昭文帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 338年〜343年
- 没年
- 343年9月44歳(数え年)長生き順同率110位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓李諱寿字武考廟号中宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百二十一 載記第二十一(李壽)/晋書 成帝紀・
康帝紀/華陽国志 巻九 - 死因
- 晉書 載記第二十一 李壽
- 即位経路
- 晉書 載記第二十一 李壽
生涯
どんな皇帝か
晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、父祖の資を借りて兵を尽くし、位を盗んだと評する。
即位まで
聡くて学を好み度量が広く、若くして礼儀を重んじて李氏の諸子と違い、処士官職に就かずに暮らす、学識のある人の譙秀を賓客に招いて直言させた。王となってからは良将や賢相の事績を繰り返し誦し、賢相と呼ばれた。李雄の死後は遺命亡くなる人が生前に残した言いつけを受けて政治を輔け、李期が即位すると漢王とされた。李越らに憚られて身を案じ、龔壮の進言を容れて成都を襲い、李期を廃した。成都では兵に数日略奪させ、李雄の娘や李氏の婦人までが辱められた。群臣が晋への称藩大国の臣下として従うと表明することか自立かで割れると、数年でも天子になれるとの占いに従い、338年に帝位に即いた。
史料について
李期が養弟の李攸を毒殺したことを挙兵のわけとするのは、載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録の李期の条である。資治通鑑と華陽国志は、子の李勢が城門を開いて李寿の軍を入れたとも記す。
治世と最期
龔壮を太師君主の師とされる、最高位の位の一つに招いたが固辞されたので、白い頭巾のまま師友の位に置き、埋もれた人材を高位に抜擢した。公卿朝廷の位の高い大臣たちには自分の僚佐を用いて旧臣を退けたが、政治は当初李雄の寛大で倹約なやり方を踏襲した。李乾が大臣と廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることを謀っていると告げる者があり、李寿は子の李広を大臣と盟わせて、李乾を地方へ移した。落雷があると深く自らを責め、群臣に忌憚なく忠言するよう命じた。李雄の子らは、みな李寿に殺された。
石虎に東晋を共に攻めようと誘われて喜び、兵を整えたが、龔壮が諫め、群臣も泣いて諫めたのでやめた。石虎の鄴の繁栄と刑罰による統治を慕い、小さな過ちでも人を殺し、宮室を造って民を疲れさせた。直諫した蔡興を誅し、帝号皇帝という称号をやめよと説いた李演も殺した。龔壮が詩で諷諫遠回しにいさめることしても、古人の作なら死人の決まり文句だと退け、上書君主に意見を書いて差し出すことで先代の政治を言わせなかった。
病が篤くなると李期と蔡興の祟りをたびたび見るようになり、343年に死んだ。
史料について
李乾を、載記は廃立を謀ったと訴えられた側とし、資治通鑑は大臣の謀を告げた側とする。資治通鑑は、李雄の子らを殺したのを338年の任顔の謀反の後に置く。死んだ年は、康帝紀・華陽国志・資治通鑑が343年とし、載記は八年とだけ書く。
昭文帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
338–343年の地図に、昭文帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
親征1・皇后1・改元1・大赦1
- 改元338年5月元号を「漢興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。338年5月
- 皇后338年5月皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。338年5月李期(成漢の主)とその一派(建寧王李越・
尚書令景騫・ 田褒・ 姚華ら)
成漢の歴代皇帝
歴代7人の一覧- 第1代李特皇帝を名乗っていない301–303年
- 第2代李流皇帝を名乗っていない303年
- 第3代武帝306–334年病死
- 第4代李班334年暗殺
- 第5代李期334–338年自害
- 第6代昭文帝338–343年病死
- 第7代後主343–347年病死
年表
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