中国皇帝統計

明帝

東晋|在位 323–325年

明帝の肖像
諱(本名)
司馬紹
廟号
粛祖
在位
323–325年
在位期間
2年288日365名中233位
即位経路
世襲
死因
病死
即位時年齢
不詳
没年齢
27歳(数え年)269名中・長寿順202位タイ
改元
1332名中142位タイ
大赦
3267名中121位タイ
立后
1204名中52位タイ
皇太子廃立
0
親征
1112名中62位タイ
反乱鎮圧
3225名中129位タイ
被反乱
5289名中97位タイ
遷都
0

順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:明帝

即位の経緯

元帝の長子として即位。

出典: 晉書 帝紀第六 肅祖明帝

死因の経緯

太寧3年(325年)閏八月戊子、東堂で病死(享年27)。他殺を示す記述はない。

出典: 晉書 帝紀第六 肅祖明帝

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

明帝は永昌元年閏月(元帝の元号を継続)に即位し、翌年太寧元年三月戊寅朔に「改元」して太寧と改元した。これが明帝としての最初(かつ唯一)の建元にあたる。原文「三月戊寅朔,改元,臨軒,停饗宴之禮,懸而不樂。」その後、崩御(太寧三年閏八月)までの間に他の改元の記述はない。

大赦回数

『晋書』帝紀第六(明帝紀)より「大赦」「大赦天下」等と明記された全国規模の恩赦を3件カウントした。太寧二年正月庚辰「赦五歲刑以下」は刑期による限定的恩赦のため除外した。①永昌元年閏月庚寅、即位に伴う大赦。②太寧二年秋七月丁酉、王敦の乱平定後の還宮に伴う大赦(敦の党与のみ除外するが全国規模の大赦として算入)。③太寧三年三月戊辰、皇子衍(成帝)立太子に伴う大赦。日付のグレゴリオ暦換算は厳密な干支換算ツールを用いておらず、月単位の近似値である点に留意。

立后回数

『晋書』帝紀第六(明帝紀)太寧元年六月壬子「立皇后庾氏」の1件のみ。原文「六月壬子,立皇后庾氏。」庾氏(庾文君、後の明穆皇后)の冊立で、再冊立等の記述はない。日付はグレゴリオ暦への正確な換算は未実施のため月精度で近似。

皇太子廃立回数

明帝在位中(323年1月~325年10月)に皇太子(司馬衍、後の成帝)が廃されたという記述は本紀中に見当たらない。太寧三年三月戊辰に司馬衍が立太子され、明帝崩御時(同年閏八月)までその地位は継続した。なお、明帝自身がまだ皇太子であった元帝在世時、王敦が『不孝を誣いて廃さんと欲す』(欲誣以不孝而廢焉)との企てを見せたが、温嶠の弁護により沙汰止みとなり実際の廃立には至らなかった(かつ、これは明帝の治世下の出来事ではなく元帝の治世下の出来事であるため、いずれにせよ本カウント対象外)。

親征回数

在位中(323-325年)に確認できた親征は太宁二年の王敦再挙兵鎮圧時の一度のみ。「帝躬率六军」との明記があり、皇帝自身が軍を率いて戦場に赴いた事例として高い確度で親征に該当すると判断した。

反乱鎮圧回数

確認できた鎮圧事例は3件(梁碩、王敦再挙兵、顧颺)。成漢(李雄)への郡太守投降2件(被反乱側に計上)は本紀に武力鎮圧・奪還の記述がないため鎮圧回数には含めていない。石勒(後趙)・劉曜(前趙/漢趙)・李雄(成漢)との交戦(台登侵攻、寧州侵攻、下邳・青州・兗州陥落等)は晋から独立した対等勢力との対外戦争のため反乱鎮圧の対象から除外した。梁碩の挙兵開始時期が元帝代にまたがる点、顧颺を王敦の乱と別件扱いした点でconfidenceをmediumとした。

被反乱回数

鎮圧回数の3件(梁碩、王敦再挙兵、顧颺)に加え、成漢へ投降した郡太守2件(越巂・漢嘉、梁水・興古)を被反乱に追加計上した。この2件は郡単位の離反・投降であり本紀に武力鎮圧の記述がないため鎮圧回数には含めず被反乱のみに計上した(対称基準の例外2『未鎮圧のまま在位終了』に近い扱い)。石勒(後趙)・劉曜(前趙/漢趙)・李雄(成漢)からの純粋な対外攻撃(台登侵攻を除く寧州侵攻、下邳・青州・兗州陥落等)は独立政権との対外戦争のため被反乱から除外した。

