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東晋第11代

恭帝司馬徳文

在位 418–420年(1年161日)419年1月28日 〜 420年7月7日 ( 418年12月17日から)

日本は古墳時代

劉裕に立てられ、劉裕に位を譲って東晋を終わらせ、退位の翌年に殺された。

恭帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 419年1月28日〜420年7月7日 418年12月17日から
1年161日長い順276位/365人即位の年齢は不詳420年に在位を終え、1年後の421年に没
没年
421年11月36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
死因
同じ死因92人/365人
即位経路
先代
  • 安帝東晋恭帝は安帝の弟
次代
  • 武帝劉裕宋・南北朝武帝と恭帝に血縁はない
呼び名
姓司馬諱徳文呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻十 恭帝紀(daizhigev20版)
死因
魏書 島夷傳(司馬叡)
即位経路
晉書 帝紀第十 恭帝

生涯

どんな皇帝か

晋書の賛は安帝と恭帝を並べ、恭帝は他人に実権を握られたとし、周の赧王や楚の懐王を引いて、二人は道こそ違え名ばかりので同じく滅んだと結ぶ。

即位まで

名は徳文といい、安帝の同母弟で、はじめ琅邪王に封じられた。にいたころ人に馬を射させて遊んだが、馬はだと言われてやめた。のちに仏教を深く信じ、愚かな安帝の世話を恭しく続けて評判になった。桓玄が帝位を奪うと、安帝とともに尋陽に移された。のちに江陵で桓振が安帝に詰め寄ると、徳文は床を下りて、これは我ら兄弟の望みではないと言い、桓振は馬を下りて拝した。長安へ逃れた司馬休之は、劉裕の安帝への仕え方は手薄で酷いと徳文が泣いて語ったと、姚興に伝えた。劉裕の北伐に同行し、後秦が滅ぶと都に帰った。418年の暮れ、劉裕は安帝を殺させ、を偽って徳文に位を継がせた。

史料について

馬の件を、恭帝紀は恭帝が悟って悔いたとし、五行志は左右の諫めでやめたが馬はすでに十本ほど矢を受けていたとする。桓振を止めたのを、桓振伝は桓謙とし、資治通鑑は両方を書く。安帝の殺し方を、晋書の安帝紀は、宋書の王韶之伝は毒とし、資治通鑑は常にそばにいた徳文が病で外に出た間に縊り殺したとする。

治世と最期

元熙とし、褚氏を皇后に立てた。在位中、劉裕は宋王としてを加えられた。劉裕は旧臣の張禕に恭帝の毒殺を命じたが、張禕は自ら毒酒を飲んで死んだ。420年、傅亮がをほのめかして詔の草稿を差し出すと、恭帝は喜んで、晋はとうに天下を失っている、今さら何を恨もうと言い、自ら赤い紙に書き写した。

零陵王として秣陵に移ると禍を恐れ、飲食は褚氏が用意したが、421年、劉裕が褚氏の兄に彼女を呼び出させた間に兵が垣を越えて入った。兵が毒を勧めると、仏教では自ら命を絶つと再び人に生まれないと拒み、布団をかぶせられて殺された。

史料について

張禕の件を、晋書の忠義伝は即位後とし、資治通鑑は退位後に置いて名を張偉とする。毒を拒んだ話は魏書と資治通鑑にある。宋書の武帝紀は零陵王の死と葬儀を記すが、殺害には触れない。

恭帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(418年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

418–419年の地図に、恭帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

皇后1・改元1・大赦1
  1. 419年1月28日( 418年12月17日)安帝崩御の当日、劉裕が偽の遺詔を発し琅邪王徳文(恭帝)を即位させた。
  2. 改元419年2月元号を「元熙」とする
  3. 皇后419年2月皇后を立てる

東晋の歴代皇帝

歴代11人の一覧

年表

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東晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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