桓玄の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 404年1月1日〜404年6月19日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 403年12月3日から
- 没年
- 404年6月19日36歳(数え年)長生き順同率150位/266人
- 死因
- 処刑敵や次の政権などに、公に処断された死。非業の死このサイトでは、暗殺・処刑・戦死・自害の4つをまとめて非業の死と呼んでいる。同じ死因33人/365人
- 即位経路
- 受禅別の姓・別の王朝の皇帝から位を譲られる形をとった、王朝の交代。(易姓)
- 先代
- 安帝東晋桓玄と安帝に血縁はない
- 次代
- —
- 呼び名
- 姓桓諱玄字敬道幼名霊宝呼び名の見方
- 目立つ記録
- 遷都 1回多い順同率9位
出典
- 在位
- 晋書 巻九十九 列伝第六十九 桓玄伝
- 死因
- 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)/晋書 帝紀(安帝紀)
- 即位経路
- 晋書 列伝第六十九(桓玄伝)
生涯
どんな皇帝か
簒位からまもなく劉裕らの義兵に敗れて西へ逃れ、蜀へ向かう途中で斬られた。晋書の史臣歴史書を編み、その中で評を述べた人は、父の基盤で簒逆した取るに足らない者と断じ、賛は宗族を覆し国を滅ぼしたとする。
即位まで
桓温の庶子正妻以外の女性が生んだ子だったが、父の臨終に後嗣とされて南郡公の爵を継いだ。容貌が際立ち諸芸に通じたが、才能と家柄を恃んで豪傑を気取り、人々に憚られ、朝廷も彼を疑って用いなかった。酔った司馬道子に満座の前で、父は賊になろうとしたと言われ、汗を流して伏し、深く恨んだ。402年、司馬元顕に討たれかけると建康へ攻め入り、道子を安成郡へ移し、元顕を殺した。入京当初は佞人を退けて人材を抜擢し、都は喜んだが、やがて豪奢をほしいままにして朝野を失望させた。貪欲で珍奇を好み、人の名画や邸宅を自分のものにしようとし、奪いにくいときは賭博で取り上げた。顧愷之に預かった絵の厨子の後ろを開けて絵を盗み、開けていないと偽って返したこともあった。403年に頼りの兄の桓偉が死ぬと、服喪が明けてすぐ音楽を奏させ、慟哭したのちに歓を尽くした。同じ年に楚王となって九錫皇帝が功の大きい臣下に与えた九種の特別な品を受け、その冬に安帝に禅位させ、年の暮れに壇に登って位を簒った。
治世と最期
永始と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることし、安帝を平固王に落として尋陽に移し、父を宣武皇帝と追尊亡くなった人に、あとから尊い称号を贈ることした。劉裕を人傑と評して厚く遇し、除くよう説かれても、関隴を平定してから考えると答えた。簒位後は驕奢で遊猟に耽り、民の多くが乱を思うようになった。
404年、劉裕らが京口で挙兵して建康に迫ると、子の升を連れて石頭から船で逃れた。江陵に戻ると軽々しく人を殺し、仁政を勧める殷仲文の諫めを、漢の高祖や魏の武帝も敗れかけたと言って退けた。崢嶸洲で劉毅らに大敗し、蜀へ向かう途中の枚回洲で毛璩の従孫の祐之らの迎撃を受け、益州督護の馮遷に斬られた。
史料について
劉裕を除くよう説いたのを、宋書は或る人とし、南史は桓玄の妻の劉氏とする。斬られた場所を、晋書の安帝紀は貊盤洲とし、桓玄伝と資治通鑑などは枚回洲とする。
桓玄とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
403–404年の地図に、桓玄が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱1・遷都1・親征1・皇后1・改元1・大赦1
- 皇后404年皇后を立てる
- 親征皇帝が自ら軍を率いて戦場に出ること。404年劉毅・
劉道規(劉裕方の義軍) - 反乱404年劉裕・
劉毅・ 何無忌の挙兵 - 改元404年1月1日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 403年12月3日)元号を「永始」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。404年1月1日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 403年12月3日)
- 遷都404年5月建康 → 江陵
年表
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楚・