中国皇帝統計

元帝

東晋|在位 318–323年

元帝の肖像
諱(本名)
司馬睿
廟号
中宗
在位
318–323年
在位期間
4年300日365名中194位
即位経路
建国
死因
病死
即位時年齢
43歳(数え年)172名中・若い順144位タイ
没年齢
47歳(数え年)269名中・長寿順93位タイ
改元
3332名中45位タイ
大赦
4267名中93位タイ
立后
0
皇太子廃立
0
親征
0
反乱鎮圧
4225名中101位タイ
被反乱
7289名中71位タイ
遷都
0

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順位は同数を同順位として数えています(「タイ」表示)。回数の順位は1回以上、年齢の順位は年齢が判明している皇帝のみが対象です。諡号:元帝

即位の経緯

西晋愍帝の遠縁(司馬懿の曾孫)。永嘉の乱後、建康で晋王を称し(317年)、愍帝の死(318年)を受けて皇帝に即位、東晋を建国。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

死因の経緯

永昌元年(322年)、王敦の乱で建康が陥落し実権を失い、閏十一月己丑、内殿で崩御(享年47)。王敦の専横に憂懼し「敦既得志,欲以帝為傀儡,帝忿憂成疾」とされ、憂憤による発病・崩御と伝わる。直接の他殺の記述はない。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

調査メモ(回数・年齢の数え方と判定根拠)

各項目の回数・年齢を確定した際の調査記録を、原文のまま掲載しています(数え方の基準は 「このサイトについて」参照)。

改元回数

『晋書』帝紀第六(元帝紀)原文で確認できる改元は建武(317年、晋王即位時)→太兴(318年、皇帝即位時)→永昌(322年)の3回。固有注意事項の指示により、皇帝即位以前の晋王即位に伴う建武への改元も東晋建国改元としてeraChangeCountに算入した。永昌元年閏十一月に元帝崩御、次代明帝が太宁に改元しているため、これは元帝の改元回数には含めない。

大赦回数

『晋書』帝紀第六(元帝紀)原文を通読し「大赦」と明記された記事のみカウント。皇帝としての在位期間(太兴元年三月〜永昌元年閏十一月=318年〜323年)中の4回を計上。なお建武元年三月辛卯(317年、晋王即位時)にも「即王位,大赦,改元」の記事があるが、これは皇帝即位(太兴元年)以前の晋王時代の出来事であり、皇帝としての在位期間外のため本カウントには含めていない(固有注意事項によりeraChangeCountにのみ建武の改元を建国改元として算入)。

立后回数

『晋書』帝紀第六(元帝紀)に、生前に皇后として正式冊立された記述は見当たらない。太兴三年(320年)八月戊午「尊敬王后虞氏为敬皇后」とあるが、これは晋王時代の王后であった虞氏(既に薨去済み)に対する死後の追尊(追贈)であり、生前の正式冊立ではないため対象外とした(漢宣帝紀等、他の皇帝項目でも追尊は立后カウントから除外する方針と統一)。元帝の在位中に生存する皇后が立てられた記録はなく0回と判定。

皇太子廃立回数

『晋書』帝紀第六(元帝紀)を通読したが、皇太子の廃立(「废太子」「废皇太子」等)を示す記述は見当たらない。建武元年(317年)「丙辰,立世子绍为晋王太子」で世子・司馬紹を晋王太子に立て、太兴元年(318年)皇帝即位直後の「庚午,立王太子绍为皇太子」で晋王太子から皇太子へ改めて立てているが、いずれも立太子であり廃立ではない。司馬紹はそのまま元帝崩御まで皇太子の地位を保持し、永昌元年閏十一月に明帝として即位した。

