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東晋第5代

穆帝司馬聃

在位 344–361年(16年234日)344年11月18日 〜 361年7月10日

日本は古墳時代

東晋の康帝の子で、幼くして即位し、母の褚太后ののもとで育ち、を始めて数年で世を去った。

穆帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 344年11月18日〜361年7月10日
16年234日長い順72位/365人2歳で即位(数え年)
没年
361年7月10日19歳(数え年)長生き順同率237位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 康帝東晋穆帝は康帝の子
次代
  • 哀帝東晋哀帝は穆帝の従兄弟
呼び名
姓司馬諱聃字彭子廟号孝宗呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻八 穆帝紀
死因
晉書 帝紀第八 孝宗穆帝・哀帝
即位経路
晉書 帝紀第八 孝宗穆帝

生涯

どんな皇帝か

晋書の曰は穆帝について、むつきの中の身で母の教えを受け、内外の無事が十余年続いたと述べる。

即位まで

344年、康帝の病が重くなると、庾冰と庾翼は会稽王昱を後継に望んだが、何充の建議で皇太子に立てられた。その二日後に康帝が死んで翌日に即位すると、庾冰と庾翼は何充を深く恨んだ。母の褚太后が朝に臨んで政治を執り、翌345年には白紗の帷を設けて幼い帝を抱いてした。

治世と最期

347年に桓温が蜀を平定し、成漢の李勢が降った。349年の褚裒の北伐は敗れた。350年、穆帝はを拒み続ける蔡謨を召すため臨軒し、朝から夕方まで使者が往復しても来ず、ひどく疲れて、召した人はなぜ来ないのかと尋ね、太后の詔で朝は打ち切られた。352年、冉智が鄴で降ると、督護の戴施がを得て送り、がみな祝った。353年の殷浩の北伐も敗れた。桓温は354年に関中へ出て引き返したが、356年には姚襄を破り、洛陽周辺の荒らされた西晋の陵を修復した。

356年に孝経を講じ、357年に元服して自ら政務を執り始め、同じ年にも孝経を講じて中堂で自らを行った。358年、鴆鳥を献じた者に怒って鞭二百を加え、その鳥を四つ辻で焼かせた。後池を修めを起こそうとしたが、倉庫が空で民の力が尽きていると諫められて取りやめた。

358年、前燕に河北の地を奪われ、その年の暮れと翌359年には前燕との戦いにも敗れた。361年に顕陽殿で死に、後嗣が無かったので、太后の令で琅邪王丕が迎えられた。帝の死後、太后は、そのころ子どもたちが道で歌っていた歌の結びの句を口にして泣いた。

史料について

太后の令は、にわかに病んで救えなかったと述べる。穆帝紀と資治通鑑は死因を記さず、このサイトは病死とする。

穆帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(344年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

344–361年の地図に、穆帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱7・皇后1・改元2・大赦8
  1. 344年11月18日康帝崩御を受け太子(穆帝)即位。
  2. 改元345年元号を「永和」とする
  3. 反乱345年庾翼部将の反乱
  4. 346年
  5. 347年
  6. 反乱347–349年蜀地(益州)の反乱
  7. 反乱348年豫章・黄韜の反乱(自称孝神皇帝)
  8. 349年
  9. 反乱352年許昌・張遇の反乱
  10. 353年
  11. 反乱353–356年姚襄の反乱
  12. 反乱354–356年周成(冉閔降将)の反乱
  13. 反乱354年江西乞活・郭敞の反乱
  14. 改元357年元号を「升平」とする
  15. 357年帝加元服に伴う大赦・改元。
  16. 357年立皇后何氏に伴う大赦。
  17. 皇后357年皇后何氏を立てる。
  18. 361年3月

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年表

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