中国皇帝統計

安帝

東晋|在位 396–419年

安帝の肖像
諱(本名)
司馬徳宗
在位
396–419年
在位期間
22年87日365名中50位
即位経路
世襲
死因
暗殺
即位時年齢
不詳
没年齢
37歳(数え年)269名中・長寿順150位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
16267名中15位
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
9225名中45位タイ
被反乱
10289名中48位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:安帝

即位の経緯

孝武帝の長子として即位(15歳)。知的障害があったとされ、桓玄の簒奪(403年、後述)を経て404年に劉裕により復位。

出典: 晉書 帝紀第十 安帝

死因の経緯

実権者の劉裕が禅譲(宋建国)を進めるにあたり、「昌明(孝武帝)の後に二帝あり」という讖語を成就させるため、義熙14年(418年)12月戊寅、中書侍郎の王韶之に命じて殺害させた(享年37)。『晋書』は絞殺(縊殺)、『南史』『資治通鑑』は毒殺と伝え史書間で手段の記述が食い違うが、劉裕の指示で王韶之が実行したという点は各史料で一致する。表向きは病死の偽の遺詔が作られ、弟の司馬徳文(恭帝)に譲位した体裁が取られた。

出典: 晉書 帝紀第十 安帝補記: 『南史』『資治通鑑』は毒殺説を取るなど手段に異説あり。

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

即位(太元二十一年)に伴う最初の改元である隆安、および元興、義熙の計3回。元興2年12月の桓玄簒位(楚・永始)から元興3年5月の桓玄誅殺・帝『反正』までの期間は桓玄側の出来事として除外し、安帝の元興元年建元自体はカウントに含めた。

大赦回数

『晋書』帝紀第十より「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦のみ抽出。元興2年12月(桓玄簒位・帝を平固王とする)~元興3年5月壬午(桓玄誅殺・帝『反正』)の簒奪期間中に出た大赦(三月丙戌、武陵王遵承制下での大赦)は桓玄側の出来事として除外。同期間中の『曲赦広陵・彭城』(元興元年12月)は地域限定のため元から対象外。桓振による再拘束(元興3年閏月~義熙元年)は帝位剥奪を伴わないため通常の在位期間として扱った。

立后回数

隆安元年三月戊午に王氏を皇后に立てた記事のみ確認。義熙八年八月に皇后王氏が崩じた後、崩御(義熙十四年)までの間に新たな立后記事は見られない。

皇太子廃立回数

帝紀の該当範囲に安帝自身が皇太子・皇太弟等を冊立した記述がなく、廃太子の記事も見られない。

親征回数

晋书・帝紀第十(安帝紀、隆安元年〜義熙十四年)を通読したが、安帝自身が「自将」「親征」等の形で軍を率いて出陣した記述は一件も見当たらない。安帝は「帝不惠、自少及長、口不能言、雖寒暑之變、無以辯也。凡所動止、皆非己出」(晋书・安帝紀末尾)と明記される知的障害者であり、実権は終始会稽王道子→元顕→桓玄→劉裕らの摂政・権臣が握っていた。孫恩・盧循の乱、桓玄討伐、譙縦討伐などはすべて謝琰・劉牢之・劉裕ら将軍が派遣されたもので、安帝本人の出陣は確認できない(「帝戎服餞元顯於西池」(隆安五年)は元顕の出征を見送る儀礼で親征ではない)。該当記事なしのため0件と判定。

