伯固も呼応した。右衛将軍萧摩訶が東府を包囲し、偽って投降を受け入れる態を装って使者を斬り、寅刻から巳刻(同日内)で鎮圧、乱戦の中で叔陵は殺害され梟首された。後主の即位(丁巳)直前・在位開始とほぼ同時の出来事だが、後主が既に事実上の後継者として襲撃対象となった事件であり計上した。

被反乱582年2月始興王叔陵の乱

首謀者: 始興王叔陵(陳叔陵)

結果: 後主自身が刃傷を負う襲撃を受けたが、萧摩訶らにより鎮圧され即位を果たした

rebellionSuppressionCountと同一事件。後主本人が直接襲撃対象となり負傷した点で被反乱として明確。

反乱鎮圧585年4月〜585年5月章大宝の乱

首謀者: 章大宝

結果: 鎮圧成功(討伐軍に斬首・伝首)

至德三年三月辛酉、前豊州刺史章大宝が挙兵して反乱。夏四月庚戌、豊州義軍主陳景詳が大宝を斬り、その首級を建康(京師)に送った。後主自身の親征ではなく現地軍による鎮圧。

被反乱585年4月〜585年5月章大宝の乱

首謀者: 章大宝

結果: 反乱は発生したが速やかに鎮圧され、後主の統治には大きな影響なし

rebellionSuppressionCountと同一事件。前豊州刺史(服属していた地方官)による挙兵。

改元日付不詳至德元年正月壬寅、詔により太建十五年を至德元年に改元。

至德元年正月壬寅、詔により太建十五年を至德元年に改元。「可大赦天下,改太建十五年為至德元年。」

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

改元日付不詳禎明元年正月戊寅、詔により至德五年を禎明元年に改元。

禎明元年正月戊寅、詔により至德五年を禎明元年に改元。「可大赦天下,改至德五年為禎明元年。」

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳太建十四年正月丁巳、即位の詔で大赦天下。

太建十四年正月丁巳、即位の詔で大赦天下。「可大赦天下。在位文武及孝悌力田為父後者,並賜爵一級。」

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳太建十四年七月辛未、大赦天下。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳太建十四年九月丙午、太極殿での無㝵大会・捨身に伴い大赦天下。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳至德元年正月壬寅、太建十五年を至德元年に改元する詔とともに大赦天下(改元とセットの恩赦)。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳至德二年正月癸巳、大赦天下。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳至德二年十一月丙寅、大赦天下。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳至德三年十一月辛巳、長干寺行幸に伴い大赦天下。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳至德四年十一月己卯、詔により大赦天下。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳禎明元年正月戊寅、至德五年を禎明元年に改元する詔とともに大赦天下(改元とセットの恩赦)。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

大赦日付不詳禎明元年九月甲午、蕭岩・蕭瓛らの投降・渡江に伴い大赦天下。

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

立后日付不詳太建十四年正月己巳、妃沈氏(沈皇后)を皇后に立てる。

太建十四年正月己巳、妃沈氏(沈皇后)を皇后に立てる。「己巳,立妃沈氏為皇后。」

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

皇太子廃立日付不詳禎明二年六月庚子、皇太子胤(永康公胤として立太子)を廃して吳興王とし、同日、始安王深(皇子深)を新たに皇太子に立てた。

禎明二年六月庚子、皇太子胤(永康公胤として立太子)を廃して吳興王とし、同日、始安王深(皇子深)を新たに皇太子に立てた。「庚子,廢皇太子胤為吳興王,立軍師將軍、揚州刺史始安王深為皇太子。」

出典: 陳書卷六 本紀第六 後主

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