元凶劭
宋・南北朝|在位 453年
- 諱(本名)
- 劉劭
- 在位
- 453年
- 在位期間
- 72日365名中348位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 30歳(数え年)172名中・若い順112位タイ
- 没年齢
- 30歳(数え年)269名中・長寿順188位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
実父・文帝を弑逆して即位。宋書は「元凶」と呼び正統な皇帝として扱っていない。
出典: 宋書/卷99 列伝第59 二凶(劉劭)補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
弑逆事件後、劉駿(孝武帝)の討伐軍に敗れ、武庫の井戸に隠れていたところを隊副高禽に捕縛され、尋問の上で斬首。「乃斬劭于牙下」(宋書卷99 二凶列伝)。捕縛→尋問→斬首という政権交代後の勝者による公的な処断のため処刑に分類。
出典: 宋書/卷99 列伝第59 二凶補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
簒奪即位に伴い建元。「今罪人斯得、元凶克殄、可大赦天下。改元嘉三十年為太初元年」とあり、元嘉三十年を太初元年に改元。在位中はこの1回のみで、他に改元記事はない(劭討伐後の孝建改元は孝武帝の在位に帰属)。
大赦回数
簒奪後2ヶ月の在位中に「大赦天下」の明記が2回確認できる。1回目は文帝弑殺・即位宣言と同時(改元と同一の詔)、2回目は皇太子伟之立太子と同日に発布。
立后回数
在位中に正妻殷氏を皇后として冊立した記事が1回確認できる。「四月、立妻殷氏為皇后」。後に劭誅殺後、殷氏は廷尉で賜死される際「此權時爾、當以鸚鵡為後也」と述べており鸚鵡を後の皇后にする意図があったことが示唆されるが、実際の冊立は行われていない。
皇太子廃立回数
劭在位中(簒奪即位〜討伐まで)に皇太子(自ら立てた息子・伟之)を廃した記述はない。文帝在世中に文帝が劭(当時の皇太子)を廃そうとした記事(「須至檢核、廢劭」)はあるが、実行前に劭が文帝を弑殺したため未遂に終わっており、かつ劭本人が皇帝として在位した期間の出来事ではないため対象外。
親征回数
弑父・即位の軍事行動を1件として計上(新亭の戦いでの自ら軍を率いての攻撃も同一の帝位保持行動として統合)。カウント単位について解釈の余地があるためconfidenceはmedium。
反乱鎮圧回数
該当記事なし。元凶劭は弑父により帝位を簒奪した対立政権(僭称)側の首謀者本人であり、本設問のルール『対立政権の首謀者自身の記録では、正統側からの鎮圧を受けて敗死・廃位した場合は自身の被反乱に計上するが、鎮圧回数には計上しない(自分は鎮圧する側ではないため)』に従い、劉駿(世祖)方の討伐行動は劭自身の鎮圧回数には含めない(劭は鎮圧される側)。なお在位期間中に劭が別途、自身に服属する勢力の反乱を鎮圧したという記事も『宋書』巻九十九 二凶伝・巻六 孝武帝紀のいずれにも見当たらない。
被反乱回数
劉駿(後の孝武帝)を中心とする討伐・新亭の戦い〜建康陥落を1件として計上。義宣・臧質・誕の同時挙兵は同一の討伐行動の一部として統合。
遷都回数
宋書本紀を通読。劉宋建国(建康定都、建国時の定都)から479年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
『宋書』巻九十九 二凶伝「帝即位後生劭、時上猶在諒闇、故祕之。三年閏正月、方雲劭生」は文面だけ見ると元嘉三年(426年)出生とも読めるが、同伝「年六歳、拜為皇太子」と『宋書』本紀(liu-song-wendiのcrownPrinceDepositionCount.noteに既収録の「元嘉六年(429年)三月丁巳に皇子劭を皇太子に冊立」)を突き合わせると、429年時点で数え6歳=逆算生年は元嘉元年(424年)となる。二凶伝はその後も「十七年」(元嘉十七年=440年、時に数え17歳)「二十七年、上將北伐」(元嘉27年=450年、時に数え27歳)というように本文中の年号年数値と享年数え年が終始一致する書き方をしており、これは文帝即位直後(元嘉元年)に生まれたが諒闇中のため秘匿され、元嘉三年閏正月になって初めて出生が公に告知された、と解釈することで内部整合する。したがって直接記載(元嘉六年立太子時数え6歳)を優先し、生年を元嘉元年(424年、月日不詳につきyear精度)と確定。没日は簒奪政権崩壊による処刑日(reigns[0].endDateと同一、0453-05-27、『宋書』二凶伝「乃斬劭於牙下」、本紀・列伝とも五月四日で一致)。没年齢は453-424+1=30(数え年、本文中の年号年=享年パターンとも整合)。即位(弑逆当日の簒奪即位)・崩御(処刑)がいずれも元嘉三十年(453年)内のため、即位時年齢も同じく数え30歳。
在位中の出来事(6件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征453年3月16日〜453年5月15日父・文帝(弑殺・帝位簒奪)、および帝位保持のための軍事行動(新亭の戦いで柳元景軍を攻撃)
対象: 父・文帝(弑殺・帝位簒奪)、および帝位保持のための軍事行動(新亭の戦いで柳元景軍を攻撃)