親征回数

『晋書』帝紀第六・元帝紀(在位317-323年)を通読したが、皇帝自身が軍を率いて出征したことを示す「帝自将」「親征」等の記述は見当たらない。唯一近い記述は永昌元年(322年)三月の王敦の乱の際「帝親被甲徇六師於郊外」(帝自ら甲冑を着け建康郊外で六軍を巡閲した)だが、これは籠城側の防衛態勢を鼓舞するための親閲であり、実際に軍を率いて出撃・攻撃・追討したという記述はないため親征には含めない。なお即位前(愍帝期・丞相時代)の「帝出師露次、躬擐甲冑…征天下之兵、克日進討」(長安救援の動員)は在位開始(317年)以前の出来事のため対象外とした。該当記事なし。

反乱鎮圧回数

服属官・将軍による離反(杜曾・第五猗、周抚、徐龍、王敦)の4件を鎮圧回数に計上した。一方、龍驤将軍陳川(太興二年四月、浚仪で叛き石勒に降る)、秦州刺史陳安(太興二年、劉曜に降る)、新昌太守梁碩(永昌元年十月挙兵、Yuandiの在位中には鎮圧行動が着手されず翌年〔明帝期〕に鎮圧された)の3件は、Jin朝廷による積極的な鎮圧行動が在位期間中に確認できない(または在位終了までに未完了だった)ため鎮圧回数には含めず、被反乱回数のみに計上した(基準の例外1・2に該当)。南陽王保が太興二年に祁山で『晋王』を自称した件は、司馬保が実質的に建康政権の統治機構下になかった独立の宗室勢力であり、対等勢力の抗争に近いと判断し両方から除外した(確信度中、要再検討)。徐龍の件は最終的にJin自身ではなく後趙によって決着した特殊な事例。

被反乱回数

鎮圧回数4件(杜曾・第五猗、周抚、徐龍、王敦)に加え、Jin側の鎮圧行動が在位中に確認できない離反3件(陳川、陳安、梁碩)を被反乱回数に追加計上し、合計7件とした。これは基準に示された正当な食い違い理由(1: 粒度差ではないが、2: 未鎮圧のまま在位終了に相当するケースが複数)に該当すると判断した。陳川・陳安については『降於石勒/劉曜』という記述を、服属官による離反(反乱)とみなして計上したが、外部勢力への投降を『反乱』とみなすべきか単なる勢力交代とみなすべきかは解釈の余地があるため確信度を中とした。南陽王保の太興二年『晋王』自称は独立宗室勢力とみなし除外した。

遷都回数

晋書帝紀を通読。元帝の建康定都(建国時の定都)から恭帝禅譲(420年)まで一貫して建康が都、王敦・孫恩・盧循の乱等での一時的な戒厳はあったが恒久的な遷都の記録はない。

即位時年齢・没年齢

生年は本紀冒頭「咸寧二年生於洛陽」(276年、年精度)、没年齢は崩御記事に「時年四十七」と、いずれも直接記載。即位時年齢43歳は、直接記載された生年(276年)と即位年(318年、reigns.startDate=0318-03-10、新暦上安全な範囲で年ズレなし)から逆算:318-276+1=43。没年齢47歳(276+47-1=322年相当)とも整合し、reigns.endDate=0323-01-03(閏月・年始近接のため322年相当の可能性)とも矛盾しない。

在位中の出来事(18件)

改元・大赦・立后・皇太子廃立・親征・反乱鎮圧・被反乱・遷都の8項目で確認した出来事を日付順に並べています。日付は史料の記述の細かさに応じて年・月・日で表示し、西暦に換算できていないもの(元号表記のまま)と日付不詳のものは末尾にまとめています。行を開くと調査時の記録と出典が読めます。

改元317年3月建武元年三月辛卯、群臣に推されて晋王に即位し「即王位,大赦,改元」として「建武」の元号を建てた。

建武元年三月辛卯、群臣に推されて晋王に即位し「即王位,大赦,改元」として「建武」の元号を建てた。皇帝即位(太兴元年)に先立つ晋王時代の建元だが、東晋建国に伴う最初の改元として固有注意事項に従いeraChangeCountに含める。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

反乱鎮圧317年9月〜319年5月杜曾・第五猗の反乱

首謀者: 杜曾(荊州刺史第五猗を巻き込む)

