康帝
東晋|在位 342–344年
- 諱(本名)
- 司馬岳
- 在位
- 342–344年
- 在位期間
- 2年114日365名中250位
- 即位経路
- 世襲
- 死因
- 不詳
- 即位時年齢
- 不詳
- 没年齢
- 23歳(数え年)269名中・長寿順219位タイ
- 改元
- 1回332名中142位タイ
- 大赦
- 2回267名中152位タイ
- 立后
- 1回204名中52位タイ
- 皇太子廃立
- 0回
- 親征
- 0回
- 反乱鎮圧
- 0回
- 被反乱
- 0回
- 遷都
- 0回
順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:康帝
即位の経緯
成帝の同母弟。成帝の病が重くなった際、中書監庾冰が外戚庾氏の権勢維持のため「国に強敵あり、年長の君主を立てるべき」と説き、成帝の子ではなく弟の司馬岳を後継に立てさせた。
出典: 晉書 帝紀第七 康帝
死因の経緯
建元2年(344年)9月戊戌、式乾殿で崩御(享年23)。成帝の場合に見られる「不豫」のような病気を示す婉曲表現もなく、原文は「帝崩」とのみ記し死因の記述を欠く。
出典: 晉書 帝紀第七 康帝
調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)
各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。
改元回数
在位中(咸康八年六月〜建元二年九月)に確認できる改元は建元元年正月の「建元」への改元1回のみ。
大赦回数
「大赦」と明記された記事のみを計上(即位時と建元二年十一月の2件)。建元元年正月条は「改元、振恤鰥寡孤独」とあるのみで「大赦」の語がないため対象外とした。
立后回数
在位中の立后は褚氏の一度のみ。廃后・再冊立の記載はない。
皇太子廃立回数
建元二年九月丙申、皇子聃(後の穆帝)を皇太子に立てた記事はあるが、これは新規の立太子であり廃立ではない。在位中に皇太子を廃した記載は本紀中に見当たらない。
親征回数
晋書帝紀第七・康帝(司馬岳)在位期間(咸康八年六月甲午即位~建元二年九月戊戌崩御)の記事を確認したが、皇帝自身が軍を率いて出陣した記述(「帝自将」等)は見当たらない。該当記事なし。
反乱鎮圧回数
在位期間中、東晋の統治下(臣下・服属地域)による反乱・離反の記述は見当たらない。この期間の軍事記事(益州刺史周抚らの李寿討伐、石季龙vs慕容皝、張駿vs南羌・石季龙、杨谦vs李势将申阳など)はいずれも成漢・後趙・前燕・前涼といった対等な独立政権同士の対外戦争であり、東晋内部の反乱には該当しないため反乱鎮圧としてカウントしない。該当記事なし。
被反乱回数
rebellionSuppressionCountと同様、在位期間中に東晋内部(臣下・服属地域)からの反乱・挙兵・クーデターを受けた記述は見当たらない。崩御も疾病(「帝不豫」の記述なし、崩御記事のみ)によるもので反乱・弑逆の兆候はない。該当記事なし。
遷都回数
晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。
即位時年齢・没年齢
崩御時年齢23歳は本紀に「時年二十三」と直接記載。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。
在位中の出来事(4件)
改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。
大赦342年7月27日咸康八年六月甲午、即皇帝位、大赦(即位に伴う大赦)。
出典: 晉書 帝紀第七 康帝
改元日付不詳建元元年春正月、改元(前帝の元号「咸康」を咸康八年末まで継続使用した後、翌年正月に新元号「建元」を建元)。
建元元年春正月、改元(前帝の元号「咸康」を咸康八年末まで継続使用した後、翌年正月に新元号「建元」を建元)。即位に伴う最初の建元として計上。
出典: 晉書 帝紀第七 康帝
大赦日付不詳建元二年十一月己巳、大赦。
出典: 晉書 帝紀第七 康帝
立后日付不詳咸康八年十二月壬子、立皇后褚氏。
出典: 晉書 帝紀第七 康帝