恭帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 419年1月28日〜420年7月7日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 418年12月17日から
- 没年
- 421年11月36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
- 死因
- 暗殺同じ政権の中の家臣・皇族・宦官などに殺された死。毒殺も含む。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因92人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 安帝東晋恭帝は安帝の弟
- 次代
- 武帝劉裕宋・
南北朝 武帝と恭帝に血縁はない
- 武帝劉裕宋・
- 呼び名
- 姓司馬諱徳文呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻十 恭帝紀(daizhigev20版)
- 死因
- 魏書 島夷傳(司馬叡)
- 即位経路
- 晉書 帝紀第十 恭帝
生涯
どんな皇帝か
晋書の賛は安帝と恭帝を並べ、恭帝は他人に実権を握られたとし、周の赧王や楚の懐王を引いて、二人は道こそ違え名ばかりの尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号で同じく滅んだと結ぶ。
即位まで
名は徳文といい、安帝の同母弟で、はじめ琅邪王に封じられた。封国王や侯に与えられた領地にいたころ人に馬を射させて遊んだが、馬は国姓皇帝の家の姓だと言われてやめた。のちに仏教を深く信じ、愚かな安帝の世話を恭しく続けて評判になった。桓玄が帝位を奪うと、安帝とともに尋陽に移された。のちに江陵で桓振が安帝に詰め寄ると、徳文は床を下りて、これは我ら兄弟の望みではないと言い、桓振は馬を下りて拝した。長安へ逃れた司馬休之は、劉裕の安帝への仕え方は手薄で酷いと徳文が泣いて語ったと、姚興に伝えた。劉裕の北伐に同行し、後秦が滅ぶと都に帰った。418年の暮れ、劉裕は安帝を殺させ、遺詔皇帝が死に際に残した命令を偽って徳文に位を継がせた。
史料について
馬の件を、恭帝紀は恭帝が悟って悔いたとし、五行志は左右の諫めでやめたが馬はすでに十本ほど矢を受けていたとする。桓振を止めたのを、桓振伝は桓謙とし、資治通鑑は両方を書く。安帝の殺し方を、晋書の安帝紀は縊殺首を絞めて殺すこと、宋書の王韶之伝は毒とし、資治通鑑は常にそばにいた徳文が病で外に出た間に縊り殺したとする。
治世と最期
元熙と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、褚氏を皇后に立てた。在位中、劉裕は宋王として殊礼臣下に特別に許す、格別の礼遇を加えられた。劉裕は旧臣の張禕に恭帝の毒殺を命じたが、張禕は自ら毒酒を飲んで死んだ。420年、傅亮が禅位皇帝が位をほかの人に譲ることをほのめかして詔の草稿を差し出すと、恭帝は喜んで、晋はとうに天下を失っている、今さら何を恨もうと言い、自ら赤い紙に書き写した。
零陵王として秣陵に移ると禍を恐れ、飲食は褚氏が用意したが、421年、劉裕が褚氏の兄に彼女を呼び出させた間に兵が垣を越えて入った。兵が毒を勧めると、仏教では自ら命を絶つと再び人に生まれないと拒み、布団をかぶせられて殺された。
史料について
張禕の件を、晋書の忠義伝は即位後とし、資治通鑑は退位後に置いて名を張偉とする。毒を拒んだ話は魏書と資治通鑑にある。宋書の武帝紀は零陵王の死と葬儀を記すが、殺害には触れない。
恭帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
418–419年の地図に、恭帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇后1・改元1・大赦1
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。419年1月28日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 418年12月17日)安帝崩御の当日、劉裕が偽の遺詔を発し琅邪王徳文(恭帝)を即位させた。
- 改元419年2月元号を「元熙」とする
- 皇后419年2月皇后を立てる
東晋の歴代皇帝
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