武帝
陳(南北朝)|在位 557–559年

- 諱(本名)
- 陳霸先
- 廟号
- 高祖
- 在位
- 557–559年
- 在位期間
- 1年266日365名中274位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 57歳(数え年)269名中・長寿順48位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝
即位の経緯
梁の禅譲を受けて即位。「梁氏以天祿永終,歷數攸在,遵與能之典,集大命於朕躬」。王朝創始者のため建国に分類。
出典: 陳書/卷二 本紀第二 高祖下補記: zh.wikisource.org
死因の経緯
「高祖不豫」から「高祖疾又甚」を経て「崩於璿璣殿,時年五十七」(陳書卷二 高祖下、永定三年)。疾病による自然死。
出典: 陳書/卷二 本紀第二 高祖下補記: zh.wikisource.org
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中は永定の元号のみで、他の改元記事はなし(固有の注意事項どおり建国改元を1回としてカウント)。
大赦回数
巻二本文中で「大赦」の語が明記されるのはこの一箇所のみ(grep確認済み)。永定二年正月辛丑の南郊親祭の詔に「夫罪无轻重,已发觉未发觉,在今昧爽以前,皆赦除之」とあるが「大赦」の語を用いていないため対象外とした。また永定元年十一月己卯の四方への玺書中「皆从肆赦」も特定の盗賊・山谷酋長に対する限定的赦免であり全国規模の「大赦」明記ではないため除外した。
立后回数
在位中の立后はこの一件のみ。先夫人銭氏は既に故人であり追諡(昭皇后)であって立后カウントには含めない。
皇太子廃立回数
在位中(永定元年〜三年)に皇太子を立てた記事自体が見当たらず、廃立の記録もない。卷二の「世子克为孝怀太子」は即位当日に亡き世子陈克へ追諡した記事であり、生前に皇太子として冊立され廃されたものではないため対象外。他の「太子」出現箇所(太子洗马・太子二卫率・太子少傅)はいずれも官職名で本件と無関係。
親征回数
陳書卷二(高祖下)永定元年〜三年の全記事を確認したが、「帝自将」「亲征」「帝率衆」等、高祖本人が軍を率いて出陣したことを示す記述は見当たらない。王琳・蕭荘方面(西讨)、余孝劢・熊昙朗方面の軍事行動はいずれも周文育・侯安都・侯瑱・徐度・臨川王蒨ら将帥に委ねられており、高祖自身は「舆驾幸石头,饯司空侯瑱」「舆驾幸冶城寺亲送焉」等、出征する将軍を見送る(餞別)記事のみで、本人が戦場に赴いた記述はない。よって0件とした。
反乱鎮圧回数
熊昙朗の反乱(confidence高)は明確に陳服属官の離反であり確度が高い。王琳・蕭荘の抵抗(confidence中)は服属歴のない旧梁勢力+外国支援という点で対等勢力間の戦争とも解釈しうるため、全体としてconfidenceをmediumとした。
被反乱回数
被反乱2件はいずれも鎮圧回数と対称(同一事象を両面計上)。熊昙朗事件は確度高、王琳・蕭荘事件は分類判断にconfidence medium。南豫州刺史沈泰の北斉への逃亡(永定二年二月)は挙兵を伴わない単純な離反・出奔であり武力反抗の記述がないため被反乱には含めなかった。
遷都回数
陳書本紀を通読。建国(建康定都、建国時の定都)から589年の滅亡まで建康が一貫した都、遷都の記録なし。
即位時年齢・没年齢
生年(503年、梁天監二年)・没年齢57歳(「時年五十七」)はいずれも直接記載。即位時年齢の直接記載はなし。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
反乱鎮圧557年11月王琳・蕭荘(北斉支援下の対立梁政権「天啓」)の抵抗
首謀者: 王琳(擁立された皇帝は蕭荘=liang-xiaozhuang)
結果: 未鎮圧(武帝在位中には決着せず)
