中国皇帝統計

簡文帝

東晋|在位 372年

諱(本名)
司馬昱
廟号
太宗
在位
372年
在位期間
250日365名中310位
即位経路
擁立
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
53歳(数え年)269名中・長寿順71位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
1267名中194位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
1225名中179位タイ
被反乱
1289名中203位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:簡文帝

即位の経緯

元帝の末子(琅邪王)。桓温が廃帝海西公を廃位させた際、司馬昱を後継に擁立した。本人の主体的な簒奪行為はなく、桓温主導の擁立。

出典: 晉書 帝紀第九 太宗簡文帝

死因の経緯

熒惑(火星)が太微垣に入る不吉な天象を見て、桓温による再度の廃立を恐れ憂憤し発病。咸安2年(372年)7月、病重り桓温を朝廷に呼ぼうと一昼夜に4度詔を発したが桓温は応じず、同年9月己未、太子司馬昌明(孝武帝)を立てた同日、東堂で崩御(享年53)。桓温に禅譲に近い内容の遺詔を残そうとしたが侍中王坦之に破棄され、輔政に留める内容に改められた。

出典: 晉書 帝紀第九 太宗簡文帝

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

簡文帝の在位期間(咸安元年十一月~咸安二年七月崩御)を通じて年号は「咸安」のみで一貫しており、途中での改元は見られない。即位に伴う最初の建元1回のみをカウントした。

大赦回数

簡文帝の在位期間(咸安元年十一月己酉即位~咸安二年七月己未崩御)を通じ、『晋書』帝紀第九の本文中で「大赦天下」等と明記される箇所はこの1回のみ。翌年(咸安二年)正月~七月崩御までの記事にも大赦の記載は見当たらない。

立后回数

『晋書』帝紀第九の簡文帝在位期間中に立后(皇后冊立)の記載は見られない。咸安二年四月の「追贬庾后曰夫人」は前代(廃帝=海西公期)の皇后庾氏を夫人へ降格した記事であり、簡文帝自身の立后ではない。また咸安二年(簡文帝崩御後)九月甲寅、孝武帝紀に「追尊皇妣会稽王妃曰顺皇后」とあるのは簡文帝の生母(会稽王妃)への死後追尊であり、簡文帝在位中の立后行為でもない。以上より簡文帝在位中の立后は0回と判定。

皇太子廃立回数

簡文帝の在位期間中、皇太子(皇太弟・皇太孫等を含む)が立てられた記載自体が見当たらない(咸安二年七月己未に子の司馬昌明=後の孝武帝を皇太子に立てたが、まさにその同日に簡文帝が崩御しており、廃立が生じる余地がない)。皇太子・皇太弟等の廃立の記載は本紀中に存在せず、0回と判定。

親征回数

『晋書』帝紀第九・簡文帝紀部分(咸安元年十一月即位〜咸安二年七月崩御)を通読したが、「帝自将」「親征」等、皇帝自身が出陣したことを示す記述は一切ない。簡文帝は桓温によって擁立された名目上の皇帝で、政務も桓温が主導しており(「政由桓氏、祭則寡人」と史臣曰にも評される)、軍事行動を自ら率いた形跡は見られない。該当記事なしのため0件。

反乱鎮圧回数

咸安元年十一月の武陵王司馬晞・新蔡王司馬晃の謀反疑惑事件(桓温が桓秘を派遣して新蔡王晃を脅迫し謀反を自白させ、両者を廃黜・徙配した件)は、原文に実際の挙兵・武力行使の記述がなく、強制的な自白による政敵粛清(摘発のみ)と判断されるため、反乱鎮圧には算入していない。

被反乱回数

武陵王司馬晞・新蔡王司馬晃の謀反疑惑事件は、桓温による強制自白での粛清であり実際の挙兵記述がないため、被反乱にも算入していない(鎮圧回数と対称)。これにより両者は同一の1件(庾希の乱)で一致する。

遷都回数

晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢53歳は本紀に「時年五十三」と直接記載。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし(「帝時年七歳」という間接記載=咸和元年326年時点の年齢はあるが即位時ではない)。

在位中の出来事(4件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元372年1月咸安元年十一月己酉に即位(干支己酉を暦換算すると西暦372年1月6日、設問記載の在位開始日と一致)。

咸安元年十一月己酉に即位(干支己酉を暦換算すると西暦372年1月6日、設問記載の在位開始日と一致)。同月の詔(本文では「乙卯」の条に付記)に「诏魏郡太守毛安之帅所领宿卫殿内,改元为咸安」とあり、即位に伴い年号を「咸安」と定めた(即位に伴う最初の建元)。なお、この「乙卯」は本文中の日付配列(庚戌・辛亥・癸丑等)との干支の並び順として矛盾する位置に現れており、原文の日付配列に錯簡の可能性があるため、day精度ではなくmonth精度(咸安元年十一月=372年1月)で扱う。

出典: 晋書帝紀第九

大赦372年1月15日咸安元年十一月戊午の詔に「思与兆庶更始,其大赦天下,大酺五日,增文武位二等,孝顺忠贞鳏寡孤独米人五斛」と明記される、全国規模の大赦。

咸安元年十一月戊午の詔に「思与兆庶更始,其大赦天下,大酺五日,增文武位二等,孝顺忠贞鳏寡孤独米人五斛」と明記される、全国規模の大赦。即位(同月己酉)直後、武陵王晞らの謀反事件処理(乙卯・丙辰の廃黜・流刑)に続く赦令。干支戊午を暦換算すると西暦372年1月15日。

出典: 晋書帝紀第九

反乱鎮圧372年6月〜372年7月庾希の乱

首謀者: 庾希(前護軍将軍)

結果: 鎮圧成功

咸安二年(372年)六月戊子、前護軍将軍の庾希(原文表記は「庚希」だが庾希と同一人物)が海陵で挙兵し京口に侵入、晋陵太守卞眈は曲阿に逃亡した。桓温は東海内史の周少孫を派遣して討伐させ、七月壬辰に庾希を捕らえて建康市で斬った。皇帝崩御(同年七月己未)の直前に鎮圧が完了している。

被反乱372年6月〜372年7月庾希の乱

首謀者: 庾希(前護軍将軍)

結果: 鎮圧され庾希は斬首

反乱鎮圧回数と同一事件。前護軍将軍庾希が挙兵し海陵より京口に侵入、桓温配下の周少孫により捕らえられ処刑された。

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