遷都回数

晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

崩御時年齢27歳は本紀に「年二十七」と直接記載(太寧三年閏八月戊子)。生年月日・即位時年齢の直接記載は本紀中になし。

在位中の出来事(14件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

被反乱323年1月〜323年2月越巂太守李釗・漢嘉太守王載の郡叛(成漢へ降伏)

首謀者: 李釗・王載

結果: 鎮圧されないまま、成漢(李雄配下の将李驤)に投降・帰服。本紀に奪還・鎮圧の記述なし

太宁元年正月、成漢の李雄が将李驤・任回に台登を攻めさせた際、越巂太守李釗・漢嘉太守王載がそれぞれの郡ごと李驤に投降した(原文「以郡叛、降于驤」)。李雄政権(成漢)自体は晋から独立した対等勢力であり、その侵攻自体は対外戦争として除外したが、晋の地方官である両太守自身の離反・投降行為は服属官吏の反乱(郡県官の背反)に該当すると判断し被反乱に計上した。武力衝突を伴う鎮圧の記述が本紀にないため鎮圧回数には含めていない。降伏という性質上、通常の武装蜂起とは異なる境界事例のためconfidence medium。

大赦323年1月4日永昌元年閏月己丑、元帝崩。

永昌元年閏月己丑、元帝崩。庚寅、太子(明帝)即皇帝位、大赦、生母荀氏を建安郡君と尊す。原文「庚寅,太子即皇帝位,大赦,尊所生荀氏為建安郡君。」日付は調査対象人物情報で与えられた即位日(323年1月4日)を採用。

出典: 晋書帝紀第六

改元323年4月太寧元年三月戊寅朔、改元。

太寧元年三月戊寅朔、改元。永昌から太寧への改元(明帝即位後、最初の建元)。原文「三月戊寅朔,改元,臨軒,停饗宴之禮,懸而不樂。」グレゴリオ暦への正確な日付換算は未実施のため月精度で近似。

出典: 晋書帝紀第六

反乱鎮圧323年5月〜323年6月梁碩の反乱(交州侵攻)鎮圧

首謀者: 梁碩(新昌太守)

結果: 平南将軍陶侃配下の参軍高宝が梁碩を討ち斬り、首は建康に送られた(鎮圧成功)

梁碩は永昌元年(322年)冬十月、元帝代に新昌太守として挙兵していた(元帝紀に「新昌太守梁碩起兵反」)。明帝即位後の太宁元年(323年)五月に交州を陥落させ刺史王諒を殺害するなど活動を継続し、同年六月に陶侃配下の高宝により討たれた。挙兵自体は元帝代に始まるが、明帝代における実際の攻撃・鎮圧行動のみをここに計上した。

被反乱323年5月〜323年6月梁碩の反乱(交州侵攻)

首謀者: 梁碩

結果: 交州陥落・刺史王諒殺害の後、陶侃配下の高宝により鎮圧された

挙兵自体は永昌元年(322年)冬十月、元帝代に開始(元帝紀「新昌太守梁碩起兵反」)していたが、明帝代の太宁元年(323年)五月に交州を陥落させ刺史王諒を殺害するなど実害が生じ、同年六月に鎮圧された。実際の攻撃行動が明帝代に発生しているため被反乱に計上した。

立后323年7月太寧元年六月壬子、庾氏を皇后に立てる。

太寧元年六月壬子、庾氏を皇后に立てる。原文「六月壬子,立皇后庾氏。」

出典: 晋書帝紀第六

反乱鎮圧324年5月〜324年8月王敦の再挙兵(第二次反乱)鎮圧

首謀者: 王敦(王含・銭鳳・沈充・周撫・鄧岳ら)

結果: 王敦は病死し、残党の王含・銭鳳・沈充らも撃破・掃討された(鎮圧成功)