結果: 元嘉三十年二月二十一日夜(0453-03-16)、劭は硃服の上に戎服を着け画輪車に乗り、東宮の兵約2千余人を自ら率いて万春門から宮城に入り「受敕、有所収討」と偽って侵入、腹心の張超之らに文帝を弑殺させ、翌二十二日(0453-03-17)に即位を宣言(僭称)。その後、劉駿(世祖)方の挙兵に対し帝位を保持するため軍事行動を継続し、四月二十二日(0453-05-15、本紀「甲子」)には劭自ら軍を率いて新亭に布陣する柳元景軍を攻撃したが大敗して退却した(『宋書』巻六 孝武帝紀「甲子、賊劭親率衆攻元景、大敗退走」)。最終的に建康を落とされ捕縛・処刑された(結果は被反乱として別途計上)。
1回として計上。理由:本設問の指示(対立政権の首謀者自身の記録では『自らの帝位簒奪の軍事行動』を親征に計上する方針)に従い、弑父・即位という帝位簒奪の軍事行動を核として1件計上した。新亭の戦い(0453-05-15)で劭自身が軍を率いて元景軍を攻撃した記述(『宋書』巻九十九 列伝第五十九 二凶伝にも『二十二日、使萧斌率鲁秀、王罗汉等精兵万人攻新亭垒、劭登朱雀门躬自督率……劭又率腹心同恶自来攻垒』とあり)は、同一の帝位保持という目的の継続とみなし、別件としては計上せず本イベントの終期として統合した(相手は文帝→劉駿方勢力と変化しているが、一貫して『簒奪した帝位を守るための軍事行動』という単一の枠組みで捉えた)。この統合判断は解釈の余地があるため confidence は medium とする。日付は『宋書』巻五 文帝紀の死去記事(干支『甲子』、元嘉三十年二月)および巻六 孝武帝紀の干支記事を、農暦→西暦変換ライブラリ sxtwl(元嘉三十年二月二十一日→西暦453年3月16日)で換算し確定した。
被反乱453年3月16日〜453年5月27日劉駿(孝武帝)らによる討伐・新亭の戦い〜建康陥落
首謀者: 劉駿(世祖孝武帝、征南将軍として挙兵、後に新亭で即位を宣言)。荊州刺史・南譙王劉義宣、雍州刺史・臧質、随王劉誕らも同時に義兵を挙げて呼応。
結果: 劉駿は元凶劭の弑逆を聞くや征南将軍として挙兵し(『宋書』巻六 孝武帝紀「会元凶弑逆、以上為征南将軍……上率衆入討、荊州刺史南譙王義宣、雍州刺史臧質並挙義兵」)、四月に新亭へ進軍(辛酉0453-05-12、癸亥0453-05-14柳元景先鋒が新亭に布陣)。四月甲子(0453-05-15)に劭自ら軍を率いて元景を攻撃したが大敗。己巳(0453-05-20)劉駿は新亭にて即位を宣言。五月甲戌(0453-05-25)申坦が建康城を攻略、乙亥(0453-05-26)朱修之が東府城を攻略。翌丙子(五月四日、0453-05-27)建康が完全に陥落し、劭は武庫の井戸に隠れたところを高禽に捕らえられ、牙門にて斬首された(『宋書』巻九十九 二凶伝「乃斬劭於牙下」)。
1件として計上。同一の反乱(劉駿を中心とする討伐軍。義宣・臧質・誕も同時に呼応したが首謀者・主体は劉駿でありひとつの軍事行動として統合)。宋の王朝内部での帝位を巡る内乱にあたり、本設問ルールの例外4(権臣・宗室等による兵力を伴うクーデター)に類似するが、ここでは逆に劭自身が弑逆によって帝位を奪った側であり、劉駿らはそれに対する正統回復の挙兵(劭にとっての被反乱)にあたる。開始日は劉駿らが弑逆の報を聞き即座に挙兵したとされるため弑父当日(0453-03-16)を起点とし、終了日は建康陥落・劭処刑の日(0453-05-27、五月四日)とした。なお『宋書』巻六の該当箇所は原文で『丙申、克定京邑』とあるが、前後の干支(甲戌=五月二日、乙亥=五月三日)および次に続く記事(庚辰=五月八日)との整合、また列伝(二凶伝)の『其月三日……四日、太尉……登朱雀門……即斬劭於牙下』という記述と照合すると、『丙申』(五月二十四日相当)は日付順として不整合であり、『丙子』(五月四日)の誤記・誤植の可能性が高いと判断し、五月四日(0453-05-27)を採用した。この点はconfidence medium相当の判断だが、複数史料(本紀・列伝)が『四日』で一致するため全体としてはhighとした。年代換算は農暦→西暦変換ライブラリsxtwlを用い、元嘉三十年の干支記事を照合して算出(例:元嘉三十年二月甲子=453年3月16日、文帝紀の崩御記事と一致することを確認済み)。
改元453年3月17日文帝弑殺・即位に伴い、元嘉三十年を太初元年と改元。
文帝弑殺・即位に伴い、元嘉三十年を太初元年と改元。劭が世子時代から女巫厳道育と共に定めていた元号で、旧例(踰年改元)を破り即日改元した経緯が記される。
出典: 宋書 卷九十九 列傳第五十九 二凶(元凶劭)
大赦453年3月17日劭が偽位に即いた際の詔で「今罪人斯得、元凶克殄、可大赦天下。
劭が偽位に即いた際の詔で「今罪人斯得、元凶克殄、可大赦天下。改元嘉三十年為太初元年」と大赦天下を発令(改元とセットの詔)。
出典: 宋書 卷九十九 列傳第五十九 二凶(元凶劭)
大赦453年3月23日子の伟之を皇太子に立てた同日、「下書大赦天下、唯世祖・劉義恭・義宣・誕不在原例、余党一無所問」と再度大赦天下を発令(首謀者を除く)。
出典: 宋書 卷九十九 列傳第五十九 二凶(元凶劭)
立后453年5月妻の殷氏を皇后に立てる。
妻の殷氏を皇后に立てる。「四月、立妻殷氏為皇后」(世祖ら義兵挙兵の記事の直後に配置)。
出典: 宋書 卷九十九 列傳第五十九 二凶(元凶劭)