陳建国直後の永定元年十月(同月内、日付特定不能のため「是月」)、王琳(元梁の湘州刺史、梁の旧臣で陳への服属を拒否)は陳の「西讨都督」周文育・侯安都を郢州で撃破し捕虜とした。翌永定二年(558)三月(「是月」)、王琳は北斉の支援を受け梁の宗室蕭荘(永嘉王)を郢州で皇帝に擁立し対立政権(年号天啓)を樹立。陳は侯瑱・徐度・臨川王蒨らを派遣して継続的に討伐し(王琳将李孝钦・樊猛・余孝顷を七月に工塘で捕獲、十月に周文育を余孝劢討伐へ派遣等)、周文育・侯安都はいったん捕らえられたが八月に逃げ帰り不問とされた。永定三年(559)六月には王琳配下の援軍常众爱を侯安都が左里で撃破し王琳の従弟王袭・主帅羊暕らを捕獲したが、王琳・蕭荘本体はなお屈せず、同年八月の武帝崩御時点でも抗争は未決着のまま陳文帝期(560年、対象外)に持ち越された。王琳・蕭荘は陳建国当初から一度も陳に服属しなかった旧梁勢力であり、外国(北斉)の支援も受けているため『対等な独立政権同士の抗争』として除外すべきか、データセット上『liang-xiaozhuang』が対立政権の首謀者として別人物登録されている構造(劉子勛型)に倣い正統側の陳武帝の鎮圧・被反乱として計上すべきか判断が分かれる。本記録では後者の解釈を採用し計上したが、confidenceはmediumとする。
被反乱557年11月王琳・蕭荘(北斉支援下の対立梁政権「天啓」)の抵抗
首謀者: 王琳(擁立された皇帝は蕭荘=liang-xiaozhuang)
結果: 未鎮圧のまま武帝崩御、陳文帝期へ継続
rebellionSuppressionCountと同一事象。武帝在位中を通じて陳の郢州方面の権威に対する最大の脅威であり、建国直後(557年十月)に西讨軍が撃破・捕虜とされ、558年三月には対立皇帝(蕭荘)擁立にまで発展した。武帝崩御(559年八月)時点で未鎮圧のため、規則2(未鎮圧のまま在位終了)により被反乱にも計上。分類の妥当性(対等勢力間抗争か服属拒否勢力の反乱か)は判断が分かれるためconfidence medium。
改元557年11月16日永定元年冬十月乙亥、南郊にて即位。
永定元年冬十月乙亥、南郊にて即位。同日の詔で「改梁太平二年为永定元年」と改元(建国改元)。以後、永定三年六月の崩御まで改元なし。
出典: Wikipedia中国語版記事「陈书本纪第二 高祖下(永定元年冬十月乙亥)」
大赦557年11月16日永定元年冬十月乙亥、即位の柴燎告天・詔で「可大赦天下,改梁太平二年为永定元年」と明記。
永定元年冬十月乙亥、即位の柴燎告天・詔で「可大赦天下,改梁太平二年为永定元年」と明記。即位改元と同日の建国大赦。
出典: Wikipedia中国語版記事「陈书本纪第二 高祖下(永定元年冬十月乙亥)」
立后557年11月22日永定元年十月辛巳(即位の6日後)、「追谥前夫人钱氏号为昭皇后……立夫人章氏为皇后」と明記。
永定元年十月辛巳(即位の6日後)、「追谥前夫人钱氏号为昭皇后……立夫人章氏为皇后」と明記。章皇后(章要儿)の正式冊立。
出典: Wikipedia中国語版記事「陈书本纪第二 高祖下(永定元年十月辛巳)」
反乱鎮圧559年7月19日熊昙朗の反乱
首謀者: 熊昙朗(北江州刺史)
結果: 未鎮圧のまま武帝崩御(実際の討伐完了は陳文帝期)
永定三年(559)五月乙酉(「五月丙辰朔」を起点に干支差分から換算、既存データの六月丙午=0559-08-09との整合を確認)、陳から北江州刺史・平西将軍・开府仪同三司に任じられていた熊昙朗が、王琳配下・余孝劢討伐のため派遣されていた都督周文育を軍中で殺害し挙兵(「杀都督周文育于军,举兵反」)。明確に陳へ服属していた官が反旗を翻した反乱にあたる。王琳もこれに乗じ常众爱・曹庆を派遣して余孝劢を支援したが、同年六月に侯安都が常众爱らを左里で撃破(王袭・羊暕ら捕獲、常众爱は逃亡後に廬山の民に斬られる)。しかし熊昙朗本人は捕らえられず、詔で「昙朗噬逆,罪不容诛,分命众军,仍事掩讨」と継続討伐を命じたまま同月(559年八月)武帝が崩御し未決着に終わった。
被反乱559年7月19日熊昙朗の反乱
首謀者: 熊昙朗(北江州刺史)
結果: 未鎮圧のまま武帝崩御
rebellionSuppressionCountと同一事象。陳の任命官による都督殺害・挙兵であり、被反乱として計上する根拠は明確(confidence高)。