孝武帝
東晋|在位 372–396年
- 諱(本名)
- 司馬曜
- 廟号
- 烈宗
- 在位
- 372–396年
- 在位期間
- 24年61日365名中43位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 10歳(数え年)172名中・若い順27位タイ
- 没年齢
- 35歳(数え年)269名中・長寿順164位タイ
- 改元
- 2回332名中78位タイ
- 大赦
- 18回267名中8位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 10回225名中38位タイ
- 被反乱
- 11回289名中43位タイ
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:孝武帝
即位の経緯
簡文帝の子として、崩御当日に太子に立てられ即日即位(10歳)。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
死因の経緯
太元21年(396年)9月庚申、後宮清暑殿で寵妃張貴人と酒宴中、酔って「そなたは30近く容色も衰え子もない、明日にも廃して若い娘を探そう」と戯言を言ったことに張貴人が激怒し、宦官を退けたうえ婢女に命じて寝ている孝武帝を布団で窒息死させた。『晋書』巻十一(志)は「爲張貴人所弑」と明記するが、巻九(本紀)は「帝醉,遂暴崩」とのみ記し、『宋書』はさらに「兆庶宣言夫人張氏潛行大逆」と伝聞形式を取るなど、同一晋書内でも記述が分かれる。事後、権力闘争の関係で司馬道子らが追及せず、張貴人は行方不明のまま歴史の謎として残った。
出典: 晉書 卷九 帝紀第九 烈宗孝武帝/卷十一 志第一 天文補記: 本紀と志で記述の重さが異なり、確定的な弑逆表現があるのは志のみ。近年は宮廷内の激情犯罪説も含め議論が続く。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
咸安二年(372年)七月己未の即位時は父・簡文帝が定めた「咸安」の年号をそのまま継続使用しており、即位当日に新元号を制定した記事はない。孝武帝自身の主導で新元号を定めたのは寧康元年(373年)・太元元年(376年)の2回のみ。
大赦回数
『晋書』帝紀第九(烈宗孝武帝)より「大赦」「大赦天下」と明記された全国規模の恩赦18件を抽出。太元五年(380年)夏四月癸酉「大赦五歳刑以下」および太元六年(381年)秋七月丙子「赦五歳刑已下」は特定の罪状(五歳刑以下)に限定された恩赦のため、収録基準(部分的・地域限定の恩赦は除外)に従い除外した。
立后回数
王皇后(後の定皇后)の冊立1件のみ。太元五年(380年)九月癸未に崩御しており(隆平陵に葬)、再冊立の記事は本紀中に見当たらない。
皇太子廃立回数
『晋書』帝紀第九(烈宗孝武帝)の通読範囲内で皇太子廃立の記事は見当たらない。太元十二年(387年)八月辛巳に皇子徳宗(後の安帝)を皇太子に立てた記事があるのみで、廃立には至らず、そのまま孝武帝崩御後に安帝として即位している。
親征回数
『晋書』帝紀第九・孝武帝紀を通読したが、孝武帝自身が軍を率いて出征したとする記述(「帝自将」「親征」等)は一切見当たらない。383年の淝水の戦い(対前秦・苻堅戦)も征討都督謝石、冠軍将軍謝玄、輔国将軍謝琰、西中郎将桓伊ら諸将が指揮しており、孝武帝は建康に在り親征していない。太元年間の対翟遼・対慕容氏戦もすべて劉牢之・朱序・桓沖ら将軍の派遣によるもので皇帝本人の出陣記録はない。
反乱鎮圧回数
『晋書』帝紀第九・孝武帝紀(咸安二年~太元二十一年、372-396年)を通読し「反」「乱」「賊」の語を伴う記事を抽出した。前秦・苻堅、後燕・慕容垂、翟遼(自立政権)等、東晋に服属していなかった独立勢力との抗争(淝水の戦いを含む)は統一戦争・対外戦争として除外した。張愿の離反(対等勢力翟遼への投降を伴う事例)は郡県官の離反であることを理由に計上したが境界事例のためconfidenceをmediumとした。太元四年(379)九月「盗殺安太守傅湛」は首謀者名・規模・討伐記録が一切なく単なる盗賊による殺害の可能性が高いため反乱として計上しなかった。
被反乱回数
鎮圧回数10件に加え、未鎮圧のまま記録が途絶えた翟暢の離反(太元十二年、387年)を基準2(未鎮圧のまま在位終了)に基づき被反乱にのみ追加し、合計11件とした。孝武帝自身が反乱者に弑逆・廃位された事実はない(397年崩御は張貴人による暗殺で、反乱・クーデターではなく死因側で別途集計)。
遷都回数
晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
即位時年齢10歳は本紀に「簡文之崩也,時年十歳」(父・簡文帝崩御と同日に即位)、崩御時年齢35歳は「時年三十五」といずれも直接記載。生年月日の直接記載は本紀中になし。
