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後梁・南北朝第3代

後主蕭琮

在位 585–587年(2年117日)585年7月1日 〜 587年10月26日

日本は古墳時代

蕭琮は後梁の明帝蕭巋の子で、隋に従う江陵の小国を継いだが、隋に入朝しているあいだに国を失い、のち家に退けられて没した皇帝である。

後主の人物データ

生年
不詳
在位
  • 585年7月1日〜587年10月26日
2年117日長い順248位/365人即位の年齢は不詳
没年
不詳
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 明帝後梁・南北朝後主は明帝の子
次代
—
呼び名
姓蕭諱琮字温文諡号孝靖帝呼び名の見方

出典

在位
隋書 帝紀第一 高祖上(開皇五年五月甲申条・開皇七年九月辛卯条)/隋書 列傳第四十四 外戚 蕭岿子琮(_corpus_cache所収本文)
死因
隋書 巻79 列傳第44 外戚(蕭琮)
即位経路
隋書 巻79 列傳第44 外戚(蕭琮)/隋書 帝紀

生涯

どんな皇帝か

隋書の伝は、寛大で仁愛があり、度量が大きく型にはまらず、学識と文才があったと記し、北史の論は、国を去って戻らずとなり、自分を保とうとしなかったのは、おそらく満ちたものを守る道でもあったとする。

即位まで

後梁の明帝蕭巋の子で、東陽王に封ぜられ、まもなく太子に立てられた。弓馬に長じ、人に持たせた的を馬上から射て十発十中したという。585年に父が没し、位を継いだ。隋の文帝はを賜い、陳への備えを怠るなと戒めた。

治世と最期

位を継いだその年、陳の公安を水軍で襲わせたが勝てなかった。隋は叔父の蕭岑を入朝させて留め、江陵総管を再び置いて監視した。の許世武が江陵城を陳に引き渡そうとひそかに謀ったが、漏れて蕭琮に誅された。586年に年号を広運と改めると、運の字は軍が走る、わが君は奔走することになるのかと言われた。587年、文帝に召されて臣下二百余人と長安へ入朝し、江陵のはわが君は戻らないだろうと涙した。隋が江陵を守らせるために送った軍が鄀州まで来ると、叔父の蕭岩と弟の蕭瓛は襲われるのを恐れ、民を連れ去って陳へ奔った。隋は梁国を廃し、蕭琮を莒国公とした。

煬帝が即位すると、皇后の縁で厚く遇され、とされて梁公に改められた。職務に身を入れず退朝後は酒を飲むだけで、楊約に煬帝の旨を伝えて戒められると、事々に勤めたらあなたと何が違おうかと答え、楊約は笑って退いた。従妹を羌の鉗耳氏に嫁がせるのを楊素に咎められると、前にも妹を侯莫陳氏に嫁がせたと答え、羌と虜は比べられないと言われると、羌と虜を区別するとは聞いたことがないと返し、楊素は恥じて口をつぐんだ。親しかった賀若弼が誅されたのち、蕭氏がまた起こるという童謡が出ると、煬帝はこれを忌んで蕭琮を家に退け、蕭琮はまもなく没した。

史料について

蕭岑を入朝させたわけを、周書の蕭岑伝は、不法が多かったためとする。を586年に置くのは資治通鑑である。運の字の言葉を、隋書の蕭琮伝は識者の言とし、五行志は江陵の父老の言とする。莒国公を、資治通鑑は上柱国・莒公とする。隋書・北史・資治通鑑は、没年も死因も書かない。資治通鑑は家に退けられた件を607年の条に付記する。

後主とつながる皇帝

南北朝の勢力図(585年)

勢力図

南北朝の勢力図で見る

585–586年の地図に、後主が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・改元1
  1. 改元585年元号を「広運」とする
  2. 反乱587年10月蕭岩・蕭瓛之乱(引陳兵掠江陵事件)

後梁・南北朝の歴代皇帝

歴代3人の一覧

年表

南北朝の時代を年表で見る

後梁・南北朝が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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