哀帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 361年7月13日〜365年3月30日
- 没年
- 365年3月30日25歳(数え年)長生き順同率208位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓司馬諱丕字千齢呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻八 哀帝紀
- 死因
- 晉書 帝紀第八 哀帝
- 即位経路
- 晉書 帝紀第八 哀帝
生涯
どんな皇帝か
晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人曰は寛大で恵み深く君主にふさわしかったとしつつ、鴻祀天を祭って災いを払う、大がかりな祭りで天に禳うことがその徳を汚したと評する。
即位まで
母の周氏は成帝の後宮で寵愛を受けて司馬丕と弟の司馬奕を生み、位ははじめ貴人身分の高い人、また皇帝の妃の位の一つだった。342年に成帝が病に倒れたとき兄弟はまだ襁褓赤ん坊を包む布。転じて赤ん坊のころにあり、庾冰の主張で成帝の同母弟の康帝が後嗣となり、司馬丕は琅邪王に封じられた。361年に穆帝が後嗣なく崩じると、皇太后の令で大統君主の位を受け継ぐこと、またその位を奉じることになり、令は、咸康のころ本来は司馬丕が儲嗣君主の跡継ぎに当たるはずだったが幼かったと述べた。
治世と最期
即位してすぐ、琅邪王家の宗廟君主や王家が祖先をまつるところに祭る主がいなくなったのを悲しむと詔して、弟の司馬奕を琅邪王とした。362年に隆和と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることして田税を減じ、翌年には興寧と改元した。母の位号は議論が分かれたが、詔で皇太妃皇后でない皇帝の生母に贈る高い称号とし、儀服は太后と同じにした。
天文の異変が続くと、362年に鴻祀の制にならい自ら祭祀を執りたいと詔したが、諫められて取りやめた。363年に母が亡くなると重い喪服を着ようとし、江虨に退けられても期年に下げようとしたが、重ねて説かれて従った。同じ年に皇子が生まれて大赦したが、崩じたときには後嗣が無かった。
黄老黄帝と老子を祖とする道家の教えを好んで穀を断ち長生の薬を服し、高崧には日月の蝕のようなものだと諫められたが聞き入れず、364年に服用が過ぎて中毒し、政務を見られなくなった。このため褚太后が再び臨朝皇太后などが朝廷に出て政治を執ること摂政幼い君主に代わって政治を執る役目した。同じ年、朝廷は桓温に入朝して宰相となるよう諭したが、桓温は従わなかった。365年に西堂で崩じた。
史料について
母の位号についての桓温の案を、后妃伝は夫人、礼志は太夫人とする。鴻祀を、孔厳伝では一度の諫めを嘉してやめたとし、江逌伝では二度退けて三度目の諫めでやめたとする。本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は皇子の母も名もその後も書かない。高崧の諫めを聞き入れなかったとするのは資治通鑑で、高崧伝は帝の反応を書かない。晋書の天文志は発病を一年早い363年とする。哀帝紀と資治通鑑の崩御の条は死因を記さない。
哀帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
361–365年の地図に、哀帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・皇后1・改元2・大赦4
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。361年7月13日
- 皇后361年10月29日皇后を立てる
- 改元362年元号を「隆和」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。362年
- 改元363年元号を「興寧」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。363年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。363年
- 反乱364年張駿(姚襄故将)の武昌反乱
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