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東晋第3代

成帝司馬衍

在位 325–342年(16年280日)325年10月19日 〜 342年7月26日

日本は古墳時代

東晋の明帝の長子で、幼くして即位し、蘇峻の乱で石頭に移され、若いうちは舅の庾氏に政治を握られた。

成帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 325年10月19日〜342年7月26日
16年280日長い順71位/365人5歳で即位(数え年)
没年
342年7月26日22歳(数え年)長生き順同率223位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 明帝東晋成帝は明帝の子
次代
  • 康帝東晋康帝は成帝の弟
呼び名
姓司馬諱衍字世根廟号顕宗呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻七 成帝紀
死因
晉書 帝紀第七 顯宗成帝
即位経路
晉書 帝紀第七 顯宗成帝

生涯

どんな皇帝か

晋書は、武勇は前代に及ばないが恭倹は先人に並ぶとしつつ、政治は舅から出て威光が振るわなかったと評する。

即位まで

325年に明帝が没した翌日に即位し、母の庾太后がして、王導と太后の兄の庾亮が政を輔けた。

治世と最期

幼いころは王導に会うたびに拝礼し、には恐れ入って申し上げると書いた。326年、南頓王司馬宗が罪ありとして誅された。

庾亮は蘇峻を都へ召そうとし、王導や温嶠が止めても聞かず、327年、蘇峻は祖約とともに挙兵した。翌年、都は陥ちて賊兵が太后の後宮に乱入し、庾太后は辱めを受けて憂死した。成帝は泣きながら石頭へ移され、幽閉の中でも劉超から孝経と論語を学んだ。328年、蘇峻は落馬して斬られたが、賊は弟の蘇逸を帥に立てて抵抗を続けた。329年、劉超と鍾雅が成帝を連れ出そうとして捕らえられると、成帝は二人を抱いて泣き、わたしのと右衛を返せと言ったが、二人は殺された。まもなく成帝は救い出されたが、宮殿は灰となっていた。乱の後、陶侃が二人を殺した任讓の助命を願うと、成帝は許せないとして誅させた。

南頓王の行方を問い、謀反で誅したと庾亮に聞くと、舅が人を賊と言えば殺すが、人が舅を賊と言えばどうするのかと泣き、庾亮は顔色を変えた。のちに庾亮の弟の庾懌が毒酒を送った疑いが出ると、大舅が天下を乱したのに小舅もかと怒り、庾懌は毒を仰いで死んだ。334年と336年の旱には、御膳を減らさせた。長じては政務に心を留めて倹約に努め、後園の射堂も費用がかかるとしてやめた。342年に病が重くなると、幼い子ではなく同母弟の司馬岳を後継に指名して没した。

史料について

司馬岳を立てるよう庾冰がの権勢を保つために説いたと、康帝紀・何充伝・資治通鑑は記し、何充伝と資治通鑑は何充が反対したとも記す。成帝紀にはこの経緯が無い。魏書は、成帝の死後に庾冰が成帝の子を廃して司馬岳を立てたと書く。

成帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(325年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

325–342年の地図に、成帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱4・皇后1・改元2・大赦10
  1. 325年10月19日太子(成帝)即皇帝位、大赦。
  2. 改元326年元号を「咸和」とする
  3. 326年大赦・改元。
  4. 反乱326年劉遐部曲将李龍・史迭の抗命(郭默赴任拒否)
  5. 反乱327–329年蘇峻・祖約の乱
  6. 反乱328年張璉、始興に拠り反す
  7. 329年蘇峻の乱平定後の大赦。
  8. 反乱329–330年郭默の乱
  9. 330年
  10. 332年
  11. 改元335年元号を「咸康」とする
  12. 335年
  13. 336年立皇后杜氏にあわせ大赦。
  14. 皇后336年杜氏を皇后に立てる。
  15. 339年
  16. 340年
  17. 342年2月28日大赦(同年六月に帝は崩御)。

東晋の歴代皇帝

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年表

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東晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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