李期の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 334年〜338年
- 没年
- 338年6月25歳(数え年)長生き順同率208位/266人
- 死因
- 自害自ら命を絶った死。廃位や敗戦に追い詰められての死や、朝廷から死を賜った死を含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因15人/365人
- 呼び名
- 姓李諱期字世運諡号幽公呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百二十一 載記第二十一(李期)/晋書 巻七 成帝紀/華陽国志 巻九
- 死因
- 晉書 載記第二十一 李期
- 即位経路
- 晉書 載記第二十一 李期
生涯
どんな皇帝か
晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人曰は、李期は暴戻のために禍を早めたと評する。
即位まで
李雄の第四子で、生母は身分の低い冉氏であり、李雄の妻の任氏に子として養われた。李雄が子らに兵を集めさせたとき、ほかは数百人に満たないなか、李期だけは千余人を集めた。聡明で学問を好み、財を惜しまず施し、へりくだって人を招き、李雄がその推薦を多く採ったので、官の多くが李期の門から出た。李雄の死後、兄の李越は実子でない李班の継位に不満を抱き、李期とひそかに李班を除く計画を立てた。李越が殯宮葬る前に遺体を安置しておく建物で李班を殺すと、衆は李越を立てようとしたが、李越は任氏に養われて才の多い李期に位を譲り、李期が皇帝の位に即いた。
史料について
李班を殺したのを、李班の載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録と資治通鑑は李越とし、華陽国志は李班の条で李期と李越、李期の条で李越とする。
治世と最期
即位後は旧臣を軽んじて景騫や宦官去勢されて宮中で皇帝や后妃に仕えた男の許涪らに頼り、刑政は数人で決められて綱紀国の秩序や決まりが乱れた。甥の李載を除き、李雄の子の李霸と李保が病でもないのに死ぬと、人々は李期の毒殺だと言い、大臣は懼れた。多くの者を誅してその妻女や財産を後宮に入れ、諫める者は罪を得た。
やがて李寿の養弟の李攸が死に、一族の李寿は兵一万で涪から成都へ向かった。李寿は成都を取って李越らを除き、任氏の令を偽って李期を邛都県公に廃し、幽閉した。李期は、天下の主が小県の公にされるくらいなら死んだほうがよいと嘆き、338年に縊れて死んだ。
史料について
李載の死を、載記は謀反と誣いての獄死とし、華陽国志は才を忌んでの誅殺とする。載記は、李期が李攸を毒殺し、李越らと李寿を襲う謀をめぐらしたので李寿が兵を挙げたとする。資治通鑑と華陽国志では先に謀ったのは李寿で、偽の手紙で兵を集めた。李攸の死を、資治通鑑は李期の毒殺とし、華陽国志は病死とする。載記は死んだ年を337年とする。晋書の成帝紀と五行志は李寿が弑したとし、華陽国志は李寿が李期と兄弟十余人を殺したとするが、このサイトは自殺とする。
李期とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
334–338年の地図に、李期が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元1・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。334年
- 皇后334年皇后を立てる
- 改元335年元号を「玉恒」とする
- 反乱338年5月李寿の政変(成主李期廃位事件)
成漢の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代李特皇帝を名乗っていない301–303年
- 第2代李流皇帝を名乗っていない303年
- 第3代武帝306–334年病死
- 第4代李班334年暗殺
- 第5代李期334–338年自害
- 第6代昭文帝338–343年病死
- 第7代後主343–347年病死
年表
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