李期
成漢(五胡十六国)|在位 334–338年
- 諱(本名)
- 李期
- 在位
- 334–338年
- 在位期間
- 3年213日365名中210位
- 即位経路
- 擁立
- 死因
- 自尽
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 25歳(数え年)269名中・長寿順211位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
李班暗殺の首謀者李越により、皇太后任氏に養育され多才だったことを理由に後継として擁立され即位。本人の主体的な簒奪行為ではない。
出典: 晉書 載記第二十一 李期
死因の経緯
従父の李寿が挙兵し成都を制圧、大逆不道の罪を理由に重臣(李越・景騫ら)の誅殺を上奏させられ従わざるを得ず、実権を完全に失った。李寿により廃位(幽公に降格)された後、自殺した。
出典: 晉書 載記第二十一 李期
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位時の建元のみ。在位中に他の改元記載なし。
大赦回数
即位時の一度のみ記載。李期の在位中(咸和九年~咸康三年)に他の大赦記事はない。なお成帝本紀側にも李期在位期間中の建康朝廷による大赦記事はあるが、これは東晋朝廷の出来事であり成漢の李期には帰属しない。
立后回数
冊立は一度のみ。廃后・再冊立の記載なし。
皇太子廃立回数
李期の在位中、皇太子(皇太弟等含む)を立てた記載自体がない。咸康三年に李寿が任氏の命を偽って李期自身を邛都県公に廃した(「寿矫任氏令,废期为邛都县公,幽之别宫」)が、これは皇帝本人の廃位であり皇太子廃立には該当しないため計上しない。
親征回数
李期本人が自ら軍を率いて出征した記録は『晋書』載記・『資治通鑑』ともに見られない。漢中の晋将司馬勲攻撃(咸康2年11月)、李玝討伐(涪への進軍)はいずれも李寿ら将軍を派遣したのみで、李期自身の親征ではない。
反乱鎮圧回数
在位中の武力反乱で李期側(皇帝側)が鎮圧主体となった事例は確認できない。罗演・上官澹の弑逆計画(咸康元年)は挙兵に至らず摘発のみで終結したため対象外。従兄李載の「謀反」は李期による冤罪での粛清であり実際の反乱ではないため対象外。李玝討伐は李寿の説得により玝が戦わず逃亡(晋へ亡命)したもので実際の軍事衝突がなく、反乱としての実態が乏しいため対象外とした。李寿の挙兵(下記)は反乱者側が主体となり皇帝を廃位に追い込んだ内部クーデターであり、例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当するため鎮圧側には計上しない。
被反乱回数
咸康元年(335年)の羅演・上官澹による李期暗殺未遂計画は、密告により発覚し挙兵に至らなかったため(謀反計画のみで終結)、被反乱回数には含めていない。
遷都回数
晋書載記を通読。李雄の成都定都(建国時の定都)から347年の桓温による滅亡まで成都が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
載記に「時年二十五、在位三年」と明記(李期の記述末尾)。没年について、載記本文は咸康三年(337)に李寿が任氏の命を偽って李期を邛都県公に廃し、その後李期が自縊したと記す。一方、晋書帝紀(成帝紀)は咸康四年(338)夏四月に「李寿弑李期」とあり1年のずれがある。載記の「在位三年」(咸和九年=334即位〜咸康三年=337没)という記述と内的整合性が取れるため、本回答では載記の咸康三年説を採用した。生年・即位時年齢の直接記載はない。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元334年即位に伴い「改元玉恆」。
即位に伴い「改元玉恆」。李期即位時の建元(成漢の新年号)。
出典: 晋書載記第二十一(李期)
大赦334年李期が皇帝位に即くにあたり「大赦境内」。
李期が皇帝位に即くにあたり「大赦境内」。班を殺した李越が即位を譲り、李期が僭即皇帝位した直後の記事。
出典: 晋書載記第二十一(李期)
立后334年即位直後「立妻阎氏为皇后」。
即位直後「立妻阎氏为皇后」。妻の阎氏を皇后に冊立。
出典: 晋書載記第二十一(李期)
被反乱338年4月〜338年5月李寿の政変(成主李期廃位事件)
首謀者: 李寿
結果: 李期が安北将軍李攸(李寿の養弟)を鴆殺し、また越・景騫らと李寿討伐を密議していたことを察知した李寿が、歩騎一万を率いて涪から成都を急襲し、無防備だった成都城を占拠。李寿は建寧王李越・景騫・田褒・姚華・許涪・李遐・李西らを『乱政謀反』として誅殺させた上で、皇太后任氏の令を偽って李期を邛都県公に廃し別宮に幽閉した。李期は『天下の主が小県公にされるくらいなら死んだ方がましだ』と嘆き、翌月(咸康四年五月)に自縊して死去(享年25)。李寿はそのまま自立して皇帝に即位し、国号を『漢』に改めた(成漢から漢への政権交代)。
李寿は成主雄・李期らと同族の宗室(李驤の子、李期の従兄弟)で、汉王・梁州刺史・録尚書事として大兵権を握っていた実力者。皇帝个人を弑逆・廃位に追い込む兵力行使を伴うクーデターであり、判定基準の例外4(宗室権臣による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当するため、被反乱回数には計上するが反乱鎮圧回数には計上しない。「晋書」李期載記は死去を『咸康三年(337年)』とするが、『晋書』成帝紀(本紀)は『(咸康)四年(338年)夏四月,李寿弑李期』とし、『資治通鑑』咸康四年(338年)条も同年四月に李寿挙兵・廃位、五月に自縊と記す。本紀・通鑑が一致するため咸康四年(338年)を採用し、載記の『三年』は誤記と判断した。