反乱鎮圧回数

安帝の23年弱の在位期間は東晋史上最も動乱の激しい時期であり、王恭の二度の挙兵、王廞・杜炯・韋礼の小規模反乱、孫恩盧循の大乱、桓玄の簒奪、譙縦の蜀地割拠、司馬休之・魯宗之の乱と、服属する地方長官・軍閥による反乱が連続した。事件どうしの関連性が強く(例: 第二次王恭連合挙兵→桓玄の乱への連続、孫恩没後の盧循継承)、集計単位の判断に幅があるため全体として confidence medium とした。魏・蜀・呉や五胡諸政権など独立勢力との対外戦争(苻堅・慕容氏・姚興・赫連勃勃・南燕慕容超等)は反乱に該当しないため除外した。また刘裕による政敌粛清(刘毅・诸葛长民・刘藩・谢混ら、挙兵の事実が確認できず矫诏による誅殺)や、単なる謀反計画が摘発のみで終わったケース(刁骋・王迈之、戴宁之・徐惠子、司马轨之ら「謀反、伏誅」)は、実際の挙兵に至っていない、または安帝政権への反乱と言うより権臣内部の粛清であるため計上していない。

被反乱回数

鎮圧回数と原則対称に9件を計上した上で、皇帝自身が弑逆された最終事件(劉裕による絞殺)をルール例外4により追加計上し、合計10件とした。桓玄の乱は安帝本人が実際に廃位・幽閉・連行(蒙塵)された点で被害の実態が明確であり、被反乱として特に重要度が高い事件である。

遷都回数

晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢37歳は本紀に「時年三十七」と直接記載(義熙十四年十二月戊寅)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。

在位中の出来事(39件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

反乱鎮圧397年4月王恭・庾楷の第一次挙兵

首謀者: 王恭・庾楷

結果: 資料上は「甲申、殺國寶及緒以悅於恭、恭乃罷兵」とあり、朝廷が王恭の要求どおり尚書左僕射王国宝・建威将軍王緒を誅殺したことで王恭は兵を退いた。武力による鎮圧ではなく譲歩による事態収拾であり、実際の交戦は生じていない。

兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷が「討王国宝・王緒」を名目に挙兵。政権側(会稽王道子)が要求を丸呑みして自派の重臣を処刑することで乱を収めた特殊なケース。武力鎮圧ではないが挙兵という実力行使への政権側対応として鎮圧側に計上(confidence medium)。

被反乱397年4月王恭・庾楷の第一次挙兵

首謀者: 王恭・庾楷

結果: 朝廷が王国宝・王緒を誅殺し要求を受け入れたことで罷兵。

鎮圧側と同一事件(粒度差なし、対称)。

反乱鎮圧397年5月王廞の乱

首謀者: 王廞

結果: 「前司徒長史王廞以呉郡反、王恭討平之」と明記され、即座に鎮圧された。

前司徒長史・王廞が呉郡で反乱、王恭(当時兗州刺史)が討伐し平定。独立した首謀者・蜂起地点として王恭の乱とは別件でカウント。

被反乱397年5月王廞の乱

首謀者: 王廞

結果: 王恭により即座に討平された。

鎮圧側と同一事件。

反乱鎮圧398年7月〜398年10月王恭ら五州刺史の連合挙兵(第二次)

首謀者: 王恭・庾楷・殷仲堪・桓玄・楊佺期

結果: 元顕・王珣・謝琰・劉牢之が討伐に当たり、王恭は劉牢之の裏切りで敗死、庾楷も牛渚で敗れた。しかし殷仲堪・桓玄・楊佺期は寻陽で同盟し桓玄を盟主として温存されたため、完全な鎮圧には至らなかった(その後の桓玄の乱に連続する)。

兗州刺史王恭・豫州刺史庾楷・荊州刺史殷仲堪・広州刺史桓玄・南蛮校尉楊佺期が同時に挙兵した連合反乱。王恭・庾楷は伏誅したが西方勢力(殷仲堪・桓玄ら)は温存され、後の桓玄簒奪に直結する。粒度としては同時期の連合挙兵をまとめて1件と数えた。

被反乱398年7月〜398年10月王恭ら五州刺史の連合挙兵(第二次)

首謀者: 王恭・庾楷・殷仲堪・桓玄・楊佺期

結果: 王恭・庾楷は敗死したが、殷仲堪・桓玄・楊佺期は温存され後の桓玄の乱に連続。

鎮圧側と同一事件。

反乱鎮圧398年12月杜炯の乱

首謀者: 杜炯

結果: 「前新安太守杜炯反於京口、會稽王世子元顯討斬之」とあり、京口での反乱は即座に討伐・斬殺された。

前新安太守杜炯が京口で反乱、元顕が討伐し斬殺。王恭の乱とは別の独立した挙兵として計上。

反乱鎮圧398年12月韋礼の反乱(襄陽流民)

