成漢の李雄が実子をさしおいて太子に立てた甥で、位を継いだ年のうちに李雄の子らに殺された。
李班の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 334年8月11日〜334年
- 没年
- 334年47歳(数え年)長生き順同率92位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 呼び名
- 姓李諱班字世文諡号哀皇帝呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百二十一 載記第二十一(李班)/資治通鑑 巻九五/華陽国志 巻九
- 死因
- 晉書 載記第二十一 李班
- 即位経路
- 晉書 載記第二十一 李班
生涯
どんな皇帝か
晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人曰は、李班は寛大と慈愛のために災いに遭ったと評する。
即位まで
李雄の兄の李蕩の子で字を世文といい、幼くして李雄に養われた。李雄は兄の李蕩こそ嫡統正しい跡継ぎとなる本家の血筋だったとし、李班は仁孝で学問を好み必ず大器となると言った。李驤らは甥は子に及ばないと諫めたが、李雄は聴かずに李班を太子に立て、李驤は退いて、乱はここから始まると泣いた。太子として儒者を師とし、名士を賓客や友として招き、古の名高い太子たちの文章と見識に恥じ入るといつも語った。奢侈を好む一族の子弟を常に戒め、朝廷で大きな議論があるたびに李雄に加えられた。貴人身分の高い人、また皇帝の妃の位の一つが荒れ地を広く占めることを批判して田の均分を説き、李雄はこれを容れた。ただ性格は軽躁で、狩猟を好んだ。李雄が病んで古傷が膿むと、実子の李越らが嫌って遠ざかるなか、李班は膿を吸い薬を嘗めて看病した。
史料について
性格が軽躁で狩猟を好んだとするのは華陽国志で、載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は太子の振る舞いが規範に従ったとする。
治世と最期
334年に李雄が死ぬと位を継ぎ、李寿に政事を輔けさせ、自らは喪礼に専念した。実子でない李班が継いだことに不平を抱く李越は、弟の李期とひそかに李班を図った。弟の李玝に李越と李期を地方へ出すよう勧められても、李雄がまだ葬られていないとして退け、人を誠意で遇して疑わなかった。宮中に陰謀の兵気があると太史令天文・暦・記録を受け持つ役所の長が奏しても悟らなかった。
同じ年、夜に殯宮葬る前に遺体を安置しておく建物で哭していたところを殺され、李期が位を継いだ。李班の子の李幽らも、李期に殺された。李期は戻太子と諡し、のちに李寿が哀皇帝と追諡亡くなった人に、あとから死後の名を贈ることした。のちに母方のおじの羅演が李期を殺して李班の子を立てようと謀って露見し、李班の母も殺された。
史料について
殺した者として、載記・資治通鑑・華陽国志の李期の条は李越を、華陽国志の李班の条と十六国春秋は李期と李越を挙げ、成帝紀と魏書は李期が李班を殺して自立したと書く。哀皇帝の追諡は華陽国志に見え、載記の李班の条には諡の記述が無い。
李班とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
334年の地図に、李班が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1
- 反乱334年11月李越・
李期のクーデター(李班弑逆)
成漢の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代李特皇帝を名乗っていない301–303年
- 第2代李流皇帝を名乗っていない303年
- 第3代武帝306–334年病死
- 第4代李班334年暗殺
- 第5代李期334–338年自害
- 第6代昭文帝338–343年病死
- 第7代後主343–347年病死
年表
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