本文へスキップ

東晋第7代

廃帝司馬奕

在位 365–371年(6年281日)365年3月31日 〜 372年1月6日 ( 371年11月15日まで)

日本は古墳時代

東晋の皇帝で、の桓温に不能を言い立てられて廃され、海西公として呉で余生を送った。

廃帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 365年3月31日〜372年1月6日 371年11月15日まで
6年281日長い順161位/365人即位の年齢は不詳371年に在位を終え、15年後の386年に没
没年
386年11月23日45歳(数え年)長生き順同率105位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 哀帝東晋廃帝は哀帝の弟
次代
  • 簡文帝東晋簡文帝は廃帝の同族(遠縁)
呼び名
姓司馬諱奕字延齢別称海西公呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻八 廃帝(海西公)紀
死因
晉書 帝紀第八 廢帝海西公/晉書 卷三十二 列傳第二 后妃下
即位経路
晉書 帝紀第八 廢帝海西公

生涯

どんな皇帝か

晋書の曰は、復位の誘いを退けて柔弱が剛強に勝ち、天寿を全うした者と評する。

即位まで

成帝と周氏の子で、哀帝の同母弟にあたる。成帝は臨終の詔で、跡継ぎの無い東海哀王の後を司馬奕に継がせ、東海王とした。365年、哀帝が後嗣なく崩じると、翌日の皇太后の詔でを継ぐことになり、に迎えられてその日に即位した。

治世と最期

即位の年に庾冰の娘を皇后に立てたが、翌年に亡くなった。桓温は枋頭の敗戦で威名を挫かれると、で威権を伸ばそうとし、道を守る帝を憚りつつ、閨房のことなら誣いやすいと見た。帝がのころから痿疾を患い、嬖人が寝所に侍り、田氏・孟氏の生んだ三人の男子を封じ立てようとしていると誣い、これを民間にひそかに流した。

371年、太后の令で東海王に落とされ、西堂を下り、牛車で神獣門を出ると、群臣はすすり泣いた。数日後、その男子たちとその生母が殺された。まもなく海西県公に落とされて呉県へ移され、見張りを付けられた。

372年の暮れ、許龍が太后のと称して復位に迎えに来ると、司馬奕ははじめ従おうとしたが保母の諫めを容れ、許されている身で勝手に動けようか、お前は乱をなす者だと縛らせようとし、許龍は逃げた。その後は禍を恐れて酒色に耽り、子があっても育てずに天寿を保とうとし、当時の人々は憐れんで歌を作った。386年に呉で薨じた。

史料について

皇后の死を、后妃伝は371年とする。痿疾の話を、と資治通鑑は桓温の誣告として書くが、晋書の五行志は海西公の不能を事実として書き、三人の子は海西公の子ではないとする。殺された子を、簡文帝紀は二人、五行志と資治通鑑は三人とする。本紀と資治通鑑は死因を書かず、このサイトの死因が病死なのは、史臣が天寿を全うしたと評することによる。

廃帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(365年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

365–371年の地図に、廃帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱5・皇后1・改元1・大赦3
  1. 365年3月31日哀帝崩御・無嗣を受け百官が琅邪王奕を奉迎、即位当日に大赦。
  2. 皇后365年8月立皇后庾氏。
  3. 反乱365年11月〜366年7月司馬勲の乱(梁州刺史が成都王を僭称)
  4. 改元366年元号を「太和」とする
  5. 反乱366–367年趙弘・趙憶の宛城反乱
  6. 368年
  7. 反乱369–371年袁真・袁瑾の寿陽反乱
  8. 反乱370年広漢・益州の妖賊李弘・李金根の乱
  9. 371年大赦、賜窮独米人五斛。
  10. 反乱372年1月( 371年11月)桓温による廃立クーデター(廃帝の廃位)

東晋の歴代皇帝

歴代11人の一覧

年表

晋の時代を年表で見る

東晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「擁立」の97名をデータベースで見る

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、ほかの皇帝は皇帝一覧をご覧ください。