首謀者: 韋礼

結果: 「京兆人韋礼帥襄陽流人叛、降於姚興」とあり、鎮圧に成功せず、反乱勢力は後秦(姚興)へ逃亡・投降した。

京兆人・韋礼が襄陽の流民集団を率いて反乱を起こし、鎮圧されないまま後秦へ投降・離脱した事例。対象が無位無官の民衆指導者で規模・性格がやや不明瞭なため confidence medium。鎮圧失敗のケースとして「実際に鎮圧に成功したか否かは問わない」の規定に基づき計上。

被反乱398年12月杜炯の乱

首謀者: 杜炯

結果: 元顕に討伐され斬殺。

鎮圧側と同一事件。

被反乱398年12月韋礼の反乱(襄陽流民)

首謀者: 韋礼

結果: 鎮圧されず後秦へ逃亡・投降。

鎮圧側と同一事件(confidence medium)。

反乱鎮圧399年11月〜411年4月孫恩・盧循の乱

首謀者: 孫恩(後に盧循)

結果: 孫恩は会稽等を陥落させ謝琰らを敗死させるなど大規模な民衆反乱に発展したが、劉牢之・劉裕らの度重なる討伐でおおむね401年頃に敗死。義弟の盧循が後を継いで広州・江州・建康近郊まで進出したが、義熙7年(411年)に交州刺史杜慧度に討たれ最終的に鎮圧された。

隆安三年(399)十一月の会稽陥落に始まり、義熙七年(411)の盧循敗死まで続いた東晋最大級の民衆反乱。孫恩死後、義弟の盧循が同一勢力を率いて反乱を継続したため、首謀者の系譜が連続するものとして1件にまとめた(学術的にも「孫恩盧循之乱」として一体で扱われることが多い)。

被反乱399年11月〜411年4月孫恩・盧循の乱

首謀者: 孫恩(後に盧循)

結果: 最終的に盧循が義熙七年(411)に討たれ鎮圧。

鎮圧側と同一事件。

反乱鎮圧402年2月〜405年3月桓玄の乱・簒奪と桓振残党の乱

首謀者: 桓玄(後に桓振)

結果: 桓玄は元顕の討伐軍を破って建康に入り専権、元興二年(403)十二月に安帝を廃して平固王とし簒位(楚を建国)。元興三年(404)、劉裕らの義兵により桓玄は敗死し安帝は復位(反正)。桓玄の部将桓振がなお江陵で抵抗を続けたが、義熙元年(405)三月に劉懐粛に討たれ、安帝は完全に建康へ帰還した。

元興元年(402)正月に朝廷(元顕)が桓玄討伐の兵を発したのが発端だが、桓玄が反撃して朝廷軍を破り、最終的に安帝を廃位・簒奪するに至った一連の事件。当初どちらが攻撃の主体だったか判然としない面はあるが(朝廷が先制した可能性)、桓玄が武力で皇帝を廃立した以上、反乱として計上するのが妥当と判断(confidence medium)。簒奪から桓振討滅までを一連の反乱として1件にまとめた。

被反乱402年2月〜405年3月桓玄の乱・簒奪と桓振残党の乱

首謀者: 桓玄(後に桓振)

結果: 桓玄は元興二年(403)十二月に安帝を廃して平固王とし簒位、安帝は寻陽・江陵などへ流浪(蒙塵)。元興三年(404)劉裕らにより桓玄は討たれ安帝は復位。桓玄部将桓振の抵抗も義熙元年(405)三月に鎮圧され安帝は建康へ帰還。