結果: 最終的に鎮圧成功(杜曾は斬られ、第五猗は捕らえられた)

建武元年、荊州刺史第五猗が『賊帥』杜曾に推されて同反。王敦が武昌太守趙誘・襄陽太守朱軌・陵江将軍黄峻を派遣し討伐させたが敗死(趙誘等皆死之)。その後梁州刺史周訪が杜曾討伐を継続し、太興二年(319年)五月甲子、周訪が武当で杜曾を斬り第五猗を捕らえて鎮圧完了。第五猗はJinの荊州刺史(服属官)であり、対等勢力との抗争ではなく服属官の離反と判断した。

被反乱317年9月〜319年5月杜曾・第五猗の反乱

首謀者: 杜曾(荊州刺史第五猗を巻き込む)

結果: 最終的に鎮圧された(杜曾斬殺・第五猗捕縛)

鎮圧回数と同一事件。

改元318年3月10日太兴元年三月丙辰、愍帝崩御の報を受けて皇帝に即位し「于是大赦,改元,文武增位二等」として「建武」から「太兴」に改元。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

大赦318年3月10日太兴元年三月丙辰、愍帝崩御の報を受け皇帝に即位した当日に「大赦,改元,文武增位二等」。

太兴元年三月丙辰、愍帝崩御の報を受け皇帝に即位した当日に「大赦,改元,文武增位二等」。皇帝即位に伴う全国規模の大赦。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

反乱鎮圧318年12月〜319年2月彭城内史周抚の反乱

首謀者: 周抚

結果: 鎮圧成功(太山太守徐龕により誅殺・伝首京師)

太興元年末(十二月前後、正確な日付は不明のため月精度とした)、彭城内史周抚が沛国内史周黙を殺して反乱。翌太興二年(319年)二月、太山太守徐龕がこれを討ち斬って首を京師に伝えた。当時徐龕はまだJinに服属していた(後述の通り自身も同年反乱するが本件とは別件)。

被反乱318年12月〜319年2月彭城内史周抚の反乱

首謀者: 周抚

結果: 鎮圧された(誅殺)

鎮圧回数と同一事件。

反乱鎮圧319年4月〜322年7月太山太守徐龕の反乱

首謀者: 徐龍

結果: 経過は一進一退(数度にわたり反乱・降伏を繰り返す)で、朝廷は太興二年八月に羊鑑・蔡豹を派遣し討伐を試みたが決着せず、最終的に永昌元年七月、後趙の石季龍(石虎)に太山を攻略され徐龕は捕らえられた(Jin自身による鎮圧完了ではなく外敵の後趙に敗れて事実上消滅)

太興二年(319年)四月、太山太守徐龍が郡ごと叛き自ら兗州刺史を号して済岱を寇した(同月中に彭城の周抚討伐にも関与済み)。同年八月、朝廷は太子左衛率羊鑑(行征虏将軍)・徐州刺史蔡豹を派遣し討伐させた。その後徐龕は太興三年(320年)五月に一旦帰順したが同年九月に再び叛いて石勒に降り、太興四年(321年)二月にまた帰順するなど反乱と帰順を繰り返した。最終的に永昌元年(322年)七月、後趙の石季龍(石虎)が太山を攻略し守将となっていた徐龕を捕らえて事件は終息した。同一首謀者(徐龕)による一連の離反として1件と数えたが、鎮圧主体がJin自身ではなく最終的に外敵(後趙)による決着だった点は特殊であり、注記した。

被反乱319年4月龍驤将軍陳川の離反(石勒に降る)

首謀者: 陳川

結果: 石勒に投降、以後Jinに帰順せず(Jinによる追討・鎮圧の記述なし)

太興二年四月、龍驤将軍陳川が浚儀で叛き石勒に降った。Jin側がこれを討伐・追討したという記述は原文になく、鎮圧行動が確認できないため鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上した(基準の例外1・2に相当)。

