昭文帝
成漢(五胡十六国)|在位 338–343年
- 諱(本名)
- 李寿
- 在位
- 338–343年
- 在位期間
- 5年213日365名中177位
- 即位経路
- 簒奪
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 44歳(数え年)269名中・長寿順111位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:昭文帝
即位の経緯
李雄の族子。李期の専横に乗じ挙兵して成都を制圧、李期を廃位に追い込み実権を奪って即位。国号を「成」から「漢」に改号。
出典: 晉書 載記第二十一 李壽
死因の経緯
漢興6年(343年)8月、44歳で崩御(在位5年)。晩年は重病に苦しみ、廃位・自殺に追い込んだ李期や、誅殺した左僕射蔡興の亡霊を見る夢にうなされたという逸話が伝わる。心因的要因が語られるが直接の死因は病。
出典: 晉書 載記第二十一 李壽
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元(漢興、国号を漢に改称)が1回。以後、343年8月に崩御するまで再度の改元は記されていない(後継の李勢が『太和』へ改元したのは李寿死後の事績であり、李勢側に帰属)。
大赦回数
李寿在位中(338~343年)に明記された大赦は即位時の1回のみ。以後の在位期間中に追加の大赦記事は見当たらない。
立后回数
在位中に閻氏以外の立后・廃后の記述はない。
皇太子廃立回数
李寿は即位時に世子・李勢を太子に立てたのみで、在位中に皇太子を廃した記述はない。李期を『邛都県公』に廃した事績は先帝(前の即位者)を廃位したものであり、皇太子の廃立には該当しない。
親征回数
『晋書』載記第二十一(李寿載記)「乃誓文武、得数千人、袭成都、克之」および『資治通鑑』晋紀十八・咸康四年条「寿乃…帅步骑万余人自涪袭成都…遂克成都」に基づく。以後の在位期間(338-343年)中に李寿自身が軍を率いて戦場に赴いた記事は確認できなかった(対晋の水軍動員(咸康五年)は成都城壁上から観閲したのみで出征せず取りやめ、牂柯遠征は鎮東大将軍李奕の派遣、巴東・江陽方面の攻防も配下将軍の指揮であり、いずれも親征に該当しない)。
反乱鎮圧回数
在位期間(338-343年)中、李寿政権に対する武力蜂起が実際に発生し鎮圧に至った記録は確認できなかった。咸康年間に『広漢太守李乾、大臣と通謀し寿を廃せんと欲す』との告発(『晋書』李寿載記・『資治通鑑』)、および咸康年間の『漢仆射任顔謀反、誅』(『資治通鑑』)の2件があるが、いずれも挙兵(実際の兵力行使)に至った記述がなく、前者は李乾の左遷、後者は誅殺のみで処理されており、密告・摘発型の謀反計画として鎮圧回数には含めなかった。李期を廃した咸康四年(338)のクーデターは李寿自身が先制的に攻撃を仕掛けた事案(李期側はまだ挙兵しておらず無防備だった)であり、反乱が成立していないため鎮圧回数には計上しない。
被反乱回数
李期を廃した咸康四年(338)のクーデターは李寿自身が攻撃の主体であり(李期側は事前に察知して監視・毒殺工作を行ったのみで、実際の挙兵には至らないまま李寿の急襲を受けた)、反乱が成立していないため被反乱回数には含めない。咸康年間の『漢仆射任顔謀反、誅』(『資治通鑑』)は記述が極めて簡略で、実際の挙兵の有無が判然としないため(密告・摘発のみで終わった可能性が高いと判断)除外したが、記述の簡潔さゆえ確信度は中とした。広漢太守李乾の廃立計画も告発のみで武力行使の記録がなく除外。
遷都回数
晋書載記を通読。李雄の成都定都(建国時の定都)から347年の桓温による滅亡まで成都が一貫した都。
即位時年齢・没年齢
『晋書』載記第二十一:「寿疾篤、常見李期、蔡興為祟。八年、寿死、時年四十四、在位五年」。八年は成帝紀・康帝紀の記述と対照すると建元元年(343年)に相当し、同紀「八月、李寿死、子勢嗣偽位」と一致する。即位時(咸康四年=338年)の年齢は原文に直接記載なし。「時年十九」の記述は前将軍・征東将軍拝任時(李雄期)のもので即位年齢ではないため採用せず。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元338年4月咸康四年四月、李期を弑して即位し、国号を『成』から『漢』に改め、年号を『漢興』と建元した(「遂以咸康四年僭即偽位、赦其境内、改元為漢興」)。
咸康四年四月、李期を弑して即位し、国号を『成』から『漢』に改め、年号を『漢興』と建元した(「遂以咸康四年僭即偽位、赦其境内、改元為漢興」)。国号改称と建元が同一の即位事績として記される。
出典: 晉書 載記第二十一 李寿
大赦338年4月咸康四年四月、李期を廃して即位した際に「赦其境内」(境内を赦す)と大赦を行った。
咸康四年四月、李期を廃して即位した際に「赦其境内」(境内を赦す)と大赦を行った。国号改称・建元と同時の事績。
出典: 晉書 載記第二十一 李寿
立后338年4月咸康四年四月の即位に伴い、妻の閻氏を皇后に立てた(「立妻閻氏為皇后」)。
出典: 晉書 載記第二十一 李寿
親征338年4月李期(成漢の主)とその一派(建寧王李越・尚書令景騫・田褒・姚華ら)
対象: 李期(成漢の主)とその一派(建寧王李越・尚書令景騫・田褒・姚華ら)
結果: 咸康四年(338年)四月、汉王であった李寿が歩騎一万余を率いて涪から成都を急襲。李期側は不意を突かれ無防備のまま成都を制圧され、李寿は李越・景騫らを捕えて誅殺、太后任氏の令を偽って李期を邛都県公に廃した(李期はのちに自殺)。李寿はそのまま同年中に皇帝を僭称し、国号を『成』から『漢』に改めた。
李寿がまだ李期配下の『漢王』(臣従の王号)だった時点での挙兵だが、この一連の軍事行動が同年内にそのまま自らの即位に直結しており、対象期間(在位338-343年)の起点をなす事績として計上した。