太宁二年五月、王敦が矯詔で子応・兄含に将軍号を授け、帝の近臣公乗雄・冉曾を殺害したのが武力衝突の始まり。六月に挙兵、七月に王含ら水陸五万が南岸に迫るが、帝自ら六軍を率いて迎撃し越城で大破(親征回数と同一事件)。王敦は憤惋のうちに病死。その後も沈充・銭鳳らの残党が抵抗したが劉遐・蘇峻ら援軍が撃破し、賊軍は営を焼いて敗走、帝は還宮し大赦(敦の党与のみ赦さず)。以降「分遣諸将追其党与、悉平之」で残党も掃討された。散発的な残党討伐は同年十二月(顧颺の乱、別項)まで続くが、主要な軍事的決着は七月中に付いたためendDateは八月と概算した。

被反乱324年5月〜324年8月王敦の再挙兵(第二次反乱)

首謀者: 王敦

結果: 王敦軍は帝親征・諸将の反撃により大破され、王敦は病死。反乱側敗北

帝の近臣公乗雄・冉曾が殺害され、帝自身も敦軍来襲時に六軍を率いて迎撃するなど直接の脅威となった事件。鎮圧回数の『王敦の再挙兵』と同一事件。

親征324年7月〜324年8月王敦(反乱軍、王含・銭鳳・周撫・鄧岳ら)

対象: 王敦(反乱軍、王含・銭鳳・周撫・鄧岳ら)

結果: 帝自ら六軍を率いて南皇堂に出陣し、越城の戦いで敵先鋒何康を斬り大破。王敦は程なく憤惋のうちに病死し、残党も掃討された

太宁二年秋七月、王敦が兄王含・銭鳳・周撫・鄧岳らに水陸五万を率いさせ南岸に迫らせると、原文に「帝躬率六军、出次南皇堂」(帝自ら六軍を率い南皇堂に出陣)と明記される。将軍段秀らに千人を渡水させ未明に越城で撃破。反乱鎮圧回数の『王敦の再挙兵』と同一事件。なお同年六月、帝は敦の挙兵計画を察知し自ら騎馬で敦の陣営を偵察したが(「乗巴滇骏马微行、至于湖、阴察敦营垒而出」)、これは単騎での潜行偵察であり軍を率いた出征ではないため親征には含めていない。

大赦324年8月太寧二年秋七月丁酉、王敦の乱平定・帝の還宮に伴う大赦(敦の党与のみ除く)。

太寧二年秋七月丁酉、王敦の乱平定・帝の還宮に伴う大赦(敦の党与のみ除く)。原文「丁酉,帝還宮,大赦,惟敦黨不原。」月精度・グレゴリオ暦への正確な日付換算は未実施のため近似。

出典: 晋書帝紀第六

反乱鎮圧324年12月顧颺(沈充旧部将)の武康挙兵鎮圧

首謀者: 顧颺

結果: 州県の兵が討伐し斬った(鎮圧成功)

太宁二年十二月、沈充の旧部将顧颺が武康で反乱を起こし城邑を攻め焼いたが、州県の兵に討たれ斬られた(原文「州縣討斬之」)。王敦・沈充の乱の残党による散発的挙兵だが、首謀者が異なる(顧颺)ため独立した事件として別途計上した。

被反乱324年12月顧颺(沈充旧部将)の武康挙兵

首謀者: 顧颺

結果: 州県の兵に討たれ斬られ、反乱側敗北

王敦・沈充の乱の残党による散発的挙兵。鎮圧回数の同名事件と同一。

被反乱324年12月梁水太守爨亮・興古太守李逷の郡叛(成漢へ降伏)

首謀者: 爨亮・李逷

結果: 鎮圧されないまま、成漢(李雄)に投降・帰服

太宁二年十二月、梁水太守爨亮・興古太守李逷が郡ごと成漢の李雄に投降した(原文「以兴古叛、降于李雄」)。理由・扱いは越巂・漢嘉太守の事例と同様。

大赦325年4月太寧三年三月戊辰、皇子衍を皇太子に立てるのに伴う大赦。

太寧三年三月戊辰、皇子衍を皇太子に立てるのに伴う大赦。原文「戊辰,立皇子衍為皇太子,大赦,增文武位二等,大酺三日,賜鰥寡孤獨帛,人二匹。」月精度・グレゴリオ暦への正確な日付換算は未実施のため近似。

出典: 晋書帝紀第六

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。