武帝
成漢(五胡十六国)|在位 306–334年

- 諱(本名)
- 李雄
- 在位
- 306–334年
- 在位期間
- 28年215日365名中27位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 61歳(数え年)269名中・長寿順33位タイ
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 4回267名中93位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 2回112名中41位タイ
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 4回289名中127位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:武帝
即位の経緯
巴氐族の首長として304年に成都王を自称、306年に皇帝に即位し成(成漢)を建国。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
死因の経緯
玉衡24年(334年)夏五月、頭部に悪性の腫れ物(悪瘡)ができ病に伏し、大将軍李寿に遺詔を託した後、6月丁卯に崩御(享年61、在位30年)。他殺の記述はない。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
建興(皇帝即位前・成都王時代)→太武(皇帝即位に伴う改元)→玉衡(皇帝在位中)の3回の改元を確認。晏平など他の元号への言及は載記本文中には見当たらなかった(データセット側で306年に「晏平」に改元とする記述があるが、本紀原文には明記されていないため今回はカウントに含めていない)。2026-07-16ユーザー確認により、皇帝即位前後の区分を各eventのnoteに明記しつつ、カウント自体は皇帝即位前・在位中の両方を含める従来方針を維持。
大赦回数
原文の「赦其境内」はいずれも成漢の支配領域全体を対象とした恩赦であり、大赦に相当するものとしてカウントした。「下寬大之令」(帰順者への優遇措置)は地域限定・対象限定の恩恵であり大赦に該当しないため除外した。
立后回数
李雄在位中の立后は任氏の一回のみ確認。廃后・再冊立の記録なし。
皇太子廃立回数
李雄在位中に皇太子が廃立された記録は見当たらない。兄李蕩の子・班を太子に立てる際、群臣・李驤らとの間で異論があったが、これは立太子の議論であり廃立ではない(班は雄死後に即位、その後李越に殺害されるが、これは雄の在位期間外の出来事)。
親征回数
李雄本人が軍を率いた記述が明確なのは載記中この2件のみ(他は李国・李雲・李驤・李寿・費黑・任回・班等の将軍による派遣戦役で本人不在のため対象外とした)。1件目は「雄擊走之」という簡潔な表現で本人親征かやや解釈の幅がある。李雄の在位はreignsフィールドでは306年開始だが、成漢建国者としての即位前の君主号(成都王、304年)時代の軍事行動も対象期間に含める方針(グループ3特有ルール)に従い304年前後の事象も候補としたが、明確に日付が付されている事象がないため確度は中程度とした。
反乱鎮圧回数
対晋(羅尚・王逊・李毅等)勢力への進出戦役(李国・李雲の漢中侵攻、李骧の越巂・寧州攻略、李寿らの巴東・朱提攻略等)は、対象が晋の統治下にあり李雄に服属していなかった勢力への外征・征服戦であり鎮圧・被反乱いずれにも含めていない。
被反乱回数
反乱鎮圧回数と対称の4件とした。いずれも成漢に服属していた将領・部族(羅羕・張金苟、文碩、楊難敵、苻成・隗文)による離反であり、規模・身分を問わず両面に計上する基準に従った。
遷都回数
晋書載記を通読。李雄の成都定都(建国時の定都)から347年の桓温による滅亡まで成都が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
晋書載記第二十一に「咸和八年、雄生疡於頭、六日死、時年六十一、在位三十年」とあり、崩御時年齢61歳が明記されている(咸和八年=334年、原文は年のみで月日は記載なし。設問記載の8月11日崩御は別典拠による)。即位時年齢・生年月日の直接記載は本紀中に見当たらない(母が身ごもってから「十四月而生雄」とあるのみで具体的な生年は不明)。
在位中の出来事(18件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征303年〜304年羅尚(西晋益州刺史)配下の攻撃部隊
対象: 羅尚(西晋益州刺史)配下の攻撃部隊
結果: 李流の死後、雄が大都督・大将軍・益州牧を自称し郫城に拠った直後、羅尚が将を遣わして雄を攻めたが、雄自らこれを撃退した(「羅尚遣將攻雄,雄擊走之」)。
永興元年(304年)の成都王僭称の直前後の出来事とみられ、正確な年次は載記本文に明記されない。晋書本紀等での裏付けは取れていない。
親征309年向奮(羅尚配下の将軍)
対象: 向奮(羅尚配下の将軍)
結果: 羅尚が向奮を安漢の宜福に駐屯させ雄に迫らせたため、雄自ら軍を率いて向奮を攻撃したが攻略できず(「雄率眾攻奮,不克」)、兵を引いた。
晋書本紀の永嘉三年(309年)「李雄別帥羅羨以梓潼歸順」の記事付近の出来事と推定し年次を仮置き。
反乱鎮圧309年〜310年李离配下(羅羕・張金苟)の反乱・梓潼失陥
首謀者: 羅羕(羅羨)・張金苟
結果: 李离の部将であった羅羕・張金苟が李离と閻式を殺害し、梓潼を挙げて晋の羅尚に投降した。雄は将の張寶を派遣して梓潼を襲撃・奪還させ(「陷之」)、鎮圧に成功した。のち李驤が涪を攻略した際に晋側の梓潼太守譙登を捕らえており、奪還が最終的に確定した。
