中国皇帝統計

後主

成漢(五胡十六国)|在位 343–347年

諱(本名)
李勢
在位
343–347年
在位期間
3年211日365名中211位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
不詳
改元
2332名中78位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
129名中5位タイ
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:後主

即位の経緯

昭文帝李寿の子として即位。

出典: 晉書 載記第二十一 李勢

死因の経緯

永和3年(347年)3月、東晋の桓温に成都を攻略され、自らを縛り棺を担いで投降。帰義侯に封じられ建康に移住、処刑・粛清されることなく14年後の升平5年(361年)に死去。降伏後は天寿を全うしたとみられ、具体的な死因の詳細な記述はないが自然死。

出典: 晉書 載記第二十一 李勢

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位建元(太和)と李奕の乱鎮圧後の改元(嘉寧)の計2回。原文に他の改元記事は見当たらない。

大赦回数

原文「势既诛奕,大赦境内,改年嘉宁」の1件のみを計上。即位時の「赦其境内」(大赦ではない)は基準外として除外。

立后回数

即位時の一度のみ。

皇太子廃立回数

原文は「废太弟」と明記されているわけではなく「贬广为临邛侯」(臨邛侯に貶める)という表現だが、太弟の地位からの実質的な廃黜と判断し1件計上。

親征回数

『晋書』李勢載記・『資治通鑑』晋紀ともに「勢悉衆出戰(出戰於成都之笮橋)」と明記されており、皇帝本人が最終決戦の場に出陣したことが確認できる(それ以前の彭模攻防戦は叔父の李福・従兄の李権が主体で本人不出陣)。この一戦をもって親征1回とカウントした。桓温の遠征自体は東晋という独立政権への対等勢力への征服戦争だが、personalCampaignCountの判定基準は対象の独立性を問わないため計上した。

反乱鎮圧回数

汉王広・馬当・解思明の粛清(李勢が謀反を疑い先制的に太保李奕を派遣して汉王広を涪城に攻めさせ、馬当・解思明を誅殺した事件)は、相手側がまだ挙兵していない段階での皇帝側の先制武力行使であり、例外3(皇帝自身が攻撃の主体だった場合)に該当するため鎮圧回数・被反乱回数のいずれにも算入しなかった。桓温(東晋)による成漢征討は対等な独立政権同士の征服戦争であり反乱には該当しないため除外した。

被反乱回数

汉王広粛清事件は例外3(皇帝側の先制攻撃、相手未挙兵)に該当し除外。桓温(東晋)による成漢征討は対等な独立政権同士の統一戦争であり被反乱には含めなかった(personalCampaignCountの方には計上済み)。載記中の「夷獠叛乱、軍守離缺、境宇日蹙」という記述は、山地から流出した獠族が巴西〜犍為・梓潼一帯十余万落に広がり統制不能となった一般的な社会情勢を述べたもので、特定の首謀者・蜂起地点・鎮圧経過を伴う個別事件として記述されていないため、被反乱回数には算入しなかった(researchNoteに要留意事項として記録)。

遷都回数

晋書載記を通読。李雄の成都定都(建国時の定都)から347年の桓温による滅亡まで成都が一貫した都。

即位時年齢・没年齢

既存レコード(deathCause.note/accessionRoute.note/reigns[].note)および_corpus_cache/chenghan-lishi.txt(晋書載記第二十一・李勢伝)を確認したが、生年月日・即位時年齢・没年齢(「時年」「享年」等)の直接記載はいずれも見当たらなかった。原文末尾に「升平五年、死於建康」(361年、建康で死去)とあり没年は年精度で判明するため deathDate は0361-01-01(year精度)としたが、月日・享年は不明。即位年(343年)から逆算する起点となる年齢の直接記載も原文になく、accessionAge/deathAgeとも逆算不能。調査したが原典に生年月日・享年の直接記載が見当たらなかった。

在位中の出来事(8件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧346年李弈の反乱

首謀者: 李弈(もと太保、李広〔汉王広〕討伐の将)

