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楚・桓楚(晋)第1代

桓玄

在位 403–404年(170日)404年1月1日 〜 404年6月19日 ( 403年12月3日から)

日本は古墳時代

桓玄は東晋の桓温の子で、安帝からを受ける形で帝位を簒い、国号を楚とした。

桓玄の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 404年1月1日〜404年6月19日 403年12月3日から
170日長い順324位/365人即位の年齢は不詳
没年
404年6月19日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
死因
同じ死因33人/365人
即位経路
(易姓)
先代
  • 安帝東晋桓玄と安帝に血縁はない
次代
—
呼び名
姓桓諱玄字敬道幼名霊宝呼び名の見方
目立つ記録
  • 遷都 1回多い順同率9位

出典

在位
晋書 巻九十九 列伝第六十九 桓玄伝
死因
晋書 列伝第六十九(桓玄伝)/晋書 帝紀(安帝紀)
即位経路
晋書 列伝第六十九(桓玄伝)

生涯

どんな皇帝か

簒位からまもなく劉裕らの義兵に敗れて西へ逃れ、蜀へ向かう途中で斬られた。晋書のは、父の基盤で簒逆した取るに足らない者と断じ、賛は宗族を覆し国を滅ぼしたとする。

即位まで

桓温のだったが、父の臨終に後嗣とされて南郡公の爵を継いだ。容貌が際立ち諸芸に通じたが、才能と家柄を恃んで豪傑を気取り、人々に憚られ、朝廷も彼を疑って用いなかった。酔った司馬道子に満座の前で、父は賊になろうとしたと言われ、汗を流して伏し、深く恨んだ。402年、司馬元顕に討たれかけると建康へ攻め入り、道子を安成郡へ移し、元顕を殺した。入京当初は佞人を退けて人材を抜擢し、都は喜んだが、やがて豪奢をほしいままにして朝野を失望させた。貪欲で珍奇を好み、人の名画や邸宅を自分のものにしようとし、奪いにくいときは賭博で取り上げた。顧愷之に預かった絵の厨子の後ろを開けて絵を盗み、開けていないと偽って返したこともあった。403年に頼りの兄の桓偉が死ぬと、服喪が明けてすぐ音楽を奏させ、慟哭したのちに歓を尽くした。同じ年に楚王となってを受け、その冬に安帝に禅位させ、年の暮れに壇に登って位を簒った。

治世と最期

永始とし、安帝を平固王に落として尋陽に移し、父を宣武皇帝とした。劉裕を人傑と評して厚く遇し、除くよう説かれても、関隴を平定してから考えると答えた。簒位後は驕奢で遊猟に耽り、民の多くが乱を思うようになった。

404年、劉裕らが京口で挙兵して建康に迫ると、子の升を連れて石頭から船で逃れた。江陵に戻ると軽々しく人を殺し、仁政を勧める殷仲文の諫めを、漢の高祖や魏の武帝も敗れかけたと言って退けた。崢嶸洲で劉毅らに大敗し、蜀へ向かう途中の枚回洲で毛璩の従孫の祐之らの迎撃を受け、益州督護の馮遷に斬られた。

史料について

劉裕を除くよう説いたのを、宋書は或る人とし、南史は桓玄の妻の劉氏とする。斬られた場所を、晋書の安帝紀は貊盤洲とし、桓玄伝と資治通鑑などは枚回洲とする。

桓玄とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(403年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

403–404年の地図に、桓玄が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱1・遷都1・親征1・皇后1・改元1・大赦1
  1. 皇后404年皇后を立てる
  2. 404年劉毅・劉道規(劉裕方の義軍)
  3. 反乱404年劉裕・劉毅・何無忌の挙兵
  4. 改元404年1月1日( 403年12月3日)元号を「永始」とする
  5. 404年1月1日( 403年12月3日)
  6. 遷都404年5月建康 → 江陵

年表

晋の時代を年表で見る

楚・桓楚が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

即位経路が「受禅(易姓)」の18名をデータベースで見る

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