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成漢(五胡十六国)第5代

李期

在位 334–338年(3年213日)

日本は古墳時代

成漢の李雄の第四子で、李班を除いて位に即いたが一族の李寿に廃され、幽閉されて死んだ。

李期の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 334年〜338年
3年213日長い順209位/365人即位の年齢は不詳
没年
338年6月25歳(数え年)長生き順同率208位/266人
死因
同じ死因15人/365人
即位経路
先代
  • 李班成漢李期は李班の従兄弟
次代
  • 昭文帝成漢昭文帝は李期の同族(遠縁)
呼び名
姓李諱期字世運諡号幽公呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻一百二十一 載記第二十一(李期)/晋書 巻七 成帝紀/華陽国志 巻九
死因
晉書 載記第二十一 李期
即位経路
晉書 載記第二十一 李期

生涯

どんな皇帝か

晋書の曰は、李期は暴戻のために禍を早めたと評する。

即位まで

李雄の第四子で、生母は身分の低い冉氏であり、李雄の妻の任氏に子として養われた。李雄が子らに兵を集めさせたとき、ほかは数百人に満たないなか、李期だけは千余人を集めた。聡明で学問を好み、財を惜しまず施し、へりくだって人を招き、李雄がその推薦を多く採ったので、官の多くが李期の門から出た。李雄の死後、兄の李越は実子でない李班の継位に不満を抱き、李期とひそかに李班を除く計画を立てた。李越がで李班を殺すと、衆は李越を立てようとしたが、李越は任氏に養われて才の多い李期に位を譲り、李期が皇帝の位に即いた。

史料について

李班を殺したのを、李班のと資治通鑑は李越とし、華陽国志は李班の条で李期と李越、李期の条で李越とする。

治世と最期

即位後は旧臣を軽んじて景騫やの許涪らに頼り、刑政は数人で決められてが乱れた。甥の李載を除き、李雄の子の李霸と李保が病でもないのに死ぬと、人々は李期の毒殺だと言い、大臣は懼れた。多くの者を誅してその妻女や財産を後宮に入れ、諫める者は罪を得た。

やがて李寿の養弟の李攸が死に、一族の李寿は兵一万で涪から成都へ向かった。李寿は成都を取って李越らを除き、任氏の令を偽って李期を邛都県公に廃し、幽閉した。李期は、天下の主が小県の公にされるくらいなら死んだほうがよいと嘆き、338年に縊れて死んだ。

史料について

李載の死を、載記は謀反と誣いての獄死とし、華陽国志は才を忌んでの誅殺とする。載記は、李期が李攸を毒殺し、李越らと李寿を襲う謀をめぐらしたので李寿が兵を挙げたとする。資治通鑑と華陽国志では先に謀ったのは李寿で、偽の手紙で兵を集めた。李攸の死を、資治通鑑は李期の毒殺とし、華陽国志は病死とする。載記は死んだ年を337年とする。晋書の成帝紀と五行志は李寿が弑したとし、華陽国志は李寿が李期と兄弟十余人を殺したとするが、このサイトは自殺とする。

李期とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(334年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

334–338年の地図に、李期が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・皇后1・改元1・大赦1
  1. 334年
  2. 皇后334年皇后を立てる
  3. 改元335年元号を「玉恒」とする
  4. 反乱338年5月李寿の政変(成主李期廃位事件)

成漢の歴代皇帝

歴代7人の一覧
  1. 第1代李特皇帝を名乗っていない301–303年
  2. 第2代李流皇帝を名乗っていない303年

年表

五胡十六国の時代を年表で見る

成漢が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「簒奪」の28名をデータベースで見る

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