結果: 李弈は晋寿より挙兵し、蜀人の多くが従って数万の兵衆に膨れ上がった。李勢は成都城に登って防戦(『晋書』李勢載記「勢登城距戦」、『資治通鑑』「勢登城拒之」)。李弈は単騎で城門に突入したが門衛に射殺され、その軍勢は瓦解・鎮圧された。乱後、李勢は大赦を行い嘉寧と改元した。

『晋書』李勢載記・『資治通鑑』晋紀(永和二年冬条)に拠る。李弈はもと李勢の命で弟の汉王李広(太弟就任を求めて疑われた)を涪城に攻めた将であったが、のちに自ら晋寿で挙兵し反旗を翻した。時期は「冬」とのみ記され月日不明のため年精度とした(永和二年=346年冬、嘉寧改元は反乱鎮圧直後)。

被反乱346年李弈の反乱

首謀者: 李弈(もと太保、李広〔汉王広〕討伐の将)

結果: 李弈が晋寿で挙兵し数万の兵衆を集めて成都に迫ったが、単騎で城門に突入したところを門衛に射殺され、軍勢は瓦解し鎮圧された。

rebellionSuppressionCountと同一事件(首謀者単位で1件、鎮圧・被反乱とも対称)。李勢自身が成都城壁上で防戦の指揮を執った(登城距戦)。

親征347年2月〜347年3月桓温率いる東晋の成漢征討軍

対象: 桓温率いる東晋の成漢征討軍

結果: 桓温が成都に迫ると、李勢は全軍を率いて自ら成都近郊の笮橋に出撃して交戦(『資治通鑑』永和三年条:「勢悉衆出戰於成都之笮橋」)。緒戦は晋軍参軍龔護が戦死するなど一進一退となったが、袁喬の督戦で晋軍が盛り返し成漢軍は大潰。桓温は勝に乗じて成都城門を焼き、李勢は夜に東門から脱出し葭萌城まで敗走、のち桓温に降伏し成漢は滅亡した。

『晋書』李勢載記及び『資治通鑑』永和三年条の「勢悉衆出戰於成都之笮橋」に基づく。正確な戦闘日は不明だが、降伏文書の日付(嘉寧二年三月十七日)より直前の347年3月中と推定、幅を見て月精度とした。

改元日付不詳李寿の死去に伴い李勢が即位、「改元曰太和」と建元。

李寿の死去に伴い李勢が即位、「改元曰太和」と建元。成漢における即位建元。

出典: 晋書載記第二十一(李勢)

改元日付不詳弟李広を太弟に立てた後に謀反を疑い誅殺、これに続き李奕の反乱を鎮圧した後、「势既诛奕,大赦境内,改年嘉宁」と改元(太和→嘉寧)。

出典: 晋書載記第二十一(李勢)

大赦日付不詳李奕(晋寿から挙兵し反乱)を討伐・誅殺した後、「大赦境内」と明記され、同時に嘉寧と改元。

李奕(晋寿から挙兵し反乱)を討伐・誅殺した後、「大赦境内」と明記され、同時に嘉寧と改元。成漢史上唯一「大赦」の語が明記された恩赦。なお即位時(太和改元時)は単に「赦其境内」(大の字なし)と記されており、本方針の「大赦」明記基準を満たさないため計上しない。

出典: 晋書載記第二十一(李勢)

立后日付不詳李勢即位時に「妻李氏为皇后」と明記。

李勢即位時に「妻李氏为皇后」と明記。原文に廃后・再冊立の記述はなし。

出典: 晋書載記第二十一(李勢)

皇太子廃立日付不詳李勢に子がなかったため弟の李広が「太弟」(皇太弟)となることを求め、当初拒否されたが馬当・解思明の進言により許可され太弟となった。

李勢に子がなかったため弟の李広が「太弟」(皇太弟)となることを求め、当初拒否されたが馬当・解思明の進言により許可され太弟となった。その後、李勢は李広らが謀反を企てていると疑い、太保李奕に命じて涪城の李広を襲わせ、馬当・解思明を誅殺(三族皆殺し)、李広を臨邛侯に降格(貶)した。李広はその後自殺。太弟という法定推定継承者の地位を剥奪(貶降)した事例として1件計上。

出典: 晋書載記第二十一(李勢)

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