恭帝
東晋|在位 419–420年
- 諱(本名)
- 司馬徳文
- 在位
- 419–420年
- 在位期間
- 1年161日365名中279位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 暗殺
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 36歳(数え年)269名中・長寿順152位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:恭帝
即位の経緯
安帝の同母弟。安帝が劉裕により暗殺された後、劉裕の意向で皇帝に立てられた(実質的な傀儡的即位)。翌年、劉裕に禅譲し東晋滅亡。
出典: 晉書 帝紀第十 恭帝
死因の経緯
禅譲後、零陵王に降封され幽閉生活を送った。皇后褚氏の兄弟褚季之・褚淡之が劉裕に内通し、恭帝夫妻は毒殺を恐れ食事を自ら調理する慎重な生活を送っていたが、永初2年(421年)9月、劉裕は褚淡之兄弟に褚皇后を連れ出させたうえ兵を送り込み服毒を強要。敬虔な仏教徒だった恭帝は「仏教では自殺者は転生できない」として服毒を拒否したため、兵士に窒息死または撲殺されたと伝わる(享年36)。この記述は東晋の正統性を認めない『魏書』に基づくが、劉裕の指示による暗殺という大枠は各史料で一致する。
出典: 魏書 島夷傳(司馬叡)補記: 南朝側史書(『宋書』等)はより穏当な表現を取る場合があり、殺害の具体的手段(毒殺強要→拒否→撲殺、または別の方法)に史料間で細部の相違がある。
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
恭帝の在位中(元熙元年正月の建元から元熙二年六月の禅譲まで)に元号変更はこの1回のみ(禅譲後は劉宋の元号に移行するため恭帝在位中の改元としては数えない)。
大赦回数
恭帝在位中(義熙十四年十二月即位~元熙二年六月禅譲)に『晋書』本紀に明記された全国規模の「大赦」はこの即位時の1回のみ。元熙元年・二年の記事中に大赦の記載は見られない。
立后回数
恭帝の在位中に立后は褚皇后(褚霊媛)の1回のみ。廃后・再冊立の記載なし。
皇太子廃立回数
恭帝の在位(419年1月~420年7月、約1年半)は短く、本紀に皇太子・皇太弟等の立太子・廃太子に関する記載は一切ない。
親征回数
『晋书』帝紀第十・恭帝紀(397〜428行目、特に423〜425行目の恭帝本紀部分)を通読したが、恭帝(司馬徳文)自身が「自将」「親征」して軍を率いた記述は皆無。恭帝在位期間(義熙十四年十二月戊寅=418年末の即位〜元熙二年六月甲子=420年の劉裕への禅譲)中の記事は、劉裕の官位昇進・褚皇后冊立・改元・朝見関連の政治的記事のみで、軍事行動そのものが記録されていない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
恭帝在位中(418年末〜420年6月)の記事(424〜425行目:元熙元年・二年)には、反乱・叛服・討伐に関する記述が見られない。関連する軍事的動きは、赫連勃勃・王鎮悪殺害・硃齢石敗死など全て安帝十四年(418年)正月〜十二月戊寅(安帝崩御)以前の出来事であり、恭帝の在位開始(安帝崩御と同日の即位)より前の安帝治世下の出来事として扱った。恭帝紀本文にも「反」「叛」等の語を伴う事件は記載なし。該当記事なし。
被反乱回数
上記と同様、恭帝在位中に恭帝政権・支配下から離反・挙兵した勢力の記録は原典に見当たらない。恭帝は420年6月の禅譲後、零陵王として幽閉され、退位後の宋永初二年(421年)九月に劉裕の指示で弑殺されているが、これは既に禅譲・退位済みで皇帝でなくなった後の事件であり、かつ兵力を伴う反乱・クーデターというより暗殺(deathCause側で扱うべき事案)のため、本項目(在位中の被反乱)には算入しない。該当記事なし。
遷都回数
晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢36歳は「時年三十六」と直接記載(宋永初二年、東晋滅亡・禅譲後に零陵王として殺害された時点)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。deathDateのグレゴリオ暦換算(宋の年号基準)は確度medium。
在位中の出来事(3件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦419年1月28日義熙十四年十二月戊寅、安帝崩御の当日、劉裕が偽の遺詔を発し琅邪王徳文(恭帝)を即位させた。
義熙十四年十二月戊寅、安帝崩御の当日、劉裕が偽の遺詔を発し琅邪王徳文(恭帝)を即位させた。「是日、即帝位、大赦。」即位に伴う大赦。
出典: 晋書帝紀第十(恭帝紀)
改元419年2月義熙十四年十二月戊寅(419年1月28日)に即位したが、当時は安帝の元号「義熙」のまま。
義熙十四年十二月戊寅(419年1月28日)に即位したが、当時は安帝の元号「義熙」のまま。翌月「元熙元年春正月壬辰朔、改元。」で新元号「元熙」を建元。即位に伴う最初の建元としてカウント。
出典: 晋書帝紀第十(恭帝紀)
立后419年2月「元熙元年春正月壬辰朔、改元。
「元熙元年春正月壬辰朔、改元。……立皇后褚氏。」正月朔日(改元と同日)に褚氏を皇后に冊立。
出典: 晋書帝紀第十(恭帝紀)