廃帝・海西公
東晋|在位 365–372年
- 諱(本名)
- 司馬奕
- 在位
- 365–372年
- 在位期間
- 6年282日365名中163位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 病死
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 45歳(数え年)269名中・長寿順105位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 3回267名中121位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 4回225名中101位タイ
- 被反乱
- 5回289名中97位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
成帝の子として即位。
出典: 晉書 帝紀第八 廢帝海西公
死因の経緯
太和6年(371年)、大司馬桓温により「陽萎(男性機能不全)で3皇子はいずれも寵臣の子」と誣告され廃位、海西県公に降格。呉県西柴里に幽閉されたが、自ら酒色に溺れる姿を装って猜疑を解き、監視下でも粛清を免れた。太元11年(386年)10月甲申、呉県で病死(享年45)。他殺・自尽ではなく自然死。
出典: 晉書 帝紀第八 廢帝海西公
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う建元は無し(先帝の元号「興寧」を継続使用)。在位中の改元は興寧→太和の1回のみ。なお咸安二年正月(海西県公への再降格)時点で使用されている元号「咸安」は、既に廃帝が皇帝位を失った後、簡文帝が即位した太和六年〈371年〉中に新規建元されたものであり、廃帝本人の在位中の改元としてはカウントしていない。
大赦回数
太和元年九月甲午の「曲赦梁、益二州」は地域限定の恩赦のため大赦としてカウントしていない(指示に基づき除外)。廃位(太和六年十一月己酉、桓温により東海王へ降格)までの在位中の全国規模大赦は3回。なお咸安二年正月の海西県公への再降格は、既に廃帝が皇帝位を失った後(簡文帝在位下)の出来事であり、この間に廃帝本人が発する大赦記事は本紀に存在しない。
立后回数
在位中の立后は庾氏の1回のみ。庾皇后崩御(太和元年)後、廃位(太和六年)までの間に新たな立后記事はない。
皇太子廃立回数
在位中、皇太子・皇太弟等の法定推定継承者は一度も立てられていない。廃位の詔(太和六年十一月己酉)にも「儲宮靡立」(皇太子の位は立てられていなかった)と明記されている。廃位の対象は皇太子ではなく皇帝自身(桓温による廃立)であり、皇太子廃立には該当しない。
親征回数
帝纪第八・海西公(廃帝)の記事範囲(兴宁三年二月丁酉即位〜太和六年十一月己酉桓温による廃位)に「帝自将」「帝親征」等、皇帝本人が出陣したことを示す記述は一切なし。桓温・桓豁・硃序ら将軍による征討・北伐(対蜀・対慕容等)はいずれも臣下が主体で皇帝本人の出陣ではない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
海西公(廃帝)在位期間中(兴宁三年二月〜太和六年十一月)に発生した、いずれもJin朝廷の統治機構下(州刺史・郡太守管轄地域)における離反・蜂起で、対等勢力(前燕・前秦等)との戦争とは区別して算入。桓温の対慕容北伐(枋头の役)は対外戦争のため含めない。
被反乱回数
鎮圧回数と対称的に4件の内部反乱(司马勋・赵弘赵忆・袁真袁瑾・李弘李金根)を算入し、これに加えて理由4(権臣による武力を伴う廃立)に該当する桓温クーデター1件を追加した計5件。桓温クーデターは廃帝側が鎮圧主体ではないため鎮圧回数からは除外。372年(咸安二年)の卢悚による廃帝擁立未遂事件は、既に廃位・海西公となった後(在位期間外)の出来事のため対象外とした。
遷都回数
晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢45歳は本紀に「時年四十五」と直接記載(太元十一年十月甲申、廃位後に薨去)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。deathDateはグレゴリオ暦換算未確認のため保留。
在位中の出来事(14件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦365年3月31日興寧三年、哀帝崩御・無嗣を受け百官が琅邪王奕を奉迎、即位当日に大赦。
興寧三年、哀帝崩御・無嗣を受け百官が琅邪王奕を奉迎、即位当日に大赦。原文「於是百官奉迎於琅邪第。是日,即皇帝位,大赦。」
出典: 晉書 帝紀第八 廢帝海西公
反乱鎮圧365年10月〜366年5月司马勋の乱(梁州刺史が成都王を僭称)
首謀者: 司马勋
結果: suppressed_success