在位中の出来事(42件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦372年9月12日咸安二年秋七月己未、簡文帝崩御・孝武帝即位当日の詔に「其大赦天下,與民更始」とあり、即位に伴う大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
反乱鎮圧372年11月妖賊盧悚の宮中乱入事件
首謀者: 盧悚
結果: 鎮圧成功
咸安二年(372)十一月甲午、「妖賊盧悚晨人殿庭」(宮殿内に乱入)、游撃将軍毛安之らが討ち捕らえた。宮中への武装侵入であり反乱として計上。
被反乱372年11月妖賊盧悚の宮中乱入事件
首謀者: 盧悚
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。
改元373年寧康元年春正月己丑朔、「改元」(咸安→寧康)。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦374年寧康二年春正月癸未朔、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
反乱鎮圧374年11月天門蜑賊の乱
首謀者: 不明(蜑賊、首謀者名記載なし)
結果: 鎮圧成功
寧康二年(374)十一月己酉、天門郡の蜑(南方少数民族)の賊が郡を攻め太守王匪を殺害。征西将軍桓豁が軍を派遣し討平した。辺境属国の異民族による蜂起として計上。
反乱鎮圧374年11月銭歩射・銭弘の乱(長城)
首謀者: 銭歩射・銭弘
結果: 鎮圧成功
同(寧康二年)、長城(呉興郡)の銭歩射・銭弘らが「作乱」、呉興太守朱序が討平した。天門蜑賊とは首謀者・地域が別のため別件として計上。
被反乱374年11月天門蜑賊の乱
首謀者: 不明(蜑賊)
結果: 鎮圧された(太守王匪は殺害された)
鎮圧回数と対応。
被反乱374年11月銭歩射・銭弘の乱(長城)
首謀者: 銭歩射・銭弘
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。
大赦375年寧康三年春正月辛亥、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦375年寧康三年秋八月癸巳、皇后王氏を立てるのに伴い大赦、文武の位を一等進める。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
立后375年寧康三年秋八月癸巳、「立皇后王氏,大赦,加文武位一等」。
寧康三年秋八月癸巳、「立皇后王氏,大赦,加文武位一等」。王皇后(太元五年崩、諡は定皇后)の冊立。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
改元376年太元元年春正月甲辰、「大赦,改元」(寧康→太元)。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦376年太元元年春正月甲辰、改元(寧康→太元)に伴い大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦376年太元元年夏五月甲寅、地震を受けた詔の後に大赦、文武の位を各一等進める。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦379年太元四年春正月辛酉、大赦。
太元四年春正月辛酉、大赦。水旱の被害を受けた郡県は租税を減免。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦380年太元五年六月甲子、比歳の凶作を理由に大赦、太元三年以前の逋租・宿債を蠲除。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
反乱鎮圧380年10月〜381年7月李遜の乱(交州)
首謀者: 李遜(九真太守)
結果: 鎮圧成功
太元五年(380)冬十月、九真太守李遜が交州を拠点に反乱。翌太元六年(381)七月、交阯太守杜瑗が李遜を斬り交州を平定した。既に服属していた地方官(郡太守)による離反として計上。
被反乱380年10月〜381年7月李遜の乱(交州)
首謀者: 李遜(九真太守)
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。
反乱鎮圧381年11月檀元之の乱(会稽)
首謀者: 檀元之
結果: 鎮圧成功
太元六年(381)冬十一月、会稽人檀元之が反乱を起こし自ら「安東将軍」と号した。鎮軍参軍謝藹之が討平した。
被反乱381年11月檀元之の乱(会稽)
首謀者: 檀元之
