簡文帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 372年1月6日〜372年9月12日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 371年11月15日から
- 没年
- 372年9月12日53歳(数え年)長生き順同率70位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 擁立同じ王朝の先代の跡を継いだが、誰を立てるかを決めたのは臣下・軍・宦官・外戚・皇太后・皇族など、先の皇帝以外だった即位。
- 先代
- 廃帝東晋簡文帝は廃帝の同族(遠縁)
- 次代
- 孝武帝東晋孝武帝は簡文帝の子
- 呼び名
- 姓司馬諱昱字道万廟号太宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻九 簡文帝紀
- 死因
- 晉書 帝紀第九 太宗簡文帝
- 即位経路
- 晉書 帝紀第九 太宗簡文帝
生涯
どんな皇帝か
晋書は精神は穏やかだが世を救う大略は無かったとし、恵帝の類で清談俗事を離れ、老荘の哲学などを語り合うことが少し勝るだけという謝安の評などを書き留める。
即位まで
元帝の末子で、幼いころから聡明で元帝に愛され、長じては欲が少なく玄言老子や荘子の奥深い道理を語る言葉を得意とした。326年に生母を亡くすと重い喪服を願って通し、会稽王に移された。藩王領地を与えられた皇族の王として政務を総べ始めると、辞退する殷浩に、あなたの去就が時の興廃だと書き送り、殷浩はなお辞退を重ねたのちに拝命した。子を次々と失い、10年近く子ができなかったので相者人相を見て運命を占う人に頼り、織坊の宮人宮中に仕え暮らした女性たちの李陵容を召して、後の孝武帝らが生まれた。版橋で桓温が不意に太鼓と角笛を鳴らさせて車を走らせたときも、怯える武陵王晞をよそに平然とし、桓温はこれより帝を憚って服した。桓温が廃帝を退けると、皇太后の詔で後を継ぐことになり、桓温が百官朝廷のすべての役人を率いて邸へ迎え、371年の暮れに即位して咸安と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることした。
史料について
重い喪服を許したのを、本紀皇帝ごとの出来事を年代順に書いた記録やその部分は成帝とし、后妃伝は明穆皇后とする。会稽王への移封を、琅邪悼王煥伝は327年とする。
治世と最期
桓温は廃立君主や跡継ぎを退け、別の人を立てることの弁明をしようと引見されたが、帝が泣くのを前に言葉が出なかった。桓温が武陵王晞の誅殺を再三求めると、帝は、晋の命運が続くなら前の詔に従え、尽きたのなら自分が位を譲ると手詔皇帝が自ら書いた命令の文書で答え、桓温は汗を流して顔色を変え、それ以上は求めなかったが、晞は廃されて新安へ移された。常に廃されるのを恐れ、熒惑火星の古い呼び名が太微天の宮廷にたとえられた星の区域に入ると、また廃立が起きないかと郗超に尋ね、郗超は一族を賭けて否定した。郗超の父への伝言では不徳を嘆き、庾闡の詩を吟じて泣いた。
372年に病に倒れると、桓温を呼ぶ詔を一昼夜に4度出したが、桓温は辞退して来なかった。桓温に周公の居摂君主に代わって位にいて政治を執ることを許す詔を王坦之に破られ、天下はたまたま来た運だと言ったが、宣帝・元帝の天下だと返されて書き改めさせた。改めた遺詔皇帝が死に際に残した命令は桓温に諸葛亮・王導の故事昔からのしきたりや、昔あった出来事で政を輔けさせるもので、禅位皇帝が位をほかの人に譲ることか居摂を望んでいた桓温は深く憤った。司馬昌明を太子に立てたその日に東堂で没した。
史料について
病の記事は資治通鑑と桓温伝にあり、簡文帝紀には無い。資治通鑑は最初の詔に、子が輔けるに足りなければ君が自ら取れという一句があったと記すが、晋書には無い。
簡文帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
371–372年の地図に、簡文帝が治めた国が描かれています。
東晋の歴代皇帝
歴代11人の一覧年表
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