桓玄
楚・桓楚(晋)|在位 403–404年
- 諱(本名)
- 桓玄
- 在位
- 403–404年
- 在位期間
- 187日365名中325位
- 即位経路
- 禅譲
- 死因
- 処刑
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 36歳(数え年)269名中・長寿順152位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 1回267名中194位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 1回112名中62位タイ
- 反乱鎮圧
- 1回225名中179位タイ
- 被反乱
- 1回289名中203位タイ
- 遷都
- 1回45名中12位タイ
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。
即位の経緯
形式上は安帝の禅位を受けて即位したが実態は強制的簒奪。安帝に自ら詔を書かせることを恐れ臨川王宝を脅して手詔を書かせ璽を奪取。登壇の儀も不備で万歳を唱え忘れる等、正史自体が「篡位」の語を用いて簒奪と明記する。
出典: 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)
死因の経緯
楚政権崩壊後、益州へ逃亡する途中、益州刺史・毛璩配下の費恬・毛祐之に船で迎撃され負傷。とどめは毛璩方の益州督護・馮遷が斬った。馮遷は「欲殺天子之賊耳」と宣言しており、桓玄配下の内部者ではなく対立勢力(東晋・毛璩方)による捕捉後の斬殺のため処刑と判定。
出典: 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)/晋書 帝紀(安帝紀)
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
即位に伴う最初の建元(永始)を1回としてカウント。簒奪以前・安帝の丞相/太尉であった段階での「改元為大亨」(元興元年、義旗入京直後、安帝側の出来事)は対象外とした。桓玄の簒奪在位中に他の改元は見られない。なお同伝には「元興三年、玄之永始二年也」との記述があり、桓玄側の紀年で404年を永始二年と呼んだ可能性を示唆する一文があるが、タスク側で与えられた在位終了日(永始元年5月26日=404年6月19日)と整合しないため、この点は改元回数のカウントには影響させず注記に留めた。
大赦回数
桓玄が安帝から帝位を簒奪していた期間(元興2年12月〜永始元年5月)のみを対象とし、簒奪前・丞相/太尉として実権を握っていた段階での「大赦、改元為大亨」(元興元年、安帝在位中の出来事)は安帝側に帰属するため除外した。また敗走中に見える「赦揚・豫・徐・兗・青・冀六州」は地域限定(六州のみ)で「大赦」の明記もないため対象外とした。
立后回数
即位前の楚王期に見える「妃為王后」(王后=諸侯王妃の呼称)は皇后冊立ではないため対象外。皇帝としての在位期間中に劉氏を正式に皇后とした記事のみを1回としてカウント。日付が原文で特定できないためdate:nullとし、confidenceはmediumとした。
皇太子廃立回数
桓玄の簒奪在位期間中に、立てられていた皇太子が廃されたという記述は『晋書』列伝第六十九(桓玄伝)に見当たらない。なお即位直前の楚王期(皇帝位簒奪前)に「世子為太子」(世子を太子とする)との記載があるが、これは太子の新規冊立であり廃立ではなく、かつ皇帝としての簒奪在位期間(安帝から帝位を奪っていた期間)より前の出来事のため対象外。
親征回数
峥嵘洲での出撃は原文に「玄率舟舰二百」と明記され親征と判断できるが、正確な月日(元兴三年の何月か)は本章に明記されておらず年精度のみで確定。建康撤退時の「声言赴战」を親征に含めるか除外するかは解釈の余地があるため念のためmediumとした。
反乱鎮圧回数
在位開始(403年12月・登壇篡位)以前に発生した新野人庾仄の挙兵および桓済の子・桓亮の罗県での挙兵(いずれも九锡拝受直後、楚王在任中で正式即位前の出来事)は、在位期間外のため本カウントから除外した。在位期間中に確認できる反乱鎮圧の対象は劉裕らの挙兵のみ。
被反乱回数
反乱鎮圧回数と同一の集計単位・同一事件のため件数は一致する。在位開始前(403年12月即位以前)に発生した庾仄・桓亮の挙兵は在位期間外として除外した。
遷都回数
在位中に遷都1回(0404年 建康→江陵)。
即位時年齢・没年齢
没年齢36歳は列伝に「時年三十六」と直接記載。生年月日・即位時年齢の直接記載は列伝中になし。
在位中の出来事(7件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
