康帝の人物データ
- 生年
- 不詳年齢は
史書に 記された 年齢から 数えた - 在位
- 342年7月27日〜344年11月17日
- 没年
- 344年11月17日23歳(数え年)長生き順同率216位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 呼び名
- 姓司馬諱岳字世同呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻七 康帝紀
- 死因
- 晉書 帝紀第七 康帝/晉書 卷七十七 列傳第四十七 何充傳
- 即位経路
- 晉書 帝紀第七 康帝
生涯
どんな皇帝か
晋書の贊は、喪に居ては礼を手厚く尽くし、廃れた典礼が興ろうとしていたのに、なぜ寿命が短かったのかと惜しむ。
即位まで
326年に呉王、翌年に琅邪王となり、339年に司徒朝廷で最も位の高い大臣の一つとなった。琅邪王のとき名望ある家から妃が選ばれ、詔で褚裒の娘が迎えられた。成帝が病むと、外戚皇帝の母や皇后の実家の一族の庾冰は代替わりで一族が疎んじられるのを恐れ、強敵がいるとして年長の君を立てるよう説いた。何充は父子で伝えるのが旧典だと反対したが、庾冰は聞かなかった。成帝の詔で後継とされ、342年に即位した。
治世と最期
喪中は口をきかず政治を庾冰と何充に委ね、成帝の葬送では閶闔門まで歩いて柩に従った。大業を継げたのは二人の力だと言うと、何充は、即位は庾冰の力で、自分の議が通っていれば今の太平の世は見られなかったと答え、康帝は恥じ入った。343年に建元元号を新しく立てること。またその名の元号と改元元号(年の呼び名)を新しいものに改めることしたが、郭璞の予言がこの元号と帝の諱を指すと告げられた庾冰は、吉凶は改めて救えるものではないと嘆いた。
同じ年、顧和の議に従って南北の郊祭都の郊外で天や地を祭る儀式をともに自ら行った。成帝の死から1年で喪服を改めるよう役所が奏すると、詔で喪を軽くするのは弊害の始まりだと述べた。
343年には中原の経略を議させ、庾翼を征討大都督多くの軍をまとめて率いる総大将として襄陽に移らせた。庾冰は都督軍をまとめて指揮する長官・江州刺史州という地方の区画を治めた長官として外に出て、何充が政治を輔けた。病が重くなると、庾冰と庾翼は会稽王昱を後継に望んだが、何充の建議で子の司馬聃が皇太子に立てられた。344年、皇太子を立てた2日後に死んだ。
史料について
康帝紀は、予言がのちに果たして的中したと記す。郭璞伝は同じ予言を文言を変えて伝える。晋書の礼志は喪服の詔を343年の初め、成帝の皇后杜氏の命日のこととし、素服喪のときに着る、白く飾りのない服は元のままとされたと記す。庾翼伝と資治通鑑では、庾翼は制止を聞かずに自ら移り、のちに詔で追認された。皇太子を建議した者を康帝紀は書かない。康帝紀は病の経過を記さず、病が重くなったと書くのは何充伝と資治通鑑で、このサイトは病死とする。
康帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
342–344年の地図に、康帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
皇后1・改元1・大赦2
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。342年7月27日即皇帝位、大赦(即位に伴う大赦)。
- 改元343年元号を「建元」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。343年
- 皇后343年立皇后褚氏。
東晋の歴代皇帝
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