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明帝の肖像画

東晋第2代

明帝司馬紹

在位 322–325年(2年287日)323年1月4日 〜 325年10月18日 ( 322年閏11月11日から)

日本は古墳時代

元帝の後を継ぎ、即位の2年後に王敦の乱を平らげ、その翌年に病で没した。

明帝の人物データ

生年
不詳年齢は史書に記された年齢から数えた
在位
  • 323年1月4日〜325年10月18日 322年閏11月11日から
2年287日長い順232位/365人即位の年齢は不詳
没年
325年10月18日27歳(数え年)長生き順同率200位/266人
死因
同じ死因169人/365人
即位経路
先代
  • 元帝東晋明帝は元帝の子
次代
  • 成帝東晋成帝は明帝の子
呼び名
姓司馬諱紹字道畿廟号粛祖呼び名の見方

出典

在位
晋書 巻六 明帝紀
死因
晉書 帝紀第六 肅祖明帝
即位経路
晉書 帝紀第六 肅祖明帝

生涯

どんな皇帝か

晋書は、聡明で機に臨んで決断し、在位は短かったが長江上流の勢力を分けて規模は大きかったと評する。

即位まで

元帝の長子で、母はの荀氏であり、同母弟に司馬裒がいる。幼いころ、日と長安のどちらが遠いかを問われ、翌日は逆の答えをして理由を述べ、元帝を驚かせた。元帝は司馬裒を立てたいと王導に漏らしたが、王導が年長を立てるべきだと答え、太子の位は定まった。太子となってからは生まれつき孝心が厚く、文辞を好んで武芸も習い、王導・庾亮・温嶠らを親しく遇した。322年の王敦の乱で官軍が敗れると、自ら決戦に出ようとして温嶠に車の鞅を断たれて止められた。322年の暮れ、元帝が没した翌日に即位し、元帝に疎まれていた母を建安君に封じ、翌年のうちに宮中へ迎えて手厚く仕えた。

史料について

母の封号を、明帝紀は建安郡君、荀氏伝は建安君とする。

治世と最期

元帝の葬送では裸足で陵まで歩いた。あるとき王導から、司馬懿が晋の基を開いた経緯と高貴郷公の殺害の話を聞くと、顔を寝台に伏せて、それなら晋の命運がどうして長く続こうかと言った。

324年に王敦が挙兵を図ると、明帝は駿馬で忍んで陣営を探った。王敦は黄色い鬚の鮮卑奴が来たと言って追手を出したが、明帝は七宝の鞭と水で冷やした馬糞で追手をまいた。同じ年、病の王敦に代わり王含・銭鳳らが迫ると、明帝は自らを率いて陣を置き、兵が夜に川を渡って夜明けに越城で大破し、王敦はまもなく死んだ。乱の後、王敦の遺体はの議で掘り出されて斬られたが、郗鑒の進言で家族が葬ることを許し、王敦の一族は罪に問わないと詔した。

325年に子の司馬衍を皇太子に立て、同じ年に病が重くなると、司馬羕・王導・庾亮らにを受けさせて太子を輔けさせ、東堂で没した。前日の詔は、大きな恥をすすげないまま世を去ることを嘆き、亡骸は普段の衣服で質素に納めるよう命じている。

史料について

王導との問答は、晋書の宣帝紀が司馬懿の猜忌を論じる末尾に置く話で、年は書かれない。陣営を探った話は明帝紀にあり、資治通鑑には載らない。

明帝とつながる皇帝

五胡十六国の勢力図(322年)

勢力図

五胡十六国の勢力図で見る

322–325年の地図に、明帝が治めた国が描かれています。

在位中の出来事

反乱5・親征1・皇后1・改元1・大赦3
  1. 323年1月4日( 322年閏11月11日)永昌元年閏月庚寅、太子(明帝)が即位して大赦した(元帝の崩御は前日の己丑)。
  2. 反乱323年3月越巂太守李釗・漢嘉太守王載の郡叛(成漢へ降伏)
  3. 改元323年5月元号を「太寧」とする
  4. 皇后323年7月庾氏を皇后に立てる。
  5. 反乱323年7月〜323年8月梁碩の反乱(交州侵攻)
  6. 324年王敦の乱平定・帝の還宮に伴う大赦(敦の党与のみ除く)。
  7. 324年王敦(反乱軍、王含・銭鳳・周撫・鄧岳ら)
  8. 反乱324年王敦の再挙兵(第二次反乱)
  9. 反乱325年1月( 324年12月)顧颺(沈充旧部将)の武康挙兵
  10. 反乱325年1月( 324年12月)梁水太守爨亮・興古太守李逷の郡叛(成漢へ降伏)
  11. 325年4月皇子衍を皇太子に立てるのに伴う大赦。

東晋の歴代皇帝

歴代11人の一覧

年表

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東晋が中国史のどこにあたるか、同じ時代の王朝と前後の時代を並べて見られます。

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