晋書本紀(懐帝紀)永嘉三年条「李雄別帥羅羨以梓潼歸順」・永嘉四年条「李雄陷梓潼」と符合する。
被反乱309年〜310年李离配下(羅羕・張金苟)の反乱・梓潼失陥
首謀者: 羅羕(羅羨)・張金苟
結果: 李离配下の羅羕・張金苟が主君李离と閻式を殺害し、梓潼を挙げて晋の羅尚に寝返った。梓潼は一時失陥したが、雄が張寶を派遣して奪還し鎮圧された。
rebellionSuppressionCountと同一事象・同一件数(対称)。
反乱鎮圧310年李国配下(文碩)の反乱・巴西失陥
首謀者: 文碩
結果: 巴西を鎮守していた李国が帳下の文碩に殺害され、文碩は巴西を挙げて晋の羅尚に投降した。羅尚死後の混乱に乗じ李驤が涪を攻略し勝ちに乗じて文碩を討伐し、これを殺害して鎮圧した。
晋書本紀永嘉四年条「李雄將文碩殺雄大將軍李國,以巴西歸順」と符合する。
被反乱310年李国配下(文碩)の反乱・巴西失陥
首謀者: 文碩
結果: 巴西を鎮守する李国が帳下の文碩に殺害され、巴西が晋の羅尚に寝返った。のち李驤により文碩は討たれ鎮圧された。
rebellionSuppressionCountと同一事象・同一件数(対称)。
改元日付不詳【皇帝即位前】永興元年(304年)成都王を僭称した際、「建元為建興」とあり最初の建元。
【皇帝即位前】永興元年(304年)成都王を僭称した際、「建元為建興」とあり最初の建元。固有指示により成都王即位時の建元をeraChangeCountに含める。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
改元日付不詳【皇帝即位(改元同時)】范長生の勧めで皇帝号を僭称した際、「改年曰太武」とあり改元。
【皇帝即位(改元同時)】范長生の勧めで皇帝号を僭称した際、「改年曰太武」とあり改元。成都王から皇帝への改称に伴う建元。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
改元日付不詳【皇帝在位中】文碩討伐成功後、「改元曰玉衡」とある改元。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
大赦日付不詳永興元年(304年)成都王を僭称した際に「赦其境内」とあり、境内(成漢の支配域)全域への恩赦。
永興元年(304年)成都王を僭称した際に「赦其境内」とあり、境内(成漢の支配域)全域への恩赦。建元「建興」と同時。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
大赦日付不詳范長生の勧めにより帝位に即いた際(皇帝号への改称)に「赦其境内」とあり、改年「太武」と同時。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
大赦日付不詳羅尚死後、文碩討伐に成功し「雄大悦、赦其境内、改元曰玉衡」とある。
羅尚死後、文碩討伐に成功し「雄大悦、赦其境内、改元曰玉衡」とある。改元「玉衡」と同時の恩赦。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
大赦日付不詳李寿らが寧州(尹奉降伏)を平定した際、「雄於是赦其境内、使班討平寧州夷」とある恩赦。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
立后日付不詳「偽立其妻任氏為皇后」とあり、妻の任氏を皇后に立てた。
「偽立其妻任氏為皇后」とあり、妻の任氏を皇后に立てた。南方の漢嘉・涪陵獲得や宽大の令の記述の後、氐王楊難敵の記述の前に位置する。
出典: 晉書 載記第二十一 李雄
反乱鎮圧日付不詳氐王楊難敵の離反
首謀者: 楊難敵
結果: 劉曜に敗れて葭萌に逃れ子を人質に出して服属していた氐王楊難敵が、要害を恃んで法を守らなくなったため、雄は中領軍琀・将軍楽次・費他・李乾ら(白水橋方面)と征東李寿・玝(陰平方面)を派遣して討伐させたが、難敵軍に四面から攻められ琀・稚(雄の兄李蕩の子)を含む将兵数千人を失う大敗を喫し、鎮圧は失敗に終わった。
楊難敵が劉曜に敗れて服属した時期は載記に明記されないが、前趙が仇池方面へ進出した320年代前半頃と推定される。鎮圧失敗のまま在位終了までその後の再討伐は載記に記載がない。
反乱鎮圧日付不詳氐苻成・隗文の反乱
首謀者: 苻成・隗文
結果: 既に服属していた氐の苻成・隗文が離反し(「既降復叛」)、雄の母を傷つけるに至ったが、後に帰順した際、雄は罪を全て許し厚遇した。原文には軍事的な鎮圧行動の詳細は記されておらず、寛容策により終息した可能性がある。
載記末尾の雄の人物評の一部として記されており、発生時期は特定できない。同名の隗文・苻成に類似する人物が晋書本紀では成漢滅亡後(346年前後、桓温の蜀平定直後)にも反乱を起こしているが、これは李雄の在位期間外の別事象であり本項目には含めていない。
被反乱日付不詳氐王楊難敵の離反
首謀者: 楊難敵
結果: 人質を出して服属していた楊難敵が離反し、雄が派遣した討伐軍(琀・稚ら)を返り討ちにして将兵数千人を殺した。鎮圧は失敗に終わり、以後の再討伐は載記に記載がない。
rebellionSuppressionCountと同一事象・同一件数(対称)。鎮圧失敗のまま経過した点は基準2(未鎮圧のまま在位終了)にも該当しうるが、鎮圧側にも1件計上(試みが行われ失敗)としたため件数は一致する。
被反乱日付不詳氐苻成・隗文の反乱
首謀者: 苻成・隗文
結果: 服属していた苻成・隗文が離反し、雄の母を傷つける事態に至った。後に帰順し雄に許された。
rebellionSuppressionCountと同一事象・同一件数(対称)。