幽帝
前燕(五胡十六国)|在位 360–370年
- 諱(本名)
- 慕容暐
- 在位
- 360–370年
- 在位期間
- 10年289日365名中124位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 35歳(数え年)269名中・長寿順164位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 0回
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:幽帝
即位の経緯
景昭帝慕容儁の三男として11歳で即位、叔父の慕容恪らが後見。
出典: 晉書 載記第十一 慕容暐
死因の経緯
前燕滅亡後、前秦に降伏し尚書・司馬に任じられ寛大な処遇を受けた。しかし建熙8年(373年、前秦紀年では建元9年)、慕容恪の子慕容粛と結託し、子の婚儀にかこつけて苻堅を招き酔わせた隙に暗殺する計画を立てたが、大雨で苻堅の到着が遅れ発覚。苻堅は慕容粛を先に殺害し、続いて慕容暐も宗族とともに処刑した(享年35)。前秦(政権交代後の勝者)側による処断のため処刑に分類。
出典: 晉書 載記第十一 慕容暐(附)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中に建熙以外への改元記載なし。なお本紀中には晋の年号(升平・興寧・太和)が編年の目安として併記される箇所があるが、これらは前燕自身の改元ではないため対象外とした。
大赦回数
「大赦」の語で明記された全国規模の恩赦は本紀範囲内でこの2件のみ。
立后回数
即位時に生母の可足渾氏を皇太后に立てた記事はあるが(「立其母可足渾氏為皇太后」)、慕容暐自身の皇后冊立に関する記載は本紀範囲内に見当たらない。
皇太子廃立回数
本紀中の「太子」「儲君」への言及は、暐自身が慕容儁の太子として立てられ即位に至る経緯(慕容恪が「国有儲君、非吾節也」と辞退する場面等)のみであり、暐の在位中に皇太子・皇太弟等を新たに立てた上で廃した記載は見られない。
親征回数
晋書載記(載記第十一,慕容暐伝)に暐自身が親征した記録は見られない。「既庸弱、国事縁委之於恪」とあり、対苻堅・対東晋の全戦役(慕容恪・慕容評・慕容垂らの出征)はすべて臣下への派遣によるもので、暐本人が軍を率いて出陣した記述は皆無。
反乱鎮圧回数
慕輿根の謀反未遂(太師慕輿根が慕容恪・評誅殺と簒位を企てたが、暐自身がこれを見抜き挙兵前に禁中で誅殺された事件)は、実際の挙兵に至らず密告・摘発のみで終わったため、鎮圧・被害いずれからも除外した。
被反乱回数
苻堅・王猛による前秦の侵攻や東晋桓温の伐燕(枋頭の戦い等)は、いずれも対等な独立政権同士の国家間戦争であり、被反乱には含めていない(前燕の滅亡自体もこの外征の帰結)。慕輿根の謀反未遂も挙兵に至らなかったため除外。
遷都回数
晋書載記を通読。薊→鄴の遷都は父・慕容儁の代の出来事で、慕容暐期は鄴のまま追加の遷都はない。
即位時年齢・没年齢
苻堅暗殺計画が発覚し処刑された記事に「為堅所誅、時年三十五」と明記あり(原文中「暐」の字は㑉字化けでU+E449として出現)。即位時年齢・生年月日の直接記載は本紀範囲内には見当たらない。
在位中の出来事(5件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
改元360年升平四年(360年)、僭即皇帝位すると同時に「改元曰建熙」として建元。
升平四年(360年)、僭即皇帝位すると同時に「改元曰建熙」として建元。以後、在位終了(370年前秦への降伏)まで別の改元記事は見られない。
出典: 晉書 載記第十一 慕容暐
大赦360年升平四年(360年)、慕容儁の死を受けて即位すると同時に「大赦境内」を実施し、建熙と改元した。
出典: 晉書 載記第十一 慕容暐
反乱鎮圧360年〜361年呂護の叛乱
首謀者: 呂護
結果: 慕容俊が任じた寧南将軍・呂護は野王に拠りつつ密かに東晋に通じていた。俊の死(360年)直後、東晋軍を引き入れて鄴を襲おうと謀ったが発覚し、慕容恪が衆五万を率いて討伐。長囲策で包囲し、部将傅顔が呂護の将張興を撃斬、(晋書帝紀では升平五年=361年七月に)野王が陥落、呂護は南走して東晋に降った(その衆は悉く降伏)。後に呂護は東晋から離反して前燕に帰順し、傅顔と共に河陰に拠ったが、後年(隆和年間)東晋領の洛陽を攻めて流矢に当たり死んだ(この段階は前燕対東晋の対外戦であり別集計対象外)。
呂護は前燕の将軍(服属下の臣下)であり、独立政権との戦争ではなく服属民の離反・鎮圧として計上。載記の「自三月至八月」と帝紀の「五年七月」の年次にやや齟齬があるため年精度に留めた。
被反乱360年〜361年呂護の叛乱
首謀者: 呂護
結果: 寧南将軍・呂護(野王駐屯)が東晋に通じ、慕容俊死去直後に東晋軍を引き入れて鄴襲撃を謀るも発覚。慕容恪の討伐を受け野王は陥落し、呂護は南走して東晋に投降した。
rebellionSuppressionCountと同一事件。粒度・結末とも一致。
大赦日付不詳慕輿根の謀反計画が発覚し禁中で斬った直後、「大赦境内」を実施(傅顔に騎二万を率いて河南に観兵させた記事の直前)。
慕輿根の謀反計画が発覚し禁中で斬った直後、「大赦境内」を実施(傅顔に騎二万を率いて河南に観兵させた記事の直前)。即位直後の出来事で明確な年月日の記載はないが、升平四年内の出来事とみられる。
出典: 晉書 載記第十一 慕容暐