被反乱319年4月〜322年7月太山太守徐龍の反乱

首謀者: 徐龍

結果: 反乱・帰順を繰り返した末、最終的に後趙に太山を攻略され捕らえられた

鎮圧回数と同一事件。

被反乱319年4月秦州刺史陳安の離反(劉曜に降る)

首謀者: 陳安

結果: 劉曜に投降、以後Jinに帰順せず(Jinによる追討の記述なし。のちに劉曜配下として劉曜自身に対して叛いたが、それはJinとは無関係)

太興二年、秦州刺史陳安が叛いて劉曜(前趙)に降った。Jin側の追討記述がないため鎮圧回数には含めず被反乱回数のみに計上した(基準の例外1・2に相当)。

大赦319年12月太兴二年十二月乙亥、「大赦,诏百官各上封事,并省众役」。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

改元322年1月永昌元年正月乙卯、「大赦,改元」として「太兴」から「永昌」に改元。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

大赦322年1月永昌元年正月乙卯、「大赦,改元」。

永昌元年正月乙卯、「大赦,改元」。永昌への改元に伴う大赦。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

反乱鎮圧322年1月〜322年4月王敦の乱(永昌元年)

首謀者: 王敦(大将軍、Jinの重臣・服属する将軍)

結果: 鎮圧失敗。永昌元年四月、劉隗・戴若思ら官軍が石頭城攻防で敗北(六軍敗績)、尚書令刁協は殺害され、王敦は自ら丞相・都督中外諸軍・録尚書事を称し実権を掌握した。帝は使者を送り和睦を求めるほかなく、以後在位終了(323年閏十一月崩御)まで王敦の専権下に置かれた。

永昌元年正月戊辰、大将軍王敦が武昌で挙兵(劉隗誅殺を名目)、龍驤将軍沈充も呼応。帝は司空王導を前鋒大都督とし、征西将軍戴若思・鎮北将軍劉隗らを召還して防戦したが、四月に石頭城の戦いで大敗(六軍敗績)。王敦は自ら丞相を称して以後専権、帝は名目上の皇帝に留まり永昌元年閏十一月に崩御(憂憤により発病)した。王敦はもともとJinに服属する大将軍・重臣であり、対等勢力ではなく服属する臣下の反乱と判断した。鎮圧回数としては積極的な軍事的鎮圧の試みが四月の敗北で事実上終結したためこの時点を終了とした(被反乱としては帝の在位終了まで継続的な圧力下にあったと扱う)。

被反乱322年1月〜323年1月3日王敦の乱(永昌元年)

首謀者: 王敦(大将軍、Jinの重臣・服属する将軍)

結果: 官軍は敗北し王敦が丞相として実権を掌握、帝は名目上の地位に留め置かれ、専権下での憂憤により発病、在位終了(永昌元年閏十一月己丑)に崩御した

鎮圧回数の同事件と同一の反乱だが、被反乱としては帝が実際に軍事的圧迫を受け続けた期間として在位終了(崩御日、既存データのreigns.endDate=0323-01-03)まで含めた。deathCauseの『忿憂成疾』との内容重複を許容する(別軸の集計のため)。

大赦322年4月永昌元年四月辛未、王敦の挙兵・石頭城攻略の混乱の中で「大赦」(王敦はその後自ら丞相を称した)。

出典: 晉書 帝紀第六 中宗元帝

被反乱322年10月新昌太守梁碩の反乱

首謀者: 梁碩

結果: 帝の在位終了(322年閏十一月崩御)まで鎮圧行動が着手されず未鎮圧のまま。翌太寧元年(323年、明帝期)に交州刺史王諒を殺害するなど拡大し、同年六月に陶侃配下の高宝によりようやく討たれた

永昌元年冬十月、新昌太守梁碩が挙兵反乱。原文の記述順から帝崩御(閏十一月)以前の挙兵と判断した。鎮圧が明帝期にずれ込んだため鎮圧回数には含めず(基準の例外2)、被反乱回数のみに計上した。

収録基準・各項目の数え方・出典はこのサイトについてを、時代の中での位置は通史年表をご覧ください。