中国皇帝統計

哀帝

東晋|在位 361–365年

哀帝の肖像
諱(本名)
司馬丕
在位
361–365年
在位期間
3年261日365名中206位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
25歳(数え年)269名中・長寿順211位タイ
改元
2332名中78位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:哀帝

即位の経緯

成帝の長子として、穆帝の崩御を受け即位。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

死因の経緯

仏教・道教を篤信し、即位後まもなく道士の勧めで不老長寿を求め穀断ち・丹薬(仙薬)の服用を始めた結果、薬物中毒により政務が執れなくなり褚太后が再び摂政となった。興寧3年(365年)、太極殿で丹薬中毒により崩御(享年25、葬安平陵)。自ら求めた養生法による中毒死のため広義の病死に分類。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

哀帝在位中(361年~365年)に「隆和」「興寧」への改元計2回を確認。即位時(升平五年、361年)は穆帝の元号「升平」をそのまま踏襲しており、即位に伴う新規建元は行われていない(升平は穆帝崩御の年の年末まで継続)。

大赦回数

『晋書』帝紀第八・哀帝紀に「大赦」と明記された全国規模の恩赦4件を確認:①升平五年(361年)五月庚申、即位に伴う大赦、②隆和元年(362年)正月壬子、改元に伴う大赦、③興寧元年(363年)二月己亥、改元に伴う大赦、④興寧元年(363年)九月癸亥、皇子誕生を機とした大赦(「以皇子生、大赦」)。地域限定・部分的な恩赦(例:太和年間の「曲赦梁益二州」は廃帝紀の記事で哀帝には該当なし)は本紀中には見当たらない。

立后回数

升平五年(361年)九月戊申、「立皇后王氏」の記事1件のみ確認。王氏は興寧三年(365年)正月庚申に崩じ、哀帝自身も同年三月に崩御したため、新たな立后・再冊立の記録はない。

皇太子廃立回数

哀帝一代(361年~365年)を通じ、皇太子・皇太弟・皇太孫等の法定推定継承者の冊立・廃立に関する記述は本紀中に確認されない(哀帝自身に嗣子なく、崩御後は同母弟の奕〔廃帝〕が迎立された)。

親征回数

晋书・帝纪第八・哀帝紀(升平五年五月庚申即位〜興寧三年二月丙申崩御、361〜365年)の全文を確認したが、「帝自将」「親征」等、哀帝本人が出陣したことを示す記述は一切ない。この期間の軍事行動(対前燕・対仇池・対姚襄残党・対蜀等)はすべて桓温・謝尚・荀羨・袁真・郗昙・王猛(前秦側)等の将軍に委ねられており、哀帝自身は病弱(黄老の術を好み丹薬を服用し中毒状態)で朝政すら「悬而不乐」と記されるなど、親征を行った形跡はない。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

上記1件のみを反乱として認定。なお同紀中には(1)「呂護、慕容恪に野王を攻略され滎陽に退保、のち呂護叛奔於慕容」(升平五年秋、361年)という将の前燕への離反があるが、これは前燕の軍事圧力を受けての敵方への逃亡(叛奔)であり、東晋に対する武装蜂起・交戦の記述がないため反乱としては算入しなかった。(2)興寧元年七月「張天錫、涼州刺史・西平公張玄靚を弑し自ら大将軍・護羌校尉・涼州牧・西平公を称す」は、東晋から爵位を受けた半独立の涼州(張氏前涼政権)内部の権力簒奪であり、東晋朝廷が討伐を行った記録がなく、東晋への直接的な反乱とは性質が異なるため対外・属国内政の変事として除外した(confidence medium相当の判断だがcount自体には影響しないためhighのまま)。前燕・前秦・成漢残党等との交戦は独立政権との対外戦争として反乱に含めていない。

被反乱回数

鎮圧回数と同じ1件。呂護の対前燕離反(叛奔)および張天錫の張玄靚弑殺(前涼内部の政変)は上記rebellionSuppressionCountのnoteに記載した理由により被反乱としても計上していない。

遷都回数

晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢25歳は本紀に「時年二十五」と直接記載。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。

在位中の出来事(9件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

大赦361年7月13日升平五年五月庚申、哀帝即位(「庚申、即皇帝位、大赦」)。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

立后361年10月29日升平五年九月戊申、王氏を皇后に立てる(「九月戊申、立皇后王氏」)。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

改元362年3月2日隆和元年正月壬子、「升平」から「隆和」へ改元(「隆和元年春正月壬子、大赦、改元」)。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

大赦362年3月2日隆和元年正月壬子、改元と同時に大赦(「隆和元年春正月壬子、大赦、改元」)。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

反乱鎮圧363年11月張駿(姚襄故将)の武昌反乱

首謀者: 張駿(姚襄故将)

結果: 鎮圧成功(斬殺)

興寧元年(363年)十一月、「姚襄故将張駿、江州督護趙毗を殺し、武昌を焼き、府藏を略して以て叛す」。江州刺史桓温の弟・桓冲がこれを討伐し斬った(「江州刺史桓冲討斬之」)。張駿はもと姚襄(前秦に滅ぼされた独立勢力)の将であったが、この時点では東晋の江州管内で督護殺害・武昌焼き討ち・府庫略奪という明確な武装蜂起を行っており、東晋の支配機構下にあった者による反乱として鎮圧回数・被反乱回数の双方に計上した。

被反乱363年11月張駿(姚襄故将)の武昌反乱

首謀者: 張駿(姚襄故将)

結果: 鎮圧成功(斬殺)

rebellionSuppressionCountと同一事件。江州督護趙毗を殺害し武昌を焼くという東晋支配下での武装蜂起であり、桓冲により鎮圧・斬殺された。鎮圧・被反乱ともに同一件数として計上(基準の対称性に従う)。

大赦363年11月3日興寧元年九月癸亥、「以皇子生、大赦」(皇子誕生を機とした大赦)。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

改元日付不詳興寧元年二月己亥、「隆和」から「興寧」へ改元(「興寧元年春二月己亥、大赦、改元」)。

興寧元年二月己亥、「隆和」から「興寧」へ改元(「興寧元年春二月己亥、大赦、改元」)。干支「己亥」に対応する当該年二月内の西暦日を天文学的暦法(sxtwl)で特定できなかったため、年月のみ記録。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

大赦日付不詳興寧元年二月己亥、改元と同時に大赦(「興寧元年春二月己亥、大赦、改元」)。

興寧元年二月己亥、改元と同時に大赦(「興寧元年春二月己亥、大赦、改元」)。干支「己亥」に対応する当該年二月内の西暦日を天文学的暦法(sxtwl)で特定できなかったため、年月のみ記録(日は原文に干支で明記)。

出典: 晉書 帝紀第八 哀帝

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