親征404年劉毅・劉道規(劉裕方の義軍)
対象: 劉毅・劉道規(劉裕方の義軍)
結果: 敗北。軍が大潰し、輜重を焼いて夜間に敗走した
『晋書』桓玄伝に「玄率舟舰二百发江陵,使苻宏、羊僧寿为前锋」「毅率道规及下邳太守孟怀玉与玄战于峥嵘洲……玄众大溃,烧辎重夜遁」とあり、江陵から自ら舟師二百艘を率いて出撃し峥嵘洲で劉毅・劉道規軍と交戦・大敗した。これを親征1回として計上。なお建康防衛戦(覆舟山の戦い)では桓謙・何澹之・卞範之ら諸将を派遣して自身は出陣せず、戦況が悪化すると「玄率亲信数千人声言赴战」(出撃すると称しただけ)で実際には子・甥を連れて南方へ逃亡しており、これは親征に該当しないと判断した。
反乱鎮圧404年劉裕・劉毅・何無忌の挙兵(東晋復興の兵)
首謀者: 劉裕・劉毅・何無忌
結果: 鎮圧失敗。桓玄は建康を放棄して西走し、江陵での再挙兵・峥嵘洲での再戦にも敗れ、最終的に益州軍(毛璩配下の費恬・祐之、督護馮遷)に討たれて敗死し、楚は滅亡した
原文「于是刘裕、刘毅、何无忌等共谋兴复。裕等斩桓脩于京口,斩桓弘于广陵……」以下、覆舟山の戦い(桓謙・卞範之ら大敗)、峥嵘洲の戦い(桓玄自身が大敗)を経て桓玄が枚回洲で斬られるまでの一連の軍事行動を、劉裕らを首謀者とする単一の反乱・挙兵として1件と数えた。鎮圧主体は桓玄政権側(桓玄本人および桓謙ら諸将)だが、結果的に鎮圧に失敗し王朝崩壊・敗死に至ったためカウント対象とした(設問の指示どおり)。
被反乱404年劉裕・劉毅・何無忌の挙兵
首謀者: 劉裕・劉毅・何無忌
結果: 桓玄敗死。楚は滅亡し、安帝が復位した
劉裕・劉毅・何無忌はいずれもかつて桓玄(またはその前政権)に服属していた東晋の将軍・官僚であり(劉裕は北府旧将、桓玄配下の刘牢之系统の将であった)、彼らの離反・挙兵によって桓玄は建康を追われ、最終的に益州軍に討たれて敗死した。反乱鎮圧回数と同一事件を両面から計上する(設問の指示どおり)。
改元404年1月1日登壇篡位の当日、「改元永始」により建元。
登壇篡位の当日、「改元永始」により建元。原文によれば当初「改年為建始」と詔を出そうとしたが、右丞王悠之が「建始は趙王司馬倫の偽号である」と指摘したため、正式発布前に「永始」へ改められた(建始は実際には施行されなかったため、建元は永始の1回のみとカウント)。元興二年十二月壬辰(三日)に相当し、sxtwl換算でグレゴリオ暦404年1月1日。
出典: 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)
大赦404年1月1日桓玄が登壇して皇帝に即位した当日、「於是大赦、改元永始、賜天下爵二級、孝悌力田人三級、鰥寡孤独不能自存者穀人五斛」と、即位に伴う全国規模の大赦が行われた(ただし賞賜は「徒設空文、無其実也」と実効性を欠いたと付記)。
桓玄が登壇して皇帝に即位した当日、「於是大赦、改元永始、賜天下爵二級、孝悌力田人三級、鰥寡孤独不能自存者穀人五斛」と、即位に伴う全国規模の大赦が行われた(ただし賞賜は「徒設空文、無其実也」と実効性を欠いたと付記)。元興二年十二月壬辰(三日)に相当し、sxtwl換算でグレゴリオ暦404年1月1日。
出典: 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)
遷都404年4月建康 → 江陵
元興二年(403)十二月、桓玄は建康で簒位し楚を建国、建康を都とした(これは新王朝の最初の定都であり集計対象外)。元興三年(404)二月以降、劉裕らの義軍に建康周辺で連敗し、三月「玄衆潰而逃」、桓玄は安帝を伴い西上(『晋書』帝紀十・安帝紀:「辛未、桓玄逼帝西上」)、夏四月己丑朔、庚寅「帝至江陵」。桓玄自身も江陵(本拠地・旧楚の地)に入り「署置百官」(『晋書』列伝六十九・桓玄伝)して政権機能を再建、群臣に「表賀迁都」させ、殷仲文の諫言に対し玄自ら「以天文悪、故還都舊楚」と述べており、正史本文が明確に「遷都」「還都」の語を用いて記録している。単なる敗走・避難ではなく、百官設置による正式な遷都と判断。桓玄は同年五月に江陵で敗死し楚は滅亡した。(出典: 晋書 卷九十九 列傳(桓玄傳);晋書 卷十 安帝紀)
立后日付不詳「以其妻劉氏為皇后、將修殿宇、乃移入東宮」とあり、正妻劉氏を皇后に立てたことが明記されている。
「以其妻劉氏為皇后、將修殿宇、乃移入東宮」とあり、正妻劉氏を皇后に立てたことが明記されている。文脈上、即位(元興2年12月)後、建康宮に入ってからの記事で、直前に「元興三年、玄之永始二年也」との言及があるため元興三年(404年)に入ってからの出来事と推定されるが、原文に具体的な月日の記載はない。
出典: 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)