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。
大赦382年太元七年秋八月癸卯、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦383年太元八年三月丁巳、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦383年太元八年十二月庚午、淝水の戦い後の「寇難初平」を理由に大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦384年太元九年冬十月乙丑、玄象(天象)の異常を理由に大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦385年太元十年八月甲午、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦386年太元十一年三月、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
反乱鎮圧386年3月〜390年8月張愿の離反(泰山太守、翟遼への投降)
首謀者: 張愿(泰山太守)
結果: 当初、晋軍(龍驤将軍劉牢之)は張愿・翟遼連合軍に敗北(太元十五年)したが、その後朱序が翟遼を滑台で大破したのを機に張愿は晋に投降し帰順した。
太元十一年(386)三月、泰山太守張愿が郡ごと反乱を起こし対等勢力である翟遼(前秦から自立した河南の独立政権)に投降した。既に服属していた郡県官の離反であるため反乱として計上したが、対等勢力への投降という側面もあり境界事例(confidence medium相当)。太元十五年(390)に朱序の翟遼撃破を機に張愿が晋へ帰順したことをもって事実上の解決とみなした。
被反乱386年3月〜390年8月張愿の離反(泰山太守、翟遼への投降)
首謀者: 張愿(泰山太守)
結果: 最終的に晋へ帰順
鎮圧回数と対応(境界事例、confidence medium)。
大赦387年太元十二年春正月丁未、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
大赦387年太元十二年秋八月辛巳、皇子徳宗(後の安帝)を皇太子に立てるのに伴い大赦、文武の位を二等進め、大酺五日。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
被反乱387年5月翟暢の離反(高平、太守を捕らえ翟遼へ投降)
首謀者: 翟暢
結果: 未鎮圧(原文にその後の討伐・回復記録なし)
太元十二年(387)夏四月末~六月頃、高平人翟暢が太守徐含遠を捕らえ、郡ごと対等勢力翟遼に投降した。以後、孝武帝崩御(396年)までこの件に対する晋側の鎮圧・奪還の記述が見当たらないため、鎮圧回数には算入せず被反乱回数のみに計上(基準2:未鎮圧のまま在位終了)。
反乱鎮圧389年1月劉黎の乱(彭城、僭称皇帝)
首謀者: 劉黎
結果: 鎮圧成功
太元十四年(389)春正月、彭城の妖賊劉黎が皇丘で皇帝を僭称。龍驤将軍劉牢之(原文「劉宰之」表記、劉牢之の誤記または別将の可能性あり)が討平した。
被反乱389年1月劉黎の乱(彭城、僭称皇帝)
首謀者: 劉黎
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。
大赦390年太元十五年三月戊辰、大赦。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
反乱鎮圧390年8月李耽の乱(永嘉)
首謀者: 李耽
結果: 鎮圧成功
太元十五年(390)八月、永嘉人李耽が挙兵して反乱、太守劉懐之が討平した。
被反乱390年8月李耽の乱(永嘉)
首謀者: 李耽
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。
大赦392年太元十七年春正月己巳朔、大赦、逋租・宿債を除く。
出典: 晉書 帝紀第九 烈宗孝武帝
反乱鎮圧392年4月蒋喆の乱(青州)
首謀者: 蒋喆(斉国内史)
結果: 鎮圧成功
太元十七年(392)夏四月、斉国内史蒋喆が楽安太守辟閭浚を殺害して青州を占拠し反乱。北平原太守辟閭渾が討平した。既に服属していた王国内史による離反・蜂起として計上。
被反乱392年4月蒋喆の乱(青州)
首謀者: 蒋喆(斉国内史)
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。
反乱鎮圧393年6月司馬徽の乱(馬頭山)
首謀者: 司馬徽
結果: 鎮圧成功
太元十八年(393)閏月、妖賊司馬徽が馬頭山に党を集めて蜂起。劉牢之が部将を派遣し討平した。
被反乱393年6月司馬徽の乱(馬頭山)
首謀者: 司馬徽
結果: 鎮圧された
鎮圧回数と対応。