兴宁三年冬十月、梁州刺史司马勋が反乱を起こし「成都王」を自称。剑阁を経て涪を攻め、西夷校尉毌丘は城を棄てて逃走、益州刺史周楚を成都で包囲。桓温は江夏相硃序を派遣して救援・討伐させ、太和元年(366年)五月、硃序が成都で司马勋を撃破しこれを捕らえて斬った(衆溃、执勋、斩之)。太和元年三月の荆州刺史桓豁による南郑攻撃・魏兴人毕钦の挙兵応援も同系統の残党掃討とみられる。
被反乱365年10月〜366年5月司马勋の乱(梁州刺史が成都王を僭称)
首謀者: 司马勋
結果: suppressed_success
鎮圧回数と同一事件。詳細は鎮圧回数側のnote参照。
反乱鎮圧366年12月〜367年5月赵弘・赵忆の宛城反乱
首謀者: 赵弘・赵忆
結果: suppressed_partial
太和元年十二月、南阳人の赵弘・赵忆らが宛城に拠って反乱、太守桓澹は新野に退避。太和二年五月、右将军桓豁が赵忆を撃破しこれを敗走させた(击赵忆、走之)。赵弘のその後の消息は本紀に明記されておらず、討伐が完全に完了したかは不明瞭だが、政権側の軍事行動により鎮圧されたと判断した。
被反乱366年12月〜367年5月赵弘・赵忆の宛城反乱
首謀者: 赵弘・赵忆
結果: suppressed_partial
鎮圧回数と同一事件。詳細は鎮圧回数側のnote参照。
反乱鎮圧369年10月〜371年1月袁真・袁瑾の寿阳反乱
首謀者: 袁真(後に子の袁瑾が継承)
結果: suppressed_success
太和四年十月、豫州刺史袁真が寿阳に拠って反乱。太和五年正月には子の双之・爱之が梁国内史硃宪・汝南内史硃斌を殺害、二月に袁真本人は病没し、陈郡太守硃辅が袁真の子瑾を擁立して抗戦を継続、前燕(慕容氏)に援軍を要請。桓温配下の竺瑶が四月に袁瑾を武丘で撃破、八月に桓温自身が寿阳で袁瑾を敗る。太和六年正月、前秦の援軍(王鉴)を桓伊が撃退し、桓温が寿阳を陥落させて袁瑾を斬り鎮圧完了。
被反乱369年10月〜371年1月袁真・袁瑾の寿阳反乱
首謀者: 袁真(後に子の袁瑾が継承)
結果: suppressed_success
鎮圧回数と同一事件。詳細は鎮圧回数側のnote参照。
反乱鎮圧370年9月広汉・益州の妖賊李弘・李金根の乱
首謀者: 李弘・李金根
結果: suppressed_success
太和五年、広汉の「妖贼」李弘と益州の「妖贼」李金根が結集して反乱、李弘は「圣王」を自称し衆一万余人を集めたが、梓潼太守周虓が討伐しこれを平定した(讨平之)。本紀の記事配置上、太和五年九月の前後(王猛の上党侵攻の直後、冬十月の記事の前)に位置するため月は九月頃と推定したが、蜂起から鎮圧までの正確な期間は原文からは特定できない。
被反乱370年9月広汉・益州の妖賊李弘・李金根の乱
首謀者: 李弘・李金根
結果: suppressed_success
鎮圧回数と同一事件。詳細は鎮圧回数側のnote参照。
被反乱371年11月桓温による廃立クーデター(廃帝の廃位)
首謀者: 桓温
結果: coup_success_emperor_deposed
ルール例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当すると判断し被反乱にのみ算入、鎮圧回数には含めない。原文冒頭の解説部(「初、桓温有不臣之心、欲先立功河朔、以收时望。及枋头之败、威名顿挫、逐潜谋废立、以长威权。然惮帝守道、恐招时议。以宫阐重闷、床笫易诬、乃言帝为阉、遂行废辱」)により、枋头の敗戦(369年)で威信を落とした桓温が権力保持のため計画的に廃立を企てたことが明記されている。本紀本文では太和六年(371)十一月癸卯、桓温が広陵から白石に「屯」(軍を駐屯)させ、丁未に朝廷に参内、己酉に崇德太后の名で廃位の詔が発せられ、即日桓温が散骑侍郎刘享を遣わして帝の玺绶を回収、廃帝は白帢単衣を着て徒歩で西堂を降り神兽门から犢車で退出、「侍御史・殿中監将兵百人」が東海第まで護送した、とある。これらの記述(広陵から軍を率いて白石に進駐=実際の兵力動員、武装した護送兵百人の存在)から、単なる詔勅・政治圧力にとどまらず実際に兵力を伴うクーデターであったと判断した。
改元日付不詳興寧三年(365年)の即位時は先帝(哀帝)の元号「興寧」をそのまま継続しており、即位に伴う新規建元はない。
興寧三年(365年)の即位時は先帝(哀帝)の元号「興寧」をそのまま継続しており、即位に伴う新規建元はない。翌年、興寧から太和への改元があった(本紀の年条見出しが「太和元年」に切り替わる)。廃位(太和六年〈371年〉十一月己酉)まで元号は「太和」のまま継続し、以後の改元はない。
出典: 晉書 帝紀第八 廢帝海西公
大赦日付不詳太和三年三月癸亥、大赦。
太和三年三月癸亥、大赦。原文「三年春三月丁巳朔,日有蝕之。癸亥,大赦。」
出典: 晉書 帝紀第八 廢帝海西公
大赦日付不詳太和六年四月戊午、大赦、賜窮独米人五斛。
太和六年四月戊午、大赦、賜窮独米人五斛。原文「六年……夏四月戊午,大赦,賜窮獨米,人五斛。」廃位(同年十一月己酉)以前の出来事。
出典: 晉書 帝紀第八 廢帝海西公
立后日付不詳興寧三年七月壬子、立皇后庾氏。
興寧三年七月壬子、立皇后庾氏。原文「秋七月……壬子,立皇后庾氏。」なお庾皇后は太和元年五月戊寅(366年)に崩御し、その後の再冊立の記載はない(廃位まで皇后不在)。
出典: 晉書 帝紀第八 廢帝海西公