李班
成漢(五胡十六国)|在位 334年
- 諱(本名)
- 李班
- 在位
- 334年
- 在位期間
- 55日365名中349位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 47歳(数え年)269名中・長寿順93位タイ
- 改元
- 0回
- 大赦
- 0回
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
李雄の兄李蕩の子で、李雄の養子として遺詔により即位。
出典: 晉書 載記第二十一 李班
死因の経緯
李雄の子でないにもかかわらず後継とされたことに不満を持った従弟の李越が、弟の李期と共謀。李雄の喪に服し殯宮で哭礼していた隙を突かれ、李越に殺害された(在位約4ヶ月)。同一政権内の近親による謀殺のため暗殺に分類。
出典: 晉書 載記第二十一 李班
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
李班は李雄の崩御を受けて「嗣偽位」(既存の帝位を継承)した形であり、独自の建元・改元を行った記載はない。父(伯父筋)李雄の代の年号(玉衡)がそのまま用いられたとみられ、班の在位中に新元号への切り替えを示す記述は原文に存在しない。
大赦回数
『晋書』載記第二十一の李班在位期間(雄死去による嗣位から越による殺害まで)の記述には、大赦・大赦天下に類する記載は見られない。班の在位中の記事は喪礼を執り行ったこと、越・期との確執、太史令韓豹の上奏、暗殺の経緯のみで恩赦への言及はない。
立后回数
李班在位中(雄死去より越による殺害まで)に皇后を冊立したとの記載は見られない。在位が約2ヶ月と短く、喪に服していたこともあり、立后関連の記事は確認できない。
皇太子廃立回数
李班在位中に皇太子(皇太弟等含む)を廃立した記載はない。班自身はかつて雄の太子であったが、これは即位前の話であり、班の在位中に太子を新たに立てた・廃した記述も存在しない。班は暗殺により崩じており、廃立ではなく弑逆(越による殺害)である。
親征回数
晋書載記第二十一に李班在位中(咸和九年六月~十月)の親征記録なし。太子時代の「討平寧州夷」(撫軍として指揮)は即位前・非君主号のため対象外とした。
反乱鎮圧回数
在位中に李班側が鎮圧主体となった反乱の記録なし。唯一の武力事件(李越・李期による弑逆)は李班が被害者側であり鎮圧行動を取れなかったため計上しない(例外4に該当)。
遷都回数
晋書載記を通読。李雄の成都定都(建国時の定都)から347年の桓温による滅亡まで成都が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
『晋書』載記第二十一に「(李班)咸和九年、班因夜哭、越殺班於殯宮、時年四十七、在位一年」とあり、崩御時年齢47歳が直接記載されている。生年月日・即位時年齢の直接記載はなし。原文の崩御年表記は「咸和九年」のみで正確な月日は記載されていない(タスクで示された334年10月5日という日付は原文に直接の記載なし)。
在位中の出来事(1件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
被反乱334年10月李越・李期のクーデター(李班弑逆)
首謀者: 李越(実行)・李期(共謀・後継)
結果: 咸和九年冬十月、李班の従兄弟である李越が殯宮(李雄の喪に服していた場所)で夜中に李班を殺害し、李期が帝位を継いだ。李班は在位約4ヶ月で死去(享年47)。
晋書載記第二十一「班因夜哭、越殺班於殯宮」、晋書帝紀「冬十月、李雄子期弑李班而自立」に基づく。本タスク指示で明示例示される「成漢の李期弑逆」に該当する同一政権内部の権力闘争型クーデントとして計上。