
羯の出身で、奴隷として売られた身から後趙を建て、皇帝の位に即いた。
明帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 趙王319年〜330年
- 皇帝330年〜333年8月17日
- 没年
- 333年60歳(数え年)長生き順同率39位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 石弘後趙石弘は明帝の子
- 呼び名
- 姓石諱勒字世龍幼名匐勒廟号高祖呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻一百五 載記第五(石勒下)
- 死因
- 晉書 載記第五 石勒下
- 即位経路
- 晉書 載記第四 石勒上
生涯
どんな皇帝か
晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人曰は、凶残だが一時の傑物だと評しつつ、後継を託す相手を誤ったと結ぶ。
即位まで
流浪中に飢えと寒さを訴えると、郭敬が泣いて食べ物と衣服をくれた。并州の飢饉で胡人が売られ、石勒も奴となったが、主人の師歓は容貌を奇として解き放った。公師籓の挙兵に加わったとき汲桑に石勒という姓名を付けられ、のちに劉淵に仕えた。乱暴な石虎を殺そうとしたときは、母に、足の速い牛は子牛のうちはよく車を壊すものだと止められた。のちに降卒を穴埋めにしようとした場で郭敬に気づくと、手を取って泣き、降卒をすべて赦した。幽州を急襲して王浚を捕らえ、劉曜と決裂して319年に趙王を称した。故郷武郷の古老を襄国に招いた宴で、無位の頃の恨みにすぎないと言って昔殴り合った李陽を呼び、腕を取って笑い、官を与えた。陣中でも儒生に歴史を読み聞かせさせ、酈食其が六国の子孫を立てるよう勧めたくだりを聞くと、これでは失敗すると驚いた。328年に自ら出陣して洛陽で劉曜を破り、330年に帝位に即いた。
史料について
学問を、載記晋書で、晋とは別に国を建てた君主たちの記録は好んだとし、資治通鑑はしなかったとして、この話を即位後の332年の条に置く。
治世と最期
鄴の宮殿造営を諫めた続咸を斬ろうとしたが、徐光に諫められると工事を止めて続咸に褒美を与え、のち巨木が流れ着くと天意として鄴宮を造らせた。黄帝に次ぐという徐光の言葉を言い過ぎだと笑い、漢の高祖に出会えば臣として仕え、光武帝に出会えば中原で競うが、曹操や司馬懿のように孤児と寡婦を欺いて天下は取らないと語った。
程遐が石虎を早く除くよう説き、徐光も石虎が死後の禍いになると説いたが、従わなかった。太子に尚書天子のもとで政治の実務を扱う役所や役人、また儒教の古典の名の奏事を決裁させ、大事だけを自分に上げさせたので、石虎の門には人が寄りつかなくなった。重病になると石虎が命令を偽って太子の石弘らを遠ざけ、遺令君主などが死に際に残した命令は石虎に周公・霍光の例をよく考えよと戒めた。333年に没し、遺体は夜に山谷へ埋められ、場所は知られなかった。
史料について
没年を、載記は332年とし、成帝紀と資治通鑑は333年とする。
明帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
330–333年の地図に、明帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元1・大赦1
- 改元330年元号を「建平」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。330年
- 皇后330年皇后を立てる
- 反乱330年秦州休屠部王羌の反乱
後趙の歴代皇帝
歴代7人の一覧年表
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後趙が