明帝
後趙(五胡十六国)|在位 330–333年

- 諱(本名)
- 石勒
- 廟号
- 高祖
- 在位
- 330–333年
- 在位期間
- 2年337日365名中226位
- 即位経路
- 建国
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 60歳(数え年)269名中・長寿順39位タイ
- 改元
- 3回332名中45位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 2回225名中145位タイ
- 被反乱
- 2回289名中158位タイ
- 遷都
- 0回
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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:明帝
即位の経緯
羯族出身。奴隷から身を起こし前趙の有力部将となった後、劉曜と対立し319年に自立、329年に前趙を滅ぼし330年に皇帝を称し後趙を建国。
出典: 晉書 載記第四 石勒上
死因の経緯
建平4年(333年)秋7月、病篤くなり「大雅(石弘)兄弟、宜しく善く相保つべし。司馬氏は汝らの前車なり」等の遺命を残し崩御(享年60)。甥の石虎が実権を握るため、程遐・徐光ら太子側近を粛清し、遺体を密かに山中に埋葬し場所を秘匿、高平陵への埋葬は虚葬という異例の措置が取られた。石勒自身への他殺の記述はなく病死。
出典: 晉書 載記第五 石勒下
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
319年の趙王即位(建元)、328年の年号「太和」への改元、330年の皇帝号改称に伴う「建平」への改元の計3回。なお330年内には皇帝号改称に先立ち「趙天王」僭号(行皇帝事)の段階があるが、この時点では明示的な改元の記事がなく、その後の皇帝即位時の改元建平と一体の出来事として扱った。
大赦回数
「大赦」「大赦境内」と明記された2件のみを採用。太興二年(319年)趙王自立時の『赦殊死已下』、および咸和五年前半の『赦三歳刑已下』『特赦涼州殊死』『赦四歳刑』『赦五歳刑』などは特定刑期以下・特定地域限定の部分的恩赦であり「大赦」の明記がないため対象外。咸和七年(石勒崩御後)の『大赦』(載記第五末尾、石虎による)は石弘期の出来事として除外。
立后回数
皇后としての正式冊立は皇帝即位時の劉氏立后の1回のみ。廃后・再冊立の記事はなし。
皇太子廃立回数
石勒の世子であった石興は廃立ではなく死去(『勒世子興死』)。後継の石弘は趙天王即位時(咸和五年)に太子に立てられ、石勒の生前は一貫して太子(皇帝即位後も継続)のままであり、廃立の記事はない。石弘が海陽王に廃されるのは石勒崩御後、石弘自身の治世下(石虎による)の出来事であり、石勒の在位中の廃立には該当しない。
親征回数
石勒の在位中(趙王・趙天王・皇帝の全期間を通じ)でこの1回のみ、本人が軍を率いて戦場に赴いた事例が確認できる(他は全て石季龍・石生・石堪ら諸将への派遣)。
反乱鎮圧回数
晋書載記第五に「勒西夷中郎将王胜袭杀并州刺史崔琨、上党内史王昚、以并州叛于勒」とある事例は、当初は石勒配下の将領による離反と読めたが、資治通鑑(晋紀)で確認したところ「王腾(王胜と同一人物)袭杀…据并州降赵」であり、実際には前趙(劉曜)側の并州を後趙側へ寝返らせた事例(後に前趙の中山王岳に并州を奪還され王腾は殺害)で、対等政権間の争いに付随する寝返りであり石勒への反乱ではないため、鎮圧・被反乱いずれからも除外した。また曹嶷(青州)討伐は既に服属していた曹嶷が特に離反行動を起こしていない状況で石勒側から先制的に攻め滅ぼした事例(例外3:皇帝自身が攻撃の主体)と判断し除外した。
被反乱回数
反乱鎮圧回数と対称。判定基準・除外事例(王胜=王腾の件、曹嶷の件)はrebellionSuppressionCount側のnoteを参照。
遷都回数
晋書載記を通読。石勒期は建国以来の襄国が都のまま(建国時の定都)、鄴宮造営構想はあったが実行前に没した。
即位時年齢・没年齢