権臣・地方軍閥による武力を伴う廃位・簒奪(ルール例外4に類似するが、最終的に討滅・復位に至ったため鎮圧側にも計上する対称ケース)。安帝の廃位・幽閉という被害実態がある点で被反乱としての重みが特に大きい事件。

反乱鎮圧405年5月〜413年7月譙縦の乱(譙蜀の独立)

首謀者: 譙縦

結果: 平西参軍・譙縦が益州刺史毛璩を殺害して蜀で自立(成都王、後蜀=譙蜀政権)。義熙九年(413)七月、朱齢石が成都を落とし譙縦を討ち、益州は平定された。

服属する将領が上官を殺害し独立政権を樹立、8年以上にわたり東晋から蜀地を割拠した事例。最終的に討滅されたため鎮圧成功として計上。

被反乱405年5月〜413年7月譙縦の乱(譙蜀の独立)

首謀者: 譙縦

結果: 義熙九年(413)に朱齢石により討滅され益州平定。

鎮圧側と同一事件。

反乱鎮圧415年1月〜415年5月司馬休之・魯宗之の乱

首謀者: 司馬休之・魯宗之

結果: 劉裕が自ら討伐に赴き、江津の戦いで司馬休之を破った。司馬休之・魯宗之は敗れて後秦(姚泓)へ亡命した。

荊州刺史司馬休之・雍州刺史魯宗之が事実上の朝廷実権者である劉裕に対して挙兵。名目上は劉裕への反抗だが、当時の朝廷=劉裕政権であり、朝廷側(安帝の名の下)が討伐軍を発して撃退した服属地方長官の反乱として計上。

被反乱415年1月〜415年5月司馬休之・魯宗之の乱

首謀者: 司馬休之・魯宗之

結果: 劉裕に敗れ後秦へ亡命。

鎮圧側と同一事件。

被反乱418年12月劉裕による安帝弑逆

首謀者: 劉裕(実行犯は王韶之)

結果: 安帝は義熙十四年(418)十二月戊寅、東堂で崩じたとされるが、直後の記事に「初讖云『昌明之後有二帝』、劉裕将為禪代、故密使王韶之縊帝而立恭帝、以応二帝云」とあり、実態は劉裕が禅譲(宋建国)の予言を成就させるため王韶之に命じて安帝を絞殺したものである。

ルール例外4(朝廷内部の権力者による兵力を伴う弑逆・クーデター)に該当。丞相・宋公として軍事権を掌握していた劉裕が配下に命じて皇帝を弑逆した事件であり、鎮圧の主体が皇帝側ではないため鎮圧回数には計上しないが、被反乱には計上する。deathCauseの記述(暗殺・弑殺)と内容が重複するが、規定により重複計上を許容する。

改元日付不詳隆安元年正月己亥朔、帝加元服、改元(太元→隆安)

出典: 晋書帝紀第十

改元日付不詳元興元年正月庚午朔、大赦、改元(隆安→元興)

出典: 晋書帝紀第十

改元日付不詳義熙元年正月戊戌、大赦、改元(元興→義熙、桓振捕囚からの反正後)

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳太元二十一年九月辛酉、太子即皇帝位、大赦(即位に伴う大赦)

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳隆安元年四月戊子、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳隆安二年十月丙子、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳隆安四年正月乙亥、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳隆安四年七月丁卯、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳元興元年正月庚午朔、大赦(改元も同時)

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳元興三年五月甲申、大赦(五月壬午に桓玄誅殺・帝『反正』の直後)

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙元年正月戊戌、大赦(改元も同時、桓振からの再度の反正後)

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙三年二月己丑、大赦、除酒禁

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙五年正月辛卯、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙六年五月己未、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙八年九月己丑、劉裕矯詔により大赦天下(劉毅を除く)

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙十一年正月庚午、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙十一年九月己亥、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙十二年八月丙午、大赦

出典: 晋書帝紀第十

大赦日付不詳義熙十四年正月辛巳、大赦

出典: 晋書帝紀第十

立后日付不詳隆安元年三月戊午、立皇后王氏

出典: 晋書帝紀第十

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。