元帝の人物データ
- 生年
- 276年
- 在位
- 晋王317年〜318年
- 皇帝318年4月26日〜323年1月3日旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 322年閏11月10日まで
- 没年
- 323年1月3日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 322年閏11月10日)47歳(数え年)長生き順同率92位/266人
- 死因
- 病死病気や老衰による死。同じ死因169人/365人
- 即位経路
- 自立先の君主から位を受けず、自ら皇帝を名乗った即位。帝号を新たに称した先の君主から皇帝の号を継いだのではなく、自分の代で新たに皇帝を名乗った(王などの位から皇帝になった場合を含む)。
- 先代
- —
- 次代
- 明帝東晋明帝は元帝の子
- 呼び名
- 姓司馬諱睿字景文廟号中宗呼び名の見方
出典
- 在位
- 晋書 巻六 元帝紀
- 死因
- 晉書 帝紀第六 中宗元帝
- 即位経路
- 晉書 帝紀第六 中宗元帝
生涯
どんな皇帝か
晋書は、倹約で刑を慎み中興を開いたとしつつ、雄武の器量は足りなかったとし、強臣を抑えられなかったとも評する。
即位まで
司馬懿の曾孫で、父の跡を継いで琅邪王となり、恵帝の代の王室の騒乱では控えめにふるまって禍を免れた。叔父が成都王穎に殺されると逃れ、河陽の渡しで止められたが、従者の宋典の機転で通された。王導の策で建鄴に移り、王敦・王導らに推し戴かれて、人々は王と馬が天下を共にすると言った。江東に鎮した初めは酒で政務を怠ったが、王導に諫められて杯を伏せ、以後は酒を断った。317年、群臣が尊号たたえて贈る呼び名や、皇帝など君主の位の称号を奉ると、自分は罪人だと泣いて琅邪へ帰ろうとまでしたが、晋王となることは受けた。晋王となって太子を立てるとき、器量が紹にまさると見た子の司馬裒に傾いたが、王導に年長の紹を立てるべきだと説かれ、太子は定まった。翌年、愍帝の死の知らせを受けて即位し、王導を御床に並んで座らせようとしたが、王導が固く辞したのでやめた。
治世と最期
簡素を好み、太極殿に絳色の帳を張る案を退けて、冬は青い布の帳にさせた。鄭夫人の子の煥が幼くして没すると、成人の礼で葬ろうとして陵園を営ませ、諫めの上疏皇帝に意見を書いて差し出すことも取り上げなかった。
322年、王敦が劉隗を討つと称して挙兵した。劉隗は王氏の誅滅を勧めたが、元帝は罪を待つ王導を召し、裸足でその手を取って、国の命運を託そうとしている卿が何を言うのかと述べた。石頭城が開かれて官軍は敗れた。
敗れたのち、元帝は刁協と劉隗の手を取ってむせび泣き、逃れるよう勧めたが、刁協は殺された。王敦には兵を収めなければ琅邪へ帰って位を譲るとまで伝えたが、王敦は自ら丞相皇帝を助けて政治全体を取りまとめた最高位の役職となって戴若思と周顗を殺した。元帝はその年の暮れに、憂憤のうちに内殿で没した。
史料について
憂憤から病になったとするのは資治通鑑で、晋書の紀と王敦伝には病の語が無い。
元帝とつながる皇帝

勢力図
五胡十六国の勢力図で見る
318–322年の地図に、元帝が治めた国が描かれています。
在位中の出来事
反乱7・改元2・大赦4
- 反乱317–319年杜曾・第五猗の反乱
- 改元318年4月26日元号を「太興」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。318年4月26日
- 反乱319年彭城内史周撫の反乱
- 反乱319年龍驤将軍陳川の離反(石勒に降る)
- 反乱319–322年太山太守徐龕の反乱
- 反乱319年秦州刺史陳安の離反(劉曜に降る)
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。320年
- 改元322年元号を「永昌」とする
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。322年
- 大赦国全体の罪人をまとめて赦すこと。322年
- 反乱322年新昌太守梁碩の反乱
- 反乱322年2月〜323年1月3日(旧暦年だけを書く所は、教科書・辞典と同じく、元号の年に当たる西暦の年で書いています。旧暦の年末(11・12月)は西暦では翌年の1・2月に入るので、日付の年が1つ後ろになります。 年の書き方 322年閏11月10日)王敦の乱(永昌元年)
東晋の歴代皇帝
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