『晋书』載記第五(咸和七年条)に「以咸和七年死,時年六十,在位十五年」とあり、崩御時の年齢60歳・在位15年が明記される。生年月日・崩御月日(日付)・即位時年齢の明記はなし(咸和七年=333年に対応するが、月日は当該載記に記載なし)。
在位中の出来事(11件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元319年【皇帝即位前】太興二年、石勒が趙王を自称し、「春秋列国・漢初侯王の毎世称元に依り、改めて趙王元年と称す」として建元(在位年数を趙王元年として起算)。
【皇帝即位前】太興二年、石勒が趙王を自称し、「春秋列国・漢初侯王の毎世称元に依り、改めて趙王元年と称す」として建元(在位年数を趙王元年として起算)。この人物固有の注意事項に従い、趙王即位に伴う最初の建元として1回とカウント。
出典: 晋書載記第五
反乱鎮圧320年〜322年徐龛の反乱(兗州・泰山方面)
首謀者: 徐龛
結果: もと晋の泰山太守で太興2年(319年)に後趙へ帰順していた徐龛が、太興3年(320年)に後趙将王伏都の軍を疑って殺害し離反。以後、石季龍らの討伐と徐龛の再降伏・再離反を繰り返したが、太興5年(322年)7月に石季龍が泰山を陥落させて徐龛を捕らえ、襄国で焼殺(配下将士の妻子に肉を食わせる等の過酷な処置)し、降卒3千を生き埋めにして鎮圧した。
討伐の実務は一貫して石季龍が担当し、石勒自身は親征していない。
被反乱320年〜322年徐龛の反乱(兗州・泰山方面)
首謀者: 徐龛
結果: 太興3年(320年)に後趙将王伏都の軍を殺害して離反、その後再降伏と再離反を繰り返したが、太興5年(322年)7月に石季龍により泰山を陥落させられ捕縛・処刑され鎮圧された。
反乱鎮圧回数と同一事象(対称計上)。
改元328年【皇帝即位前】咸和三年、黒兎献上の祥瑞を機に大赦を行い、年号を「太和」に改める(趙王としての正式な年号制定)。
出典: 晋書載記第五
大赦328年茌平令が黒兎を献上した祥瑞を機に「大赦」を行い、同年(咸和三年)年号を「太和」に改める。
茌平令が黒兎を献上した祥瑞を機に「大赦」を行い、同年(咸和三年)年号を「太和」に改める。趙王時代の出来事。
出典: 晋書載記第五
親征328年11月〜328年12月前趙(劉曜)
対象: 前趙(劉曜)
結果: 咸和三年(328年)冬、前趙の劉曜が洛陽・金墉城を包囲すると、群臣の反対(程遐ら「親征すべきでない」との諫言)を退け石勒自ら歩騎四万を率いて出陣。成皋関に諸軍を集め洛陽に突入、十二月に西陽門で劉曜軍を大破し劉曜自身を生け捕りにした(斬首五万余級)。前趙の主力は事実上壊滅し、劉曜は後に処刑された。
晋書載記第五・資治通鑑晋紀ともに石勒自身が出陣した経緯(程遐らの制止を振り切り自ら統軍)を明記。
改元330年【皇帝即位(改元同時)】咸和五年、群臣の勧進により皇帝位に即き、大赦境内のうえ改元して「建平」とする。
【皇帝即位(改元同時)】咸和五年、群臣の勧進により皇帝位に即き、大赦境内のうえ改元して「建平」とする。この人物固有の注意事項に従い、皇帝号改称に伴う改元として1回とカウント。
出典: 晋書載記第五
大赦330年群臣の勧進により皇帝位に即き、「大赦境内」(境内に大赦)を行い、改元して建平とする。
出典: 晋書載記第五
立后330年咸和五年、皇帝位に即いた際に妻の劉氏を皇后に立てる(「立其妻劉氏為皇后」)。
咸和五年、皇帝位に即いた際に妻の劉氏を皇后に立てる(「立其妻劉氏為皇后」)。なお同年前段で趙天王僭号時に劉氏を「王后」に立てた記事があるが、これは皇后ではないため冊立回数には含めない。
出典: 晋書載記第五
反乱鎮圧330年秦州休屠部王羌の反乱
首謀者: 王羌
結果: 咸和五年(330年、石勒の皇帝即位直後)、秦州の休屠部族長王羌が離反し、氐・羌諸部も呼応して隴右が動揺したが、河東王石生(勒の子)がこれを撃破、王羌は涼州へ敗走した。
咸和三年(328年)頃に後趙が新たに平定した秦州・隴右地域における服属部族の反乱。討伐は石生が担当。
被反乱330年秦州休屠部王羌の反乱
首謀者: 王羌
結果: 咸和五年(330年)、秦州の休屠部族長王羌が離反し隴右一帯が動揺したが、石生に撃破され涼州へ敗走した。
反乱鎮圧回数